桂さんと夢主がいちゃつくだけの話
「ねぇ、私もヅラって呼んでみていい?」
唐突に、そんなことを言い出した。
誰に毒されたのか。それは先程まで万事屋で銀時たちと共に過ごしていたから明らかだった。かといって彼女に懐いているリーダーを責める気にもなれず、俺の怒りは全ての根源をつくった銀時に向くことになる。
平素から俺のことを「桂さん桂さん」と呼んで慕う彼女の口からはじめて紡がれた不名誉なあだ名に、俺は内心眉を寄せる。その二文字は、決して品があるとは言えない。呼び方を変えるならもっと別の――それこそ小太郎さんとかにしてほしい。
「……どうした突然」
「うーん、なんとなく。ダメ?」
呼び方ひとつで何が変わるわけでもあるまいし、そうしたいというなら、珍しい彼女のわがままを叶えてやりたい気持ちはある。しかし、彼女が俺のことをあまり嬉しくないあだ名で呼ぶところを想像すると気がとがめる。
どうしたものかと考えて黙っていると、しびれを切らしたのか彼女が口を開く。
「ヅラ」
遠慮がちに呟いて、彼女は俺を見た。
「……ヅラじゃない桂だ」
俺がそう言うと彼女はどこかこちらをうかがう様だった表情をぱっと明るく変える。
彼女は楽しそうに笑いながら、何度もヅラ、ヅラと口にした。満面の笑みだったり、こちらをからかう様だったり、慈しむように微笑んで見せたり、表情をころころと変えながら、どこか子供が遊ぶような調子で。俺が訂正の言葉を口にすると、その度に嬉しそうにくすくすと笑った。
「ヅラ」
また、小さく笑いながら静かに呼ばれる。
緩く弧を描いた目がさあどうぞと言わんばかりにこちらを見ていた。
――面白がっている。
俺が訂正したらまた喜んで調子に乗るつもりだ。
悪戯に、黙ったまま顔を寄せると、彼女が首を傾げた。「ん?」とまだ何も理解していない様子の唇にそっと口付ける。柔らかい感触に自分でしておいてどきりしながら、離れると、見事に虚を衝かれた様子の顔と目があった。まだ呆然としているが、その顔は俺の思惑通り赤く染まっている。
その彼女が、言葉を探してぱくぱくと口を動かす。
「どうした、もう言わないのか?」
恥ずかしくて先の出来事に言及出来ない彼女がはっとして、その言葉に逃げるように口を開く。
「ヅ――」
もう一度口を塞ぐ。
今度こそ完全に思考が止まった彼女が、せめてもと真っ赤になって俺を睨んだ。
「ははは! 人の名前で遊ぶからだ」
笑って、からかう様に言ってやると固まっていた彼女が少し緊張を解く。
「だって、桂さんこの流れ気に入ってるみたいだったから……私も突っ込んでほしくて」
「? 突っ込んでるだろ毎晩」
「……さ、最低!」
べち、と彼女が俺の腕を叩く。そんなに痛くはなかったが、そこそこ力を入れていたらしく、叩いた彼女の方が痛そうにしていた。俯いて目だけでちらちらとこちらを見ながら、あと毎晩は嘘、と律儀に付け加える。
怒った素振りを見せてそっぽを向いてしまったが、恥ずかしがっているだけだというのは考えるまでもなく分かった。それを裏付けるかのように、彼女は俺の側から離れる様子はない。
とはいえせっかく隣にいるというのに、ちゃんと彼女の顔を見られないのはもったいなくて。それは自分の横で小さく唸っている彼女も同じようだった。
「怒ったか? ほら、機嫌を直してくれ。どうしたらいいんだ?」
不自然に肩を揺らした彼女が、気不味そうにまた「う……」と漏らした。
恥ずかしかっただけなのに下手に出られて申し訳なくなってきたらしい。
自分の恋人ながらも面倒な性格をしていると思わなくもない。しかし彼女が分かりやすいのか、俺が彼女に惚れているからかそれが全て筒抜けで、俺にとってはそれが可愛くて堪らなかった。
「……ヅラ」
やっぱり自分もそう呼ばせてくれ、という意味か、先の続きか、あるいはその両方。彼女はまだ赤さの残る顔で小さく呟く。
また口付けたら、そっぽを向いてしまうだろうか。
そうしている間にまた彼女が口を開く。
これはもう、そういうことだろう。
そう思って再び顔を寄せる。しかし触れようとした唇は彼女の手によって可愛らしく拒まれ、その瞳が甘く揺れながらも俺を捉える。
「……好き」
何が琴線に触れたのか分からないが、普段から言葉を尽くして俺に好意を伝えてくれる――伝えようとしてくれる彼女が、いっぱいいっぱいになってしまったときに出る、そのたったの二文字が、どうしようもなく愛しい。
俺の口に添えられた手をそっと握って力を入れると、思った通りすんなりと受け入れられて、なんの抵抗も感じさせず下に降りていった。
照れ隠しに、また例のあだ名を呼ぼうとする彼女に近付いて、目を合わせる。そのままゆっくり閉じていくと、彼女も同じようにするのが見えた。それが愛しくて。溢れてくる感情を全て彼女にうつしてやりたいのに、しかし先に目を閉じられたら同じことをしてやれないのが、少しだけ悔しくて。
彼女の耳もとに唇を寄せた。
「……愛してる」
予想と異なるところから声がしてびくついた彼女の唇をそのまま奪う。驚いて固まる彼女を安心させるように腕を回すと、しばらくして彼女もゆっくりと抱きしめ返してくる。ぎゅう、と力を込めるのがまた愛らしい。
俺が全力で抱き締めたら痛くしてしまうだろうから出来ないのも、また少し悔しい。
けれど彼女から奪って飲み込んだ二文字は、俺が愛しくて堪らない二文字と同じくらい甘くて、優しくて、多少品がなくとも悪くないと思えるくらいに、俺の心を満たしてくれた。
唇を離すと、そのまま腕の中で幸せそうに「桂さん」と呼ぶ彼女も愛おしい。だからたまになら、彼女が俺を「ヅラ」と呼ぶのもいいかも知れない。
銀時にはじめてそう呼ばれてなんだこいつはと思ったあの日から、いつの間にか高杉までそう呼ぶようになっていて、二人に唆された坂本もそう呼んで、リーダーや長谷川さんまでやつに毒されて。けれど嫌いではないから。この呼び名とも、それだけ長い付き合いなのだ。たかだか呼び名ごときを大切だと言えるほどに付き合ってきた。誰かがそう呼ぶ度に、きっと、大切になっていった。
そんな過去が繋がってここまできて、その中に彼女もいるなら尚更――否、いてほしいと。
そんなことを、思ってしまった。
palladium