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夕焼けのころ
 暮れ方の低い日が建物や往来の人の影を長く地面に映し出す。門限ぎりぎりまで遊んだのであろう子どもたちが、鬼ごっこをしながら帰りを急ぎ、じゃれ合いながら角を曲がって行ったのを見届けて、私は店じまいの準備をはじめる。
 使い古して先の曲がった箒を店の奥にしまって、店の外に出ている、展示用の大きな台車を店内に引っ込めようとしていると、普段相手している子どもたちよりも背の高い男の人が声を掛けてきた。
 なまえ、と小さく空気を震わせたその音につられて顔を上げると、恐らくこの町にひとりしかいないであろうふわふわの銀髪が目に入る。真顔というべきか緩んでいるというべきか、やる気がなさそうなその顔は、相変わらず何を考えているか教えてくれない。
 とはいえ、彼――銀さんが私に声を掛けることといえば、彼が面倒を見ている女の子、神楽ちゃんのお使いくらいのものだ。うちは駄菓子屋という性質上、客は少数の子どもたちだけで、最近ではその子どもたちすらも、スーパーやらコンビニやらのカタカナでハイブリッドな店舗に流れてしまっている。それでもまだうちに買い物に来るお客さんは、私と面識がある子どもたちがほとんどで、あとはたまに古い店が好きだというお客さんが来る程度だ。だから常連さんの名前は覚えているし、常連と呼べない程度の来店回数でも、よく遊びに来てくれる神楽ちゃんの保護者である銀さんのことは覚えてしまっていた。
「こんにちは銀さん。お使いですか?」
 私がそう聞くと、銀さんは電気の消えた店内を見て、もう一度私を見て、頭をかく。
「おう。悪いななまえ、まだやってるか?」
「良いですよ、酢昆布ですよね?」
 銀さんの表情がわずかに変わるのを見て、私は台車の上にあった酢昆布を数個手に取った。それを見た銀さんが「いや、俺そんなに金ねーんだけど」と言うので、「つけときますね」と返した。すると彼は「悪い」と私に向かって手を合わせる。
 神楽ちゃんは酢昆布をまとめ買いすることが多く、銀さんがお使いに来るときは特に、たくさん渡さないと後で怒られるらしい。あの天パから金をむしり取ってでも複数個持たせて返せ、と腰に手を当てて言いに来た神楽ちゃんの、まだ子どもらしい愛情表現はとても可愛らしかったのをよく覚えている。
 思い出して緩む頬を抑えつつ、袋を取りにレジに向かうと、銀さんも後からついて来る。
 小さな袋の中に酢昆布の小箱を詰めて差し出す。それが銀さんの手に渡ったのを見届けると、彼の背後から店に入ってくる人影があった。
 一瞬女性と間違えそうになる、綺麗な黒髪を長く伸ばした彼は、たまにんまい棒を大量に買っていく、数少ない大人のお客さんだ。
 彼は私と目が合うと、右手を小さく出して「すまないなまえ殿、まだやっているか?」と聞いた。その声を聞いた銀さんが振り返って、一瞬とんでもなく嫌そうな顔をしたのを見ながら、私はんまい棒のお客さん――桂さんに「どうぞ」と返す。
「おい、お前先帰ったんじゃなかったのかよ」
「お前がなまえ殿に無理言って店を開けてもらうのが見えてな」
 桂さんはそう言いながらも、レジの付近に並べて置いてあるんまい棒を手に取っていく。
「結局お前も買ってんじゃねェか」
 銀さんの冷ややかな視線を背中に受けながらんまい棒を選び終えた桂さんは、「俺はいい、俺は」とどこか自慢気に答える。
「常連さんだからな」
「自分で言うかぁ?」
「あはは、桂さんは常連さんですねぇ」
 軽いんまい棒が桂さんの手元から大量にレジの横になだれ込んだ。それを見届けて本数を数え、桂さんから代金を受け取る。
「あ、なまえ殿、袋はいらないからな」
 桂さんはんまい棒を一本一本大事そうに懐にしまっていく。
