心配
少し前にこの合宿所にマネージャーとして配属された女子中学生。
聞いたところによるとどうやら齋藤コーチの姪らしい。
去年はいなかった存在、しかも今まで関わりのなかった女子。
初めはどう接していいかも分からず、ただただテキパキと動き回る彼女の存在を、たまに視界の端に映すだけだった。
だが、
「十兄さん、お疲れ様です!」
「おう、いつもありがとよ、名前」
「奏多さんもどうぞ!」
「ありがとう名前ちゃん」
鬼さんや入江さんとあっという間に打ち解け笑い合う彼女を間近で見るうちに、妹がいたらこんな感じなのだろうかと思い始めている自分がいた。
「徳川さんもお疲れ様です。良かったらどうぞ!」
「…あぁ、ありがとう」
冷たくて美味しいですよ〜、と、にこりと笑って俺に冷たいドリンクを渡してくれた彼女は、すぐに背を向けて大きなカートを押し、忙しそうに他のコートへと駆けて行く。
「働き者の妹が出来たみてぇだな」
「ホントにね。名前ちゃんが来てくれてから、どのコートもイキイキしてるように見えるしね」
あながちそれは間違いでは無いとは思う。
現にああして彼女は向こうのコートで種ヶ島さんにちょっかいをかけられていて、その周りにはどんどん人が集まっていく。
練習中なのに、とは思うものの、普段忙しなく動き回っている彼女が楽しそうに笑っているのを見れば、あれが業務中の束の間の安らぎにでもなればと思うところでもあった。
修さん重い!!という、ここ最近ではもう何度も聞いた抗議の声がこちらにまで聞こえてきて、入江さんが、向こうは相変わらずだね…と呆れたように呟いた。
* * *
風呂を済ませ、自室に戻ろうとした時だった。
少し先の階段を、なにやら書類のようなものを抱えた彼女がぱたぱたと下っていくのが見えた。
…髪、濡れていなかったか?見間違いだろうか。
自室は下の階にあるから、俺も必然的に彼女を追うように階段を降りていく。
足音を聞くにどうやら彼女は1階まで降りたようで、どこへ向かっているのだろうかとふと視線を巡らせれば、彼女の背中は入口から外へと向かっていった。
彼女の髪はやはり濡れていて、首にはタオルがかけられていたことから恐らく風呂上がりなのだろう。
それにしても風呂上がりで髪も乾かさずに外に出るなんて、風邪でも引いたら…
一度自室に向かいかけた足はすぐに踵を返し、そっと、入口から少し離れた壁に背を預けた。
「………」
なんとなく彼女の目的は予想していた。
抱えていたあの書類をモニタールームにでも持っていくのだろう。
彼女の部屋はこの棟の上部にあるから、そのうち戻っては来るだろうが…
以前入江さんが彼女に対して、迂闊に目を離せない、と言っていた理由が少しだけ分かった気がした。
確かに今俺の中では、彼女に対して心配という感情が生まれていた。
…どれくらいこうしていただろうか。
暫くして戻ってきた彼女の手にはもうあの書類は無く、やはりコーチ達に届けてきたのだろう。
髪を乾かすよう伝えた方がいいだろうか、と彼女から視線を少し外した時だった。
「あれ?徳川さん?」
「!」
少し遠くから聞こえてきた声にハッと目を開けば、ぱたぱたとこちらに近寄ってくる彼女がいた。
一気に煩くなった心臓を静めていれば、
「どうしたんですか?こんな所で」
誰かと待ち合わせですか?と尋ねる彼女の髪は、少し乾きつつあるものの未だに濡れたままで、ぴょこぴょこと所々が少し跳ねている。
「いや……それより、髪も乾かさずに外に出ていたのか?」
「う、至兄さん達と同じこと言うんですね…」
どうやらコーチ陣にもお咎めをくらったようだ。
「乾かすの面倒で…」
「部屋にドライヤーは無いのか」
「ありますよ…!気が向いたら乾かしてるので、ちゃんと毎日…ほ、ほぼ毎日使ってます…!」
つまりは、使ってない日もあり、使ったとしても暫く濡れたまま放置していることが多いのだろう。
「でもまぁ今日はもうそこそこ乾いてるので、このままでもいいかなーと」
自分でも驚くくらい自然とため息が漏れた。
やはり目を離すのは良くないのかもしれない。
こんな時、鬼さんか入江さんが一緒にいれば、……
「着いてきてくれ」
「へ…?」
歩き出す俺の後ろから小走りな足音が聞こえてきて、少し歩くペースを落とした。
「…え、ここって」
「大丈夫だ、鬼さんと入江さんもいる」
「いやっ、そういうんじゃなくてですね…!?」
声が聞こえたのだろう、俺がドアをノックするより早くカチャリとドアが開き、入江さんが顔を覗かせた。
「やっぱり。名前ちゃんだ」
「こ、こんばんは…」
珍しい組み合わせだね、と笑う入江さんは、彼女の濡れた髪に気づくとちらりと俺を見上げた。
「彼女が髪を乾かさないままうろうろしていたので…」
「なるほどね。おいで、名前ちゃん」
「う…お邪魔します…」
ハムスター小屋に体を向けたまま振り返った鬼さんが、よう、と声を掛け、彼女は再度お邪魔しますと身を縮込ませながら部屋へと入っていく。
その後に続いて、ぱたりとドアを閉めた。
「ダメじゃないか、ちゃんと乾かさなきゃ。風邪を引いたらどうするの?」
ほら、そこに座って、と入江さんがドライヤーと櫛を持ってきて、自分でやると慌てる彼女にいいからいいからと笑顔を向ける。
これでやっと、今度こそ一安心だ。
すぐに入江さんからされるがままになる彼女を横目にベッドに腰掛ければ、鬼さんが隣にどかりと座った。
「弟だけじゃなくて、妹ってのも良いもんだろ?」
「…そう、ですね」
言ってからどことなく胸の辺りがそわそわしてくる。
俺達の会話はドライヤーの音にかき消され、彼女に届かなくて本当に良かったと思った。
それと同時に、先程偶然見つかってしまった時のように、この会話が偶然彼女の耳にも届いていればいいのに、なんて柄でもないことを思ったのはそっと胸の内にしまっておいた。
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