瀬名泉は、ミョウジナマエが好きだ。泉の整った立ち姿を、自身を磨き続ける在り方を真っ直ぐで綺麗と称した彼女のことを、泉もまた綺麗なものだと認識した。彼女はうつくしかった。今でこそ、一目惚れだったと認めてやってもいいくらいには。見目も、仕草も、泉を柔らかく見据える瞳も、隙がなかった。
ナマエは完璧などではない。彼女が彼女なりの劣等感に苛まれていることは知っている。優雅に泳ぐ白鳥の如く、それを表に出さないための努力をしていることも。死に物狂いで見栄を張って、家柄というレッテルで自分を見下す大人たちの世界で、負けず嫌いを発揮しひとりで戦っている。二人は似てるよ、といつだったか凛月が言った。そんなはずがないとそのときは適当にあしらって終わったが、今になって思い出す。彼女を愛することは──自分を認めてやることと似ている。
大人気ないとはわかっていた。試すような真似をしてしまったことも、ナマエの交友関係に勝手に妬いて腹を立ててしまったことも。泉には泉の、彼女には彼女の交友関係が存在していて、互い以外にも大事なものを抱えている。そんなことは嫌と言うほど理解しているし、実際その領域に相手が文句をつけて来ようものなら、泉だって面倒くさいと一蹴する未来が見える。事実として、ナマエは泉のそれに口を出してきたことはない。彼女はよく弁えていた。泉と同じく、相手の状況に理解を示していると言えばそうだ。泉と違うのは、納得して受け入れているかどうかだろう。
「……ちょ〜むかつく」
薄い唇から零れた愚痴が、静まり返った教室に消え入った。彼女に伝えた己の好意のようだと思った。どんなに自分が想っても、手渡した気持ちは彼女の中でどれだけ響いているのかわからない。恋人という関係で繋がってはいるものの、いつまで経っても一方通行のようなのだ。己が向けているのと同じ重さの気持ちが返ってきたと実感できる日は本当に少ない。彼女はそういうものを隠すのが、上手過ぎた。
泉だってナマエの交友関係に理解はあるつもりだが、その実納得できないこともあるし嫉妬が顔を出すこともある。昨日も、本当は自分だって、そういった感情は完全に仕舞い込んで、幼馴染の名前が出てこようともなんでもないことのように水に流したかった。けれども、呑み込めない自分がいた。電話越しに、逆の立場であれば恐らくあっさり流していたであろうナマエのことを考えた。いつもなぜ自分だけがこんなにも嫌な気分になって、ナマエは嫉妬なんて単語すら知らないような涼しげな顔でいられるのか。なぜ未だに自分ばかりが、彼女を好きなのか。ナマエには愛が足りない──なんて思考に陥っていた。段々と苛々が積もってしまい、ついには己の内だけに留めておけなくなった。ばーーーか、と一言、小学生のような捨て台詞と共に電話を切って。連絡もすべて無視した。
我ながら大人気なさ過ぎて、合わせる顔がない。ナマエはきっと、放課後に自分を訪ねてくるだろう。どんな顔で会えば、このかっこ悪さを帳消しに出来るというのか。結局、放課後までに心づもりが終わらなかった泉は、意地悪と時間稼ぎを同時に決行しなければならなくなった。
「──わたしは誰でしょうか」
夕陽が溶けた黒板が、突然背後から伸びてきた人間のてのひらによって視界から消えた。やや冷やっこい手が、泉の両目を優しく覆い隠している。泉を除けば誰もいないはずの教室に、泉ではない誰かが侵入していたことは気付いていた。足音を忍ばせるでもなく、それが自分を目指して来ていたことも。気付かぬふりをして、椅子に腰掛けたまま動かずにいたら、これだ。
「……俺のお馬鹿な恋人」
「はい、あなたのかわいい恋人です」
「ちょっと図々し過ぎるんじゃない。あんたなんかぜんっぜん可愛くないから」
「まあ確かに先輩の方がかわいいとは思いますけど」
「そういうの全く求めてないし。いい加減俺の機嫌の取り方くらい覚えなよねぇ」
鼻を擽る甘い香りは、よく知るものだった。これを間近に感じる度に、心臓の動きがやや忙しくなるのは、最早条件反射に近い。そんなもの、認めてやりたくないのに。
目の前を黒一面に染めていたナマエの手が、不意に泉の視界を解放した。その直後、より濃くなった甘さを嗅覚が捉えて、何が起こったのか考える前に目眩がしそうになった。後ろから首に巻き付いてきた腕が、泉をじわじわと閉じ込めていく。ぐっと近くなった相手との距離をこれでもかと、背中に触れる自分より小さな身体のぬくもりと、耳朶にかかる温い吐息で感じた。耳の後ろで、恋人が小さく笑う気配がして、それから。
