上書きされた香り
朝からずっと降っていた大粒の雨は、私が校舎から出る少し前に丁度止んだらしい。
ラッキー、と畳んだ傘をふらふらと揺らしながら所々に出来た水溜まりを避けつつ正門へ向かっていた途中、見知った背中を見つけて足を早めた。
「お疲れー」
少し前を行く弦ちゃんに声をかければ、私の声に反応した彼がくるりと振り返った。
彼は私を見るなり、なんでお前がここに、とでも言いたそうな不思議そうな表情を浮かべる。
「とっくに帰ったと思っていたが…」
「日直だったのと、その後ちょっと先生に用があって」
「あぁ、そういう事か」
偶然の出会いついでに帰りの方向もほぼ一緒だからと、弦ちゃんの隣に並んだ。
歩きながら話を続けるに、どうやら弦ちゃんは委員会関係で担当の先生に用があったらしい。
そんな他愛もない世間話なんかをしながら進む道にはやはり大きな水溜まりがいくつもあって、まだ薄暗い曇天を映して僅かにきらきらと光っている。
向こうからやってくる男子小学生数人が、長靴なのをいいことにバシャバシャと水溜まりを跳ね回して楽しそうに駆けてきて、懐かしいなぁなんてちょっと羨ましくなった。
「あ、そう言えば弦ちゃん」
「ん?何だ?」
「弦ちゃんの家に般若のお面てある?」
「般若…?」
訳が分からなさそうにしながらも真面目に記憶を辿ってくれている様子の弦ちゃんは、
「見たことは無いが…何かに使うのか?」
「いや、何となくありそうだなって思っただけ」
必要なら探すが、との言葉に、そこまでしなくていいと手を振ろうとした時だった。
子供達の楽しげな声と、バシャッ、とすぐ側で大きく水が跳ねる音。
「冷たっ!?」
一瞬何が起きたか分からなかったが、思わず出た自分の声と、あっ、というやってしまった感満載の少年達の声に自身を見下ろせば、割と上の方までぐっしょりと濡れた制服が目に入る。
「っな、何をしている!!」
「「「うわぁぁぁ!!!ごめんなさい〜っ!!!」」」
「コラ貴様らっ…!!」
私が何をすることもなく、弦ちゃんの大声と剣幕にびびったのか、少年達は謝罪の言葉を残してピュ〜っと風のように走り去ってしまった。
呆然とその様子を見ていた私に、少年達を追うのを諦めた弦ちゃんが慌てたように近づいてくる。
「すげー濡れたんスけど…」
「っ…近頃の子供は…!!」
「いや言うてお前も近頃の子供なんよ」
「ぐ、つべこべ言ってないで早く拭け…!」
そこまで濡れてぼうっと立っている奴がいるか、と半ば強制的にタオルを押し付けられ、仕方なくポンポンと制服の水気を叩いた。
…だめだこれ、下は無理だけど上着脱ぐか…
帰ってすぐ洗濯すれば明日には間に合うだろう、と溜息混じりに上着を脱げば、濡れたこともあって肌寒さにふるりと上半身が揺れる。
「ジャージでも持ってりゃよかったな…」
そう零した言葉を拾ったのか、弦ちゃんが背負っていたラケバを漁って見慣れた黄色いジャージを取り出し、無言でこちらに差し出してくる。
「はい…?」
「寒いのなら着ておけ。お前に風邪をひかれたら困る」
「え、いいの?シャツもちょっと濡れてるけど…」
「いいから渡しているんだろう。早く着ろ」
「神かよあざっす」
有難く制服の上着の代わりに袖を通した弦ちゃんのジャージは思っていた以上にでかい。
し、なんか…
「…なんかおばあちゃんちの匂いするな」
「なっ…」
「いやいい意味でね?実家のような安心感」
「む、…そう、か…?」
「タオルもジャージも、今日帰ったら制服と一緒に洗って返すね。明日には間に合うから」
「いや、そこまでしなくても…」
遠慮の言葉を否定で遮れば、少しの迷いの後に、分かった、と弦ちゃんが頷いた。
* * *
次の日は、昨日の天気が嘘のような見事な快晴だった。
朝イチで弦ちゃんにお礼と共に洗いたてのジャージとタオルを返し、私は私で昨日洗濯ついでに洗濯機に放り込んだ自分のジャージを着て、いつものように朝練中の業務をこなしていると、
「名前」
「ん?うぉ、」
呼ばれた声に振り向けば、思っていたよりすぐ近くに精市がいて軽くびびった私の体が後ろに仰け反る。
けれどそんな私を気にもせず、精市はずいっと私との距離を詰めて、肩口付近にその綺麗な顔を近づけた。
「え、え…?精市…?」
すん、と精市の鼻が鳴り、やっぱりね、と謎の言葉と共に精市が私から離れていく。
やっぱりって、何が?
眉を寄せる私の前で精市は腕を組み、にこ、とほんのり笑み(のようなもの)を浮かべた。
あ、アカンやつな気が、
「どうして、真田のジャージから名前の匂いがするのかな?」
「え゙、な、」
「昨日は日直の後先生に用事があったんだよね?本当は、誰と、どこにいたのかな?」
いや違う、誤解、っていうかそもそもこの言い訳(?)すらおかしくない?
束縛激しい彼氏かて。
「名前が答えないのなら、直接真田に聞くけど?」
「違うんですかくかくしかじか」
「うん、それで伝わるのは漫画だけだからね?」
なんで私が怯えなきゃアカンのだ、とは思いつつも怖いものは怖いので全てを正直に話せば精市は、ふぅん、と口元を尖らせた。
「小学生が蹴り上げた水も避けられないなんてね」
「避けられるか」
「目隠しして俺の打つボールを避ける練習でもする?」
「何それ新手のイジメ?」
まぁいいや、と精市は満足気に踵を返した。
なんとなく嫌な予感がするのは気のせいだろうか。
「せ、精市?どこ行くの?」
「え?真田の所だけど?」
「え、この話は終わりじゃ…?」
「名前との話はね」
にこ、と笑った精市が私から離れていく。
その歩みの先には、厳しい目を部員達に向ける弦ちゃんがいて…
ちょっとよく分かんないけどとりあえず逃げた方がいいよ弦ちゃん、あと頑張って。
(真田)
(む?どうした幸村)
(真田の為に新しい練習メニューを考えたんだ。とりあえずコートに入って、俺と打ち合いしようか)
(ほう?直々にお前との打ち合いか。いいだろう)
(まずは視覚からでいいかな?それから聴覚ね)
(…ゆ、幸村…?何を、)
(フフ、どこから水が飛んできても壁になれるように、常にしっかり意識を研ぎ澄ませておかないとね)
(水、だと…?お、おい、何を言って…)
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