01
雨の匂いを孕んだ空気が不意に鼻孔をかすめた。それをきっかけに、のめり込むようにして見つめていた端末から意識が戻ってくる。
端末の画面端の時計を見れば仕事を始めてから数時間が経過していた。余程集中していたのか、時間の経過を意識した途端目の奥にしびれを覚えてぱちぱちと瞬きをする。しかしその程度で目の疲労が和らぐわけでもなく。
「んー…」
ぐうっと腕を天井に向かって伸ばして伸びをして、どさりと少々乱暴に座椅子の背もたれに凭れかかった。背もたれを折らんばかりに凭れかかり、執務室の天井を見つめる。薄ぼんやりと空を覆う雨雲に遮られて太陽の光が届かないからか、日中にもかかわらず執務室はどこか薄暗い。
ぼんやりとどこともなく薄暗い天井を眺めていれば少しだけ目の奥の痛みが和らいだ気がした。はふ、と息を吸い込むような吐き出すような微妙なため息をつきながら視線を天井から戻せば、
「…あれ、」
近侍の姿がどこにもないことに気付いた。内番着だろうが戦装束だろうが、いつもすっぽりと白い布を頭から被っている後姿は傍の近侍用の机にはない。
はて、いつからいないのだろうかと考えるも先ほどまで時間も忘れて仕事に没頭していたのだからわかる筈もない。あれでいて真面目な性格だからサボっている訳でもないだろうし、何か理由があって席を外しているのだろうと結論付けて視線を端末の画面に戻す。
さて仕事に戻らねば。今日の分の仕事はもう終わっているけれど、何事もやれるうちにやっておいた方がいいものだ。
幸い、今日は朝からしとしとと降り続く雨のせいで短刀たちも静かだ。いつもが騒がしいというわけではないのだが、楽しそうに庭で遊ぶ声を聞くとつい意識を持っていかれてしまう。そのため普段は中々仕事に身が入らないことが多いから、時折こうして本丸が静まり返るときには集中して書類仕事を片付けることができる。
目の奥はまだひりひりと痛みを訴えていたけれど今こそ頑張り時。ようしと意気込んでキーボードに手を乗せた時だった。
「入るぞ」
言葉と共にふすまが空いた。思わぬ邪魔、もとい近侍の帰還によりぽかんと間抜け面をさらす。
まるで意味をなさない声かけと共に執務室に入ってきた近侍こと山姥切はすと音もなくしゃがみ込んで、手に持っていたお盆を床に置いてふすまを閉めるとこちらを向いていきなり眉をしかめた。入室早々嫌そうな顔をされて若干のショックを受けつつも黙ってその視線を受け止めていれば、
「…はぁ」
今度はため息をつかれた。しかも聞こえるように。
なんなんだ、私が一体何をしたっていうんだ。何だかむっとしたので何も言わずそう視線で訴え続けていれば山姥切はやっと口を開いた。
「あんた、そんな顔色でまだ仕事を続ける気か」
「…顔色?」
何を言われたか理解できなくて首を傾げれば再びのため息の後、ほんのりと湯気の立つ湯呑を差し出された。反射的に湯呑を受け取れば、熱すぎない熱がじんわりと手のひらに染み込んできて思わずほうと吐息が漏れる。そこで初めて、私は自分の手が冷え切っていることに気が付いた。
「顔色が悪い。体も冷えているだろう。それを飲んだら今日の仕事はもう仕舞いだ」
「でも、まだ途中…」
「今日でなければいけない物はもう終わっているだろう。もうやめておけ」
いつになくびしりと言い放たれた言葉に思わず口をつぐんだ。
手の中の湯呑の穏やかな熱が指の先から染み込んで頑張ろうとする心を溶かしていく。固く気合で結んだ心が緩めば途端に体が不調を訴えてきて、落ち着いたと思っていた目の奥の痛みや感じていなかった空気の冷たさにふるりと体が震えた。
それを見て眉根を寄せた山姥切はすぐに立ち上がり開け放たれていた縁側の障子を閉め、執務室の押し入れから毛布を取り出すと有無を言わせず私をぐるぐる巻きにした。スリか何かかと思わせる早業で私から湯呑を取り上げると、湯呑の代わりと言わんばかりに山姥切の手が私の手を包み込む。刀を扱うその手のひらは固くて大きくて、とても温かかった。
「…写しの手でもあんたを温めてやるくらいならできる」
「…うん」
普段は寄っていけば逃げ出して、そっけない態度のことが多いけれどやっぱり優しいんだよなぁ。いつになく間近に見える翡翠の瞳に、その手の温度に体から力が抜けていく。
「…無理はするな。辛くなったらいつでも俺を頼ればいい。…写しの俺なんかで良ければな」
「…うん、ありがとう。山姥切」
そう返事をすれば手を握る手に力が込められた。
あったかいなぁ、目の奥の痛みがまろやかに溶けて穏やかな眠気に変わっていく。力が抜けてずるずると倒れ込む体をあずき色のジャージが受け止めてくれた。
すんと息を吸えば山姥切の匂いがして、頬越しに伝わる鼓動に意識がほどけていく。暗闇に溶ける意識の残りが、優しい雨の匂いと穏やかな声を聴いた。
「おやすみ、主」
――こんな雨の日には
(君とともに)