温もりと綻び
ふと目が覚めた。
まだ薄暗い室内で手繰り寄せたスマホで時間を確認すれば、もう少しで夜が明ける頃合だった。
…が、
「………」
思ったより頭と目が冴えてしまっていて、二度寝をしようとは思わなかった。
上段でまだ夢の中にいるであろう毛利を起こさないようにそっとベッドを抜け、頭上に気をつけながら静かに部屋を出た。
…ラケットを持ってくるべきだったか。
いや、今戻って毛利を起こしてしまうのは避けたい。
とりあえず散歩がてら外の空気を吸いに行こう。
「……?」
少し歩いた所で、ふと前方の木の根元に何かが置かれているのが見えた。
あそこは確か、名前が良くコートを眺めている所だ。
忘れ物にしては大きすぎるそれは、なにやら中途半端に布のようなものがかかっていて、都合良く吹いた風がふわりと僅かにそれを持ち上げた。
薄暗い中布の向こうに見えたのは、
「………」
誰かの足先、靴だ。
先程揺れた布は恐らくブランケットの類だろう。
なんとなくそれが誰かは瞬時に理解した。
だが、どうしてこんな時間に一人でここにいるのかは理解できない。
歩幅を広げて近付いた所で、漸くその姿をはっきりと捉えた。
「…名前」
びくりと揺れた体。
勢いよく上げられた顔は俺の身体を伝い、上へ上へと持ち上がっていく。
「……つきさん…?」
どこか不安と安心に揺れる目が俺を捉え、どこか震えを纏う小さな声が耳に届いた。
彼女の様子がおかしいのはすぐに分かった。
「こんな時間にこんな所で何をしている」
いつも通り少し距離を開けてしゃがんでそう尋ねれば、名前は困ったように笑った。
無理矢理笑っているような、どこか苦しそうな笑顔だった。
「…ボールの音、聞いてたんです」
ボールの音…?
誰かコートにいるのか。
眼下のコートに目を向けるが、ボールの音が聞こえるどころか誰もいない。
「あっ、違くて…!いつも皆が打ってるボールの音を、思い出して聞いてたんです…」
「…何故そんなことをしていた?」
俺から視線を逸らした名前は、一人が怖かったから、と、聞き逃してしまいそうな程に小さな声で言った。
きゅ、と掴まれたブランケットが皺を作る。
俺が言葉を考えているうちに、先に名前が口を開いた。
「ツキさんは、どうしてここに…?」
「目が覚めた。二度寝をする気分ではなかったから、散歩に出たら名前がいた」
「…そう、だったんですね」
始めに見た時とは少し違い、不安よりも安堵が色濃く見える笑顔が向けられた。
一人が怖かった、という言葉の通り、偶然にも俺と出会ったことが名前にとって良い事であったのならいい、が…
…こんな時、毛利ならどう対応するだろうか。
「隣に座っても構わないだろうか」
少し考えて紡いだ俺の言葉に、名前は驚いたような顔をしてからすぐに勿論ですと返事をした。
普段は名前の目線に合わせるために数歩引いたところに置いていた体。
今はすぐ隣に名前がいて、俺を見上げるその細い首はいつもより上を向いている。
「あの…お散歩は大丈夫なんですか…?」
「お前が一人になりたいのなら、俺はここを離れよう」
さっと名前の顔が一瞬にして不安に染まった。
「…すまない、そんな顔をされるとは思わなかった」
「っあ、いえ、その…」
「何があったのかは知らないが、俺はここにいる」
見開かれた大きな目はやがてくにゃりと形を変え、きゅっと眉が寄り、名前は顔を伏せてしまった。
ありがとうございます、とくぐもった小さな声が返ってくる。
正直驚いた。
普段から明るい太陽のような、まるで自分とは正反対の彼女しか見ていなかったから、まさかこんな姿を見るなんて思ってもいなかった。
何が彼女をこんな風にしたのか気にはなるが、聞いてもいいものなんだろうか。
頭の片隅でそんなことを考えながら暫く無言の時間が過ぎ、やがて口を開いたのは未だに頭を伏せたままの名前だった。
「夢を、見たんです…」
「…夢?」
「自分のことははっきり見えるのに、それ以外はずっと真っ暗で、誰もいなくて、…それで…」
中途半端な時間に目が覚め、時間も時間だから誰かに会いに行く訳にもいかず、ここでじっと記憶の中のボールの音を聞いていた、らしい。
そっと名前の頭に触れた。
ぴくりと体が動き、ゆっくりと顔が持ち上がって不安そうな目が俺の目とぶつかった。
「俺はここにいる」
ふるりと揺れた瞳は徐々に細く形を変え、今度はしっかりと俺の目を見たまま、ありがとうございます、と静かで少し震えた声が返ってきた。
「また同じようなことがあったら、その時は迷わず俺達の部屋に来るといい」
「え…でも…ツキさんだけじゃなくて、じゅさくんまで起こしちゃうのは申し訳ないというか…」
「気にしなくていい。名前がいつ来ようが、あいつは喜ぶだけだろう」
「そ、そうでしょうか…?」
「あぁ」
複雑そうな、不思議そうな顔をする名前に、頬が緩みそうになる。
思考を切るように立ち上がった。
「体が冷える。戻ろう」
「っえ、はい…!」
慌てたように立ち上がる名前。
急かしてしまったか、と思ったが、名前はえへへと小さく笑って俺の隣に並んだ。
「ツキさん」
「なんだ?」
「ありがとうございます」
「…気にするな」
それから、皆が起きてくるまで話でも、と、名前を連れて休憩室で通っていた学校等の話をしていたのだが…
「………」
俺の横腕に頭を預け、すやすやと規則正しく身体を上下させる名前。
ずり落ちたブランケットをそっとかけ直せば、んふふ、と微かな声が名前の鼻を抜けていく。
その声につられるように、俺の顔も僅かに緩んだ。
起床時間まであと一時間も無いが、今はただ、名前が穏やかな夢を見ていてくれることを願う。
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