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映画のパンフレット程の比較的薄い厚さのワークは、基本の五教科分、全部で5冊ある。
まずは得意なものから終わらせてしまおう、と開いた英語ワークの最初のページの問題が解き終わり、隣のページに移ろうと少し顔を上げた時、ふと国光のペンが止まっているのに気づいた。
どうしたんだろうと横を見れば、彼の視線は私の英語のワークに向けられていて、すぐに私に気づいた国光はハッとした表情で自身のワークへと視線を落とした。
「どしたの?」
小声で聞けば彼は少し言いにくそうに、いや、と呟き、またそっと私のワークへと視線を送った。
「相変わらず、綺麗な字だと思っただけだ」
「えっ…ありがとう…?」
数年間書いていたのもあって慣れはあるが、面と向かってそう言われるとなんだか照れてしまう。
「国光も字綺麗だと思うけど…」
ちらりと隣に広がる社会のワークに目を移しながらそう言えば、そのワークの向こうでペンを持つ左手が僅かに動いた。
「…そうか、ありがとう」
ふ、と僅かに口端を上げた国光は、その表情のような柔らかな音色でお礼を言うとすぐに自身のワークへと視線を落とし、問題の続きへとペンを走らせた。
「い、いえ…?」
…な、何だこの空気…
居心地が良いような悪いような、体がもそもそするような、不思議な気分だ。
ふと、少し前に借りた恋愛小説を読んだ時の、あの言い様のない複雑な感覚を思い出した気がした。
それ以降国光は口を閉ざし、私も特に何かを話すことなくまた無言の時間が流れ、いつの間にか互いに集中した時間が過ぎていく。
そろそろ休憩しようかな、と思う頃には、もうあの不思議な感覚はさっぱり消えて無くなっていた。
伸びをしながら時刻を確認すれば、いつの間にかラケットの受け取り時間まであと30分程だ。
「この時間だけで大分進んだな」
「ね、休憩がてら本でも読んでく?」
折角図書館に来たんだし、と沢山の棚を見回しながら聞けば、国光は少し考えてから徐に口を開いた。
「少し聞きたいことがある」
「うん?何?」
「今読んでいる途中の本があるんだが…」
彼がバッグから取り出したのは、アメリカにいた時に見た事がある有名なミステリー小説だ。
ただそれは日本語に翻訳されたものではなく、しっかりと英語で書かれている。
そう言えば彼は洋書をよく読んでいたっけ。
「懐かしいな、それ」
「知っていたか」
「本は読んだことは無いけど、ドラマでなら見てたよ」
ひょんなことから奇才と呼ばれる探偵と関わり、共に様々な難事件を解決していく一人の記者の青年を主人公とした、割と良くある物語。
だが、見ているこちらにも推理をさせるような魅せ方と、巧妙に組まれたトリックが話題となり、ミステリー好きにこの作品を知らない人はいないと言われているものだ。
「ここまでは分からない単語を調べながら読んだんだが、たまに納得いかない和訳になるときがある」
なんとなく言っていることの意味は分かるのだが、本文に出てくる英語独特の言い回しを教えて欲しい、とのこと。
英語独特の言い回し…パッと思いつかないな…
「…例えば?」
「そうだな…」
国光が本へと視線を落とし、ぱらぱらとページを戻していく。
やがてとあるページで手を止めた彼は、すっと一文を指さした。
「この、"On my way"…前の文から考えると"道にいる"となるんだが」
「うん?」
「これはどう訳す?」
“What are you doing where?”(どこで何をしているんだ?)
“On my way!”
「あー、これは、"今向かってるよ"って感じかなぁ?主語も省略されてるし、ビックリマークも付いてるから、"向かっとるわ!"みたいな感じかも」
他にも前後の文次第では、"我が道を行く"なんて訳されることもあるかな、と言えば、彼は理解したようになるほどと頷いた。
「日本語訳って難しいよね…その分、英語よりも細かい表現が出来て便利だけど」
「そうだな……もう一つ聞いてもいいか」
「いうてこっちで言う小学生時代だからね、私が向こうにいたの。分かる範囲でなら全然いいけど…」
ぱたんと国光が本を閉じる。
あれ、本文は関係ないのかな。
「"You are the apple of my eye."」
どきりと心臓が跳ねた。
や、そういう意味で言ったんじゃないのは分かってるんだけど、ていうか、
「な、何で見たの…?」
「小学生の頃に読んだ絵本だな。たしか、母親とその息子の物語だったような気がするんだが、当時よく分からなかったのを今思い出した」
「…あ、あぁー…そうなんだ…納得した」
「何か可笑しかったか?たしかそんな文だったと思ったんだが」
少し不安そうな国光に慌てて合ってるよと返し、親子愛の絵本なら納得だ…とホッと息をついた。
「直訳すると、"あなたは私の目の中のリンゴ"なんだけど…これは、日本で言う慣用句みたいなものでね?」
「慣用句だったのか。道理で理解できないはずだ」
「意味は、"あなたは私の目の中に入れても痛くない程愛おしい"、だよ」
まさか国光からそんな言葉が出るとは思わなかった、と笑えば、彼は一瞬驚いたように目を開き、すぐに私から視線を外した。
「基本親から子供に言うことが多いんだけど、他に訳すとしたら"あなたは何よりも大切な人"みたいな…告白とか恋人に使ったりとか、も……あれ?」
顔を背け、眼鏡を押し上げる彼は、…まさか照れているのだろうか…?
「…照れ光くんですか?」
ぴくりと彼の肩が小さく揺れる。
「…そういう意味があるとは、知らなかった…」
それからその呼び方はやめてくれ、と、元々小声だったそれが更に小さく消えていくその様子に小さく笑えば、コホンと咳払いが一つ返ってきた。
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