 ほんのしばらくだけその様子を眺めていた銀さんは、「じゃあ先帰るから、浮気は程々にな〜」と言い残して去っていった。桂さんはその発言に取り乱し、銀さんを追いかけようとしていたが、無理やり全部持とうとしたんまい棒の山が地面に崩れ去ってそれを阻止した。
 その様子を見ていた私は地面に落ちたんまい棒を拾って腕に抱えていく。最後に集めたそれを桂さんに渡そうとすると、彼は気まずそうに私を見た。しばらく私を見つめたあと、桂さんは思い出したようにんまい棒を受け取る。
「なまえ殿、俺は断じて浮気などしておらんからな」
「攘夷志士なのに意外と世間体を気にするタイプですよねぇ」
 からかうように彼を見ると、ちょうど外から差し込んだ夕焼けが彼の顔を温かく染めていくところだった。
「平気ですよ。桂さんは、幾松ちゃん一筋ですもんね」
「なまえ殿! それは!」
 慌てた桂さんの声が、静かな店内にこだました。それは、に続く言葉が出ないのが、彼が幾松ちゃんを好く思っている一番の証拠だ。
 桂さんは、この店の向かいにある、私の友だち――幾松ちゃんの経営するラーメン屋にほとんど毎日と言っていいほど頻繁に通っている――というのを銀さんから聞いた。たまに見かけるとは思っていたが、毎日と言われて見てみれば、確かに毎日、ほとんど同じ時間に北斗心軒の暖簾を潜っていた。銀さんから聞いてまさかとは思っていたが、この反応を見るに、惚れているという話まで本当らしい。
「私、協力してあげましょうか。幾松ちゃんと友だちなので」
「え、いや――」
「桂さん、変わってるけど良い人ですもん」
「あ、あぁ……」
 私に気圧されるような形で小さく返事を返した桂さん。流石にお節介だったかと彼の顔色を伺うと、彼は恥ずかしそうに下を向いて「よろしく頼む」と小さく溢す。その声からは、珍しくどこか不安気な色が感じられた。
 まぁ、幾松ちゃん旦那一筋だからなぁ。

 翌日、いつもと同じ時間に北斗心軒に入ろうとする桂さんを見かけて手を振った。すぐに気付いてくれた彼は小さく右手を揺らして私に応える。私は彼に向かって振った手をそのまま前後に倒して手招きをした。
 不思議そうにしながら道を横切ってこちらに渡って来た桂さんを見て掃き掃除の手を止め、ひとまず挨拶をした。
「なまえ殿、何か用か?」
 何か用か、と言いつつ多少そわついている桂さんを見て、ついおかしくなった。笑ってしまう前にと、私は本題を切り出す。
「作戦会議をしましょう。普段幾松ちゃんとどんな話をするんですか?」
 桂さん、というよりも、旦那さんが亡くなってから頑なに男を寄せ付けない幾松ちゃんに、勝手ながらもう一度誰かと幸せになってほしい私は、箒の柄をぎゅっと握り締めて真剣な声を出した。
 つられるように桂さんは腕を固く組み、うつむいて首をひねる。
「普段……蕎麦の話だ」
「……ラーメンではなく?」
「それと肉球の話だな」
「あ、わりと雑談をするんですね」
 肉球の話なんて、幾松ちゃんと長い付き合いのある私でもしたことがない。そういう、新聞記事やテレビ意外の話を出来る関係は、親しいと言っていいはずだ。桂さんの口から思ったよりもいい答えが聞けて、私は大きく頷いた。
「じゃあ、幾松ちゃんの好きな物の話はどうですか?」
「例えば何だ?」
「それは自分で聞いてください。そして調べてください。女の子は自分に興味を持ってくれる男の人が好きです。そして理解してくれる男の人はもっと好きです」
「なるほど」
 小学生の男の子が、私が婚期を逃さないようにと置いて行った恋愛指南本の受け売りなのだが、桂さんは目を見開いてはっとした表情になった。
 こうして見ると、いつも澄ました顔の桂さんも表情豊かだ。
「よし、じゃあ頑張ってくださいね」
 普段の雑談の流れで好きなものを聞くだけ。大して頑張ることもないのだが、桂さんの恋を応援する気持ちを込めて拳を握ると、彼がふっと笑う。
「なまえ殿、ありがとう」
 元気が出た、というように緩んだ頬を見て、なんだかこちらが励まされている気分になった。
palladium