「迎えに来ましたよ、お姫さま」
「ばっかじゃないの?」
色々間違え過ぎている。後ろは見ないまま、手の甲で頭を軽く小突いてやった。この恋人は、本当に頭が悪いふりをするのが得意で──
「こっち向いてください、いずみさん」
瀬名泉という人間を喜ばせる方法を、実はよくわかっているところが生意気で気に入らない。
「……なぁに、今度は」
身体を包んでいた温もりは、存外あっさりと離れていった。いずみさん、と再び声が降ってきたと同時、そっと近寄ってきた白い指が泉の左頬を辿りながら、するすると顎まで落ちて。そのまま彼女の右手の親指と人差し指は彼の顎を弱い力で掴むと、くいと持ち上げてくる。されるがままに右斜め上に顔を傾けてやれば、動作に反して一見すると奥ゆかしく笑う恋人と目が合ってどきりとした。西日を受けながらこちらを静かに見下ろして、腰を折ったナマエの顔が泉との距離をゆっくりと詰めてくる。手入れのされた長い黒髪が、ぱさりと泉の肩にかかった。いつ何時も冷静さを纏う可愛らしさのない印象の強い翠色の瞳は、どこかうっとりと蕩けるように、締まりなく泉に見入っている。優等生然とした顔が掻き消えた彼女は、隙だらけだ。
「キスしてもいいですか、泉さん」
「嫌だって言ったらどうすんのぉ?」
「言われても、します」
「……じゃあ聞かないの」
まるで焦がれた相手を求めているようだ。まるで、ミョウジナマエが、瀬名泉を求めているようだ。まるで──自分の思考回路の間抜けさに苦笑して、彼女のほんのり赤みを足した容貌が目と鼻の先に迫るのを、待った。瞼を下げるのが、惜しい。
「──いずみさん」
唇が重なるときは、いつも少しだけ現実感が薄かった。思い通りにならないこの恋人が自分のものであると、明確になる瞬間だからだ。
彼女の口付けは、遠い昔母親が額にしてくれたような大事な相手にする優しいもので、想定よりも上品過ぎて物足りなさが先に立つ。けれども。徐々に泉の唇を啄み始めた彼女のキスは、あっという間に恋人を愛すそれへと変化を遂げた。ぬるりとしたいやらしさが入り交じって、互いの間で溶け合う中で、頭が熱に浮かされていく。もっと欲しい、と強く望んだ。薄く目を開くと、自分を見つめるナマエの瞳があった。そこに映るのは、逆上せそうな己の姿だけではない。彼女自身の熱が、その目に散っている。
「……、ナマエ」
自分は確かに彼女から求められているのだと、今度はきちんとそれを事実として捉えた。自分がナマエに向ける恋情と同じだけの重さか、あるいはそれ以上のものを、彼女もまた自分に抱いている。一方通行の片思いではなくて、誰よりも愛しく想われていることを知って、どうしようもない多幸感で内側が満たされる。数少ない、彼女の気持ちが見える日だ。
緩く柔らかな行為は、どちらからともなく、惜しむように止まった。ナマエの顔が、指が、距離を取っていくのを黙って見上げた。そして。
「……ナマエって本当に、俺が好きだったんだ」
「今更ですか」
何気ない呟きに、呆れたような返事があった。
「わたしはいつでもいずみさんが好きですよ。と、言葉にしているつもりですけど、なぜか全然信じてもらえないから困ります」
「なんでそう軽い言い方しか出来ないわけ。朝の挨拶と同じようなノリじゃわかんないから。伝わんないし、もっとやる気出しな」
「でも重いと引きません?」
「それは俺に喧嘩売ってるってことでいいの?」
「えー、そういう受け取り方します? 時々難しいなあ、いずみさんは」
瀬名泉を指して"時々"難しい、と言えてしまうのが彼女のすごいところだろう。
機嫌が治ってよかったと微笑むナマエに、「まだちゃんと治ったわけじゃないし調子に乗らないでくれる」と牽制する。彼女の狙い通りに、落ちていた気分が上がったことはまだ知られたくなかった。泉が手を上げれば、なにかを察したようにナマエがまた顔を寄せて来たので、その無防備な片頬を引っ張ってやった。
「ばーーーか」
「……せなせんぱい?」
本当に、面倒くさい奴を恋人にしたと思う。満たされるばかりではなく、飢餓感すら時折覚えさせるこんな少女に心を捧げてしまった自分はどうかしている。もちろん、後悔なんてないけれど。
先程まで彼女と不健全一歩手前の触れ方をしていた口元は、自然と弧を描く。
「まったく、困ったやつを好きになったもんだよねぇ、俺も」
半ばひとりごとだったそれを耳にしたナマエが、なんとも言えない顔をした。