人混みの中だったら聞き逃してしまうような小さなその声は、しっかりと私の耳に届いた。
心配させた罰だ、と無言で思い切り傷口に消毒液をかければ、低い呻き声と共に薫の足がびくりと動く。


「…もう、自分の思うままにテニスが出来なくなるかもしれないんだよ」


垂れていく消毒液をコットンでぽんぽんと抑えながらそう言えば、少し間を空けて、はい、と返事が返ってきた。


「お願いだから、もう二度とあんなことしないで」
「……スイマセンでした」
「反省してるなら良し」


おしまい、と大きな絆創膏を貼ったところで、薫が今まで伏せていた顔をクッと持ち上げた。


「名前先輩っ…指が…!」
「あぁ、ちょっと紙で切っただけだよ。大丈夫」


彼の視界から外すように右手を遠ざけ、ぱたんと救急箱を閉じた。


「周りは、暫くアザになるかもね。もし変に痛みが出たら、すぐに病院行くんだよ」
「……はい…」


救急箱とタオルを持って立ち上がり、薫、と呼べば、先程まで一度も合わなかった視線がぱちりと合った。
彼のこんなに不安に揺れる目は、初めて見たかもしれない。


「薫らしく、這い上がっておいで」
「っ……ありがとう、ございます…」


座ったままゆらりと頭を下げた薫に背を向け、私は一人、部室へと戻った。



* * *



パタンとドアを閉めれば、まるで糸が切れたかのように足がフラついた。
ふらふらとベンチに向かい、重力に従うように腰を下ろせばギシリと椅子が小さく悲鳴を上げる。


「はぁーー……」


足の間に救急箱とタオルを置き、その流れでくたりと上半身を倒した。
そのままそっと自分の膝へと触れ、ふぅ、と鼻からため息が抜けていく。
薫の膝に大事がなくて本当に良かった。
自分でやったからこそ、体が自然とセーブをしてくれたのだろう。


「………」


色々なことがぐるぐると頭を回っていく。
だけどどれもが掴めそうで掴めなくて、いや、私がしっかりと掴もうとしていないだけなんだろう。
最早私の頭は、考えることを放棄しつつあって何も考えられない。
そのまま少しボーッとしていたせいで、ガチャリと開いたドアの音への反応が遅れてしまった。


「…!」


なんでもない風を取り繕いながら慌てて顔をあげれば、そこにいたのはラケットを小脇に挟んだリョーマで。


「…あ、リョーマか…」


変に入れていた体の力がふっと抜けていく。
にこりと笑顔を向けた。


「全勝おめでとう」
「あのさ」


私の言葉へ被せるように言うリョーマを見つめれば、彼はふいっと私から視線を外すように自分のラケットバッグへと向かっていく。


「そんな無理して笑わなくていいんじゃない。誰もいないんだから」


私に背を向けるようにしてしゃがみ、ラケットを仕舞ったリョーマはゴソゴソとバッグを漁りながら言う。


「…変わったよね。あんなに泣き虫だったくせに」
「っな…!」
「その膝のこと、話してあるんでしょ」


心配してたよ、先輩達。
そう言いながらバッグを閉じ、くるりとこちらを向いた。


「信用してるんでしょ?だったら、少しは頼ったら」


それか、とリョーマがドアの方へ歩き出す。


「それが嫌ならウチに来ればいいじゃん。オヤジがうるさいんだよね、たまには名前を連れてこいって」
「え…」
「あとその指、早く絆創膏巻いたら?」


自然と落ちた視線の先では、人差し指の腹で真っ赤な液体がぷくりと小さな玉を作っている。
カチャリと開くドアの音に顔を上げれば、すぐにリョーマの背中をドアが隠していく。
もう見えなくなった姿を見つめていれば、またドアが静かに開いた。


「国光…」


いつも通りの無表情、かと思えば……あぁ、その怒っているような心配そうな目は今までに何度も見た。
国光は私の足元に置かれた救急箱と少し汚れたタオルをちらりと見て、また私に視線を戻した。
黙ったまま私の斜め前にしゃがんだ国光は、救急箱を開けて使い捨てのコットンガーゼと消毒液を取り出し、私の右手を掬った。


「!…いっ…」


私が薫にしたように、何も言わずに彼は傷口へと消毒液をかけ、難しそうな表情を変えることなく、テキパキと私の人差し指に絆創膏を巻いていく。
なんとも言えない雰囲気に手を引っ込めることもできずされるがままになっていれば、やがて国光はぱたんと救急箱の蓋を閉めて私の隣にそっと座った。


「…心配、かけてごめん」
「落ち着いたか?」
「…うん」
「あいつらも心配していた」


真っ先にあの場にいた秀と桃の心配そうな顔が浮かぶ。
まだ本入部すらしていない堀尾くん達にも、いらない心配をかけちゃっただろうなぁ…


「皆に謝んないとだ…」


へへ、と困ったように笑えば、ゆっくりと国光がこちらを向いた。


「謝って欲しいんじゃない」
「え…」
「俺達は同じチームだ。だからこそ、時には支え合うことも大切だ。去年河村が言っていたことを忘れたのか」


"俺達が普段どれだけ名前ちゃんに支えられているか……だからこそ、俺達だって名前ちゃんを支えたいし、心配だってするよ。仲間なんだから"


俺の言いたいことが分かるか、とでも言いそうな目が私を見つめた。


「普段お前に支えられている分、俺達もお前を支えたいと思っている。だからいつも言っているだろう、何かあればすぐに言えと」
「…あ…あれって、そういう意味だったの…」


む、と国光が眉を寄せ、小さなため息と共に眼鏡を押し上げた。


「…やはり、伝わっていなかったか……」
「ご、ごめん…」
「この際だからはっきり言っておく。名前、何か思うことがあるのなら、いつでも、何度だって俺達を頼って欲しい。言葉にして欲しい。支えたくても支えられないのは、…なんというか、もどかしい」
「…それは、国光もじゃないの。いつも言葉が足りないんだから」
「………」


事実ではあるものの、言い方やタイミングを間違えたかもしれない。
珍しく言葉に詰まる国光に、無理やり矛先を逸らしてしまったことも含めて小さくごめんと呟けば、彼は視線を切るように立ち上がった。


「…とにかく、今回の件に関して海堂には」
「薫の事なんだけど…!」


ちら、と国光がこちらを振り返った。


「薫とはちゃんと話したから。あの子にも色々葛藤があって、でも自分がしたことへの反省はしてたから…だからこのまま、見守ってあげてくれないかな」


少し考えるような素振りを見せた国光は、やがてふっと目を閉じ頷いた。


「分かった。お前が言うならそうしよう」
「…ありがとう」


こうして、4月期ランキング戦初日は幕を閉じた。


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