縮まった距離
階段を登ったところで偶然見かけた後ろ姿に声をかければ、少し前を歩いていた徳川さんは丁寧に足を止めてこちらを振り返った。
私を視界に入れると僅かに表情を崩し、わざわざ進んでいた道を戻って来てくれる。
「どうした?何か用か?」
そう聞かれたものの、ただ見かけたから反射的に声をかけてしまっただけで、用らしい用はこれといってない。
「す、すみません、見かけたのでつい…!」
慌てて言えば、徳川さんは一度キョトンとした後に口端を緩めた。
「わざわざ声をかけてくれたんだな。ありがとう」
「え、いえ、むしろお邪魔してしまって…」
その優しさに申し訳なさが加速する。
引き止めたことを謝って立ち去ろうと思い顔を上げれば、私の両手に抱えられた冊子類を見て、どこかへ行く所だったのか、と徳川さんに聞かれた。
「明日から中学生組の練習メニューに新しく追加があるみたいで。これから各部屋に届けるところなんです」
「そうか。仕事熱心だな」
「…えへへ、これだけでも褒めてもらえると嬉しくなりますね」
「……そう、か…」
謎に若干詰まったその言葉に頷き、今度は逆に私が徳川さんに同じ質問を返した。
彼の肩には肩掛けのトートバッグが提げられている。
どこか出かける用事でもあったのかな、なんて考えていれば、
「俺は自習室に行こうとしていた」
自習室、と言えば勉強だ。
普段からテニスに関してとてつもなくストイックな徳川さんは、流石、勉強面でもしっかりと自己管理を怠っていないらしい。
「徳川さん、部屋で黙々タイプだと思ってました」
「普段は部屋で勉強しているが、たまに自習室でやると集中できるんだ」
「確かに、自習室の方が勉強している感じがしますもんね」
引き止めてすみません、勉強頑張ってください、と会釈をして階段を降りようとすれば、意外にも徳川さんが私を呼び止めた。
「はい、なんでしょう?」
「キミさえ良ければ、後で自習室に来ないか?」
「えっ、いいんですか…?」
正直歳上でもあり頭のいい徳川さんと一緒に勉強が出来るのは、こちらとしては願ったり叶ったりだ。
でも邪魔にならないだろうか、と不安半分で聞き返せば、勿論だ、と有難い返事が返ってきた。
「じゃあこれを渡し終えたらすぐに行きます!」
「そんなに急がなくていい。転ぶぞ」
「こ、転ばないように急ぎます…!」
今度こそ、また後で、と約束を交わし、私達は一旦背を向けた。
* * *
軽く自習室の扉をノックして開ければ、広い空間には徳川さんしかいなかった。
徳川さんは入ってきた私に気付くとふっと顔を綻ばせ、お疲れ様、と声をかけてくれる。
自習室の一番端に座る徳川さんに近付き、隣に座るか一つ空けて座るかで悩んでいると、すぐに徳川さんが自身の隣の椅子を引いてくれた。
「あ、ありがとうございますっ」
席に着いてバッグから勉強道具と共に道中で買ってきたスポーツドリンクを2つ取り出し、片方をそっと徳川さんのペンケースのそばに置いた。
「これは…?」
「誘っていただいたお礼と、ちょっとした差し入れです。プロテインが入ったものがあれば良かったんですけど」
残念ながら自販機にはそれらしいものは無く、色々と気を使ってる彼に渡すとしたら、と考えて選んだスポーツドリンク。
徳川さんは少し驚いたようにそれを見て、すぐに持っていたペンを置いてスポーツドリンクを手に取った。
「ありがとう。大事に飲ませてもらう」
「そんな大したものじゃ…」
「代わりになるかは分からないが、もし分からないことがあったら遠慮せず聞いてくれ」
「ぜ、是非そうさせて頂きます!」
それから暫くカリカリとペンを動かす音や紙をめくる音が静かに反響する以外、なんの音もなく時間が過ぎていく。
やっぱり自習室だと気合いが入るし、隣に誰かがいてその人も黙々と勉強をしてくれているだけで全然違うなぁ、なんて思いながら順調に進めていた勉強は、とある計算問題で突然躓いた。
