雲外に蒼天あり


先程までただ重い薄灰色をしていただけの空は、本屋を出る頃にはぱらぱらと透明な雫を地面に打ち付けていた。
念の為に折り畳み傘を持ってきて良かった。
買ったばかりの本と入れ替えるように肩掛けのバッグから折り畳み傘を取り出し、バッグが濡れないように丁寧に道を歩いていく。

傘を持つ人達、持たない人達の方々からの会話の横を素通りし、商店街も終わりにさしかかろうとした時だった。


「…あれは…」


道の反対側、たまたま視界の端に映ったその姿を、俺の目は自然としっかり捉えていた。
シャッターが閉じた古い建物の軒下で、ショルダーバッグのストラップを握って空を見上げる名前の姿。
恐らく出かけた帰りに雨に降られ、避難したはいいが傘を持っていないのだろう。

行く人来る人を避けながら、俺は名前の方へと向かった。
もう少しで名前に声が届く。
そう思ったその時、名前はショルダーバッグを胸の前でしっかりと抱え、その身で守りながら今まさに降り続いている雨の中へと足を踏み出そうとした。


「名前!」
「!」


突然名前を呼ばれれば、誰だってそのような反応になるだろう。
浮いた片足がすとんと落ち、驚いたように振り返った名前の目が少し早まる足を動かす俺の姿を捉え、その目は更に驚きに染まっていく。


「あ、え、国光…?どうしてここに…?」


名前が雨に濡れてしまう前に間に合って良かった。


「本屋に行っていたんだ。それより、傘は持っていないのか?」
「あー…大丈夫だと思ったんだけどね…」


そう言いながら空へと視線を移す。
つられて動かす俺の視界には曇天が広がり、弱い雨ではあるものいつ止むのかは分からない。


「そんなに降ってないし、途中で雨宿りしながら走って帰ればいいかなって思って」


へらりと名前が笑い、俺の目は自然と彼女の右膝へと向かった。


「雨の中のランニングは、膝に余計な負担がかかる」
「ランニングって…そんなしっかり走るわけじゃないけど」


とは言うが、そもそもこのまま彼女を雨の中に見送るなんてことは出来ない。
軒下に傘を差し込むように傾ければ、先端からぽたりと雫が垂れて濡れていなかった地面に黒い円を描いていく。


「入ってくれ。少し狭いとは思うが、走って濡れるよりはいいだろう」
「いやっ…そしたら国光が濡れちゃうよ」


正直反対意見が出るであろうことは予想していた。


「荷物さえ濡れなければ構わない」


既に頭の中に用意しておいた言葉をそのまま紡ぎ、傾けた傘を動かさずにいれば、暫く困ったように視線をさ迷わせていた名前はやがて小さな声で、お邪魔します、と呟いておずおずと傘の中へと入ってきた。
言葉は考えていたものの、それからのことは考えていなかった。
思ったよりも近くなった彼女との距離、そして雨に混じってふわりと鼻腔を撫でていく石鹸の香りに、一瞬だけ僅かに胸の辺りが浮いたような感覚がしたような気がした。


「…ごめんね。私のことは気にしなくていいから、国光の方があまり濡れないようにしてね」


数歩歩き出した所で名前がぽつりと言う。
身長の差はあれど、普段より近い場所から聞こえる彼女の声は、雨音に混ざることなく真っ直ぐに俺の耳へと届く。


「それこそ気にしなくていい。大した雨ではないし、帰ってすぐに着替えればいいだけだ」


名前からの返事は無く、ふと斜め下を見下ろせば、眉を下げ困ったように笑う彼女の横顔があった。
何か、間違えたことを言ってしまっただろうか。
天気も相まって、彼女のその横顔はやけに儚く見えてしまう。


「…余計な世話だったか?」


言ってから、もう少し言い方をなんとか出来たのではないかと後悔した。
案の定名前は慌てたようにこちらを見上げ、とんでもない、と首を振る。


「凄く有難いよ…!でも、それと同じくらい申し訳ないんだよ…」


なるほど確かに彼女らしい。
ということは先程の困ったような顔は、単純に俺への申し訳なさが現れたものだったのか。
今更ながらに余計なことをしてしまったのではと思っていたのは恐らく杞憂で済みそうで、内心ホッとした。


「申し訳なさを抱える必要は無い。俺が勝手にしていることだ」
「い、や…うぅん……ありがとう…」
「…あぁ」


ごめんねよりも、聞きたかったのはその言葉だったのかもしれない。
その言葉を聞けてやっと、彼女の力になれたのだと安堵を覚えた。

雨音は先程よりも大分弱くなっていて、この分ならもうすぐに止むだろう。
ただの通り雨のようだ。
名前も同じことを考えていたようで、もうすぐ止みそうだね、と傘の下から覗き見るように空を見上げた。
ふと目に入る彼女の左肩はしっとりと濡れているようで、折りたたみではなく普通の大きい傘を持ってくればよかったと思いながら傘を傾けた。


「ダメだよ、せめて半分」


が、傾けた傘はすぐに名前によって元の位置へと戻されてしまう。


「…すまない、もう少し早く気づけばよかった」
「十分だって。帰ったらすぐ着替えればいいって、さっき国光だって言ってたじゃん」


そんなに濡れてないしね、と名前は自身の左肩を確かめるように撫でた。

そのまま名前から始まった明日の部活についての話をしながら暫く歩き、もう少しで互いの近所の小さな交差点に着く、という時。
あ、と足を止めた名前が何かに気づいたように傘から顔を覗かせ、俺もほぼ同時に傘を傾けて空を見上げた。


「いつの間に…雨、止んだね」
「そのようだな」


雲の切れ間から差し込む光に目を眩ませながら傘を畳む。
陽の光の向こうには、ほんの僅かに青い空が見えた。


「空って面白いよねぇ」


唐突なそれに思わず名前を見れば、彼女は眩しさからか目を細めて依然と空を見上げている。
光に反射する髪がきらきらとなびき、素直に綺麗だと思った。


「だってさ、」


ふいに名前がこちらを見上げ、思わずどきりと胸が鳴る。


「今は私達からは灰色に見えるけど、その上には綺麗な青が広がってるんだよ」
「……考えたこともなかったな」
「実質晴れじゃん。毎日」
「それは、……」


違う、とも言いきれないような気がして言葉を見失った俺に、名前はくすくすと笑う。


「空高く飛べる鳥からしたら、毎日晴れなのかな」
「…雲の上には休む場所がないと思う」
「あぁー、それもそっか…?」


ふと名前が数歩進み、緩やかな風が髪を持ち上げた。
名前はくるりと振り返り、ふわりと微笑んだ。


「ふふ。私、いつの間に青空の中を飛んでたんだなぁ」
「…?どういう…」
「そこにはね、沢山の温かい止まり木があるんだよ」


彼女の言う意味が分からず、思考が止まる。
そんな俺を見て名前はまたしても面白そうに笑いを漏らした。


「ありがとう」
「…それは、何に対しての礼なんだ?」


名前は俺の質問に答えることなく微笑を浮かべるだけ。
だが、その言葉は確かに俺の胸を温かくさせた。


「こちらこそ、ありがとう」


よく分からないなりにこちらも日頃の感謝を込めれば、驚いたように目を開く名前はすぐに眩しそうに目を細めて笑ったのだった。


back