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投げKISSをあげるよ
 夜明け前。まだ空は暗い。
 世界を塗り潰したような闇に、それでも確かに朝の気配を感じる。
 人のいない道は普段の賑やかなかぶき町と違って、まるで世界中に二人しかいないかのようだった。
 寒そうに身を縮めた桂さんが、小さく欠伸をする。
 珍しい。珍しいからちょっかいをかけたくなって、辞めた。突っ込んだら私の前でこんなふうに気を抜いてくれなくなるかもしれない。
 緩く吹く風や草の揺れる様に小さく表情を変える桂さんをじっと見ていられるのは、少し後ろを歩く者の特権だ。
 女は三歩退いて、などという彼が好みそうな定説に従う訳ではないけれど、今日はなんだか、ただ桂さんについて歩きたかった。いつものように横に並んでこない私に、はじめこそ彼も不思議そうにしていたが、今は時折こちらを気遣うように歩みを緩めながら、本人の好きなように歩いている。
 同じく互いに好きなように会話を挟みながら。好きなように黙りながら。
 彼が歩く道に気まぐれに口を出せば、黙って進路を変えてくれる。それについていく。
 そうして何度か角を曲がると、目に映る町は緑の小高い丘へと変わっていった。登るのには労力が要りそうだったが、不思議としんどいとは思わなかった。桂さんが登っていったので、ただそれについて登った。
 足場の確認に下を向くと、深い草の色が、朝の闇に溶け込んでいた。
「急に思い出したのだが」
「うん」
 また、前を向いたままの桂さんが静かに声を落とした。淡々と、ただ事実を述べるように、けれど感情を殺しているわけではなく、思ったことをそのままこの場に置くような調子で。
 相槌を打つ。
「俺は前にもここに来たことがあるぞ」
「うん」
「それだけだ」
 続きを促すように、それでもただ口が動くのに任せて自然に相槌を打つと、しばらく置いてそんな言葉が返った。
 気の抜けたくだらない台詞。誰かが聞いていたら、あまりの広がりのなさに呆れるかもしれない。話し相手の私でさえ、彼がその言葉に何か意味を込めたのか、それともただ気の向くままに喋った結果なのか定かではない。
 ただあるがままの。そんな響きだったから、それだけで良いと思えた。
「そんだけかい」
 そう返すと、彼は何も返さず、黙ったまま、真っ直ぐ前を向いたまま肯定した。
 誰もいない朝の静けさとはまた違う、二人だけの深閑が、二人だけの間を一瞬行き来した。
「エリザベスがな」
「うん」
「恋人を連れて来た」
「うん」
「そういう夢を見た」
 その夢について詳しい説明が為されるでもなく、桂さんはまた静かに話を終える。
 薄闇に紛れて分かりにくいけれど、彼が静かに表情を緩めた。
 それだけかと突っ込みを入れるのももったいないような、そんな心地良い沈黙だった。
 また、適当に相槌でも打とうか。
 それなら二文字でいい。二人でつくり出す沈黙の中に、相槌程度なら混ぜたって何も変わらないから。
「好き」
 特に何か思ったわけではなかった。ただそこに、はじめからあった言葉を述べた。はじめからあったから、何も変わらなかった。
「俺も好きだ」
 ただの相槌に返事はいらないのに、先までと何も変わらない響きで、そう返る。
「相槌、なんだけど」
「俺のも相槌だ」
「ふたりで相槌打ってどうするの」
 小さく笑うと、優しく手を掬い取られて、そこから温もりが行き来する。私たちの間を行き交う空気と同じ、穏やかなものが流れる。それに名前を付けてしまうのは無粋な気がして、けれどそれを私たちは好きと形容したのかもしれないと、なんとなく思った。
 桂さんを見ると、もう目の前にある丘の頂上を眺めていた。つられて視線を動かす。薄く茜色が溶ける空に、町の賑わいを取り戻す朝日が見える。
 あまりの眩しさに目を閉じる。瞼の裏に透ける陽光が消えない内に、影が落ちた。せっかくの朝焼けに雲でもさしたのかと目を開けると、ちょうど唇が触れ合う瞬間だった。驚いて思わず目を見開く。優しく押し当てられたそこから、また"好き"が行き来した。
 遅くもなく早くもなく、それが全く自然だと思える動作で離れる。目を開けた桂さんが、私がこどもみたいに目を丸くしているのに気付いて笑う。
「マナー違反だぞ」
 大して不服でもなさそうに、桂さんは呆れる素振りをして見せた。こうなることが分かっていたのだろう。
 もう上り切ろうとしている朝日が、後ろから桂さんを照らしていて、目を逸らした。暑い。
「……急にする方がどうかと思うの」
「目を閉じていたからてっきり」
 もう先までの静けさはなかった。桂さんは真面目な顔でボケはじめ、丘の下の町からは朝のざわめきが微かに聞こえてくる。
「せめてもっと可愛く閉じてるときにして……」
「ならばもう一度しておくか?」
 精一杯お淑やかに、静かに目を閉じて見せる。
 いい、要らないと言ってさっさと帰ってしまうことも出来たけれど、もう少しだけ、桂さんと二人の世界にいたくて。
 先よりも優しく、唇が触れ合う。
 今度は互いの意思をもって。
 やはり変わらず二人の間を行き来して、包んでいるそれに、その幸せに、頬が緩んだ。
 離れる。
 目が合って微笑む。
「可愛かったぞ」
 顔が熱くなるのを感じながら、それでも素直に照れるのが悔しくて、ぎこちなく笑ってみせる。
 可愛いときにしてくれと言った手前、そうでもなかったらどうしようかとは思っていたけれど。
「触れたとき笑っただろう」
 優しく目を細めた桂さんが、声色に幸せを滲ませながらからかうように言う。
 恥ずかしい。キスしてる最中に笑うなんて変な人みたい。
 そこではた、と気付く。
「マナー違反!」
 やっと見られていたことに気が付いた私に、桂さんが愉快そうに笑った。
 その、楽しそうな顔を見て、あぁ、好きだな、と思う。
 二人だけの静かな朝でも、ざわめきがやまない中でも、私はこの人が好きだ。きっとキスがなくたって、手を繋がなくたって、笑顔が見れなくても、それは変わらない。どこにいたって、何がなくたって――。
palladium