「………」
どうしよう、徳川さんに聞こうか…
ちらりと横目で見る徳川さんは、真面目な視線で参考書とノートとを行ったり来たりさせている。
……うーん…公式は合ってるはずなんだけど…何度やっても計算後の答えがそれらしいものにならない。
ペンを止めて問題文と睨めっこをしていると、
「何か分からない所があったのか?」
「あ…これなんですけど…」
声をかけてくれた徳川さんの方へプリントを寄せれば、同時に徳川さんの体が僅かにこちらに傾く。
ひぇ…綺麗な顔が近い…
「……使う公式は合っているな。少しノートを借りてもいいか?」
「はい…!」
私のノートを手元に寄せた徳川さんがさらさらと何かを記入し、少ししてそのノートが返ってきた。
見ればそこには綺麗な図表が書かれている。
「文章が長い問題は、こういう風に図や表を書く癖を付けたらいい」
私の目の前に徳川さんの腕が伸びてきて、まるで先生のようにその図表に細々とした文字や記号を足しながらの説明をしていく。
「…これで、さっき公式に当てはめた数字のどこが違うか分かったか?」
「めちゃくちゃ分かりました…すごい…」
書いてくれた図表の下で新しく公式を使って計算すると、やっとそれらしい答えが算出された。
私の計算を見守っていた徳川さんが小さく頷く。
「正解だ」
「はぁ〜…そういうことかぁ〜…ありがとうございます、すごく分かりやすかったです」
「苗字さんの理解力が高いからだろう。俺は少し助言をしただけだ」
そんなことは無い、と慌てて手を振れば、徳川さんは優しく笑って自身の参考書へと視線を戻した。
…か、かっこいい先輩だ…
私もいつかこうなりたいものだ。
たまに小休憩を挟みながら数時間程…
初めは徳川さんから声を掛けてくれたお陰で質問もしやすくなり、たまに分からないところを聞き、その度にとても分かりやすく説明をしてくれる彼のお陰で、ここ最近では一番はかどった勉強時間となった。
「色々と教えて頂いてありがとうございました。お邪魔ばっかりしてすみません…」
「気にしなくていい。教えるのも勉強になるし、苗字さんは飲み込みも早いからこちらとしても教え甲斐があった」
「いえっ、徳川さんの教え方が上手だからですよ!」
物をバッグにしまいながら、徳川先生ですね、と笑えば、徳川さんは手を止め何かを考えるような素振りを見せ、
「…苗字さん」
と、私をじっと見つめた。
「はい?」
「その…もう、兄とは呼んでくれないのか…?」
「え」
いつだか奏多さんに言わされた、カズ兄、という呼び名が脳内を横切った。
「えっ、や、あれは奏多さんが…!ていうかむしろいいんですか!?」
「構わない、し…キミさえ良ければ、だが…」
「呼びます!呼ばせてください!」
「あ、あぁ…」
なんだか正式に優しい兄が更に増えたようで心がほわほわする。
「カズ兄!」
「…、どうした?」
「えへへへ…」
そうだ!と声を上げれば、徳川さん改めカズ兄が不思議そうな顔を向けた。
「カズ兄も、良ければ名前で呼んでくれませんか?折角なのでこの機会に是非!」
折角呼び名での距離が縮まりそうなのだ。
この機を逃す訳にはいかない。
「…名前、さん?」
「名前でいいですよ!お兄ちゃんは妹にさん付けするんですか?」
妹は兄に敬語を使うのか、と突っ込まれたらおしまいなんだけど…
「っ…わ、分かった、名前」
「ふふふ…改めて呼ばれるとなんかくすぐったいですね」
あの時と同じように視線を逸らすカズ兄は、奏多さんが言っていたように照れているのかもしれない。
自習室を出て別れる直前まで視線は合わなかったけど、別れ際はちゃんと目を見て微笑んでくれたし、きっとそのうちお互い慣れるだろう。
だって、今回は事故じゃないもんね!
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