瀬名泉の恋人は今日も機嫌が良さそうに、鍵盤の上で指を踊らせる。お世辞にも広いとは言えない音楽科の練習室には、彼女の奏でる音だけが満ちていた。それを耳にすることができるのは演奏者であるナマエを除けば、観客となる瀬名泉ただひとり。座席は安っぽいパイプ椅子ではあれども、贅沢さすらある。放課後、ナマエの自主練習が終わるのを待つこの時間を、泉は気に入っていた。余程コンクールが近々で余裕がない場合以外は、彼女は泉が望めば練習室に招いてくれる。そのまま練習が終わると一緒に帰る、というのが定番だ。泉にとっては知らない曲が大半だが、彼女のピアノというだけで心地よく感じられた。どんなに疲労を溜め込んでいても、ナマエの音は、ピアノを弾くかたちの綺麗な横顔は、そういうものを一時忘れさせてくれる。はずだった。
「最近機嫌が悪いですね、瀬名先輩」
 それが今日は、何を聴いても荒れた気持ちが静まらない。理由は十分自覚していたが、自らナマエに何かを話すつもりはなかった。だからただ黙って、目を閉じてその音に集中する努力をしていのだけれど、演奏者にはなぜか筒抜けらしい。あるいは、恋人には。ピアノを弾く指を止めずに、それでいてやや鍵盤を叩く力を弱め、ナマエは「理由を当ててみましょうか」と口元だけで笑った。何かを知っている顔だ──というのは、彼氏の勘であり、経験則でもある。
「いらない。どうせソースはかさくんでしょ」
「そうやって結論に急ぐあたり、機嫌が良くない証拠です」
「分析すんのやめてくれる? むかつくんだけど」
「これは失礼しました」
 大して悪びれもせずそう言って、ナマエは横目で泉を一瞥した。手元から目を離しても、彼女の音は可愛げなくまったくぶれない。
「読みましたよ、雑誌」
 泉が何も言わないでいると、やがてナマエは彼の今の不機嫌の核とも言える話題を容易く引っ張り出した。恐らく地雷だとは理解の上だ。
「心無いことが書かれていますが信じないでください、という司さまからの注意喚起がきっかけで」
「そんなところだろうと思った。あいつほんっとバカだよねぇ。ナマエは雑誌なんか読まないってのにさ。読んだとしても、あんな記事信じるわけないのに」
「わたし信用されますね」
「……信じてない、でしょ?」
「ええ、もちろん。わたしは瀬名先輩の味方ですし」
 片手間に紡がれた泉への科白は、言い回しこそさらりとしていたが存外刺さった。あまりにも"当然"であるかのような言われ方をされたからかもしれない。ナマエが泉に向ける言葉の内、「好き」はその軽さが気に食わないことが多いが、こういうパターンは別だ。日頃の言動が伴っているかどうかの差だろう。ナマエは、いつでも瀬名泉の味方で在ろうとする。ちっとも思い通りにならず、生意気ばかりを口にするし、常に自分を肯定してくれるわけではないけれど。ナマエの立場はいつだって、彼女の演奏と同じくらいにぶれがないのだ。
「Trickstarとの間に誤解があって、それは解けたと聞きました。今の先輩は一体何に怒ってるんですか」
 恋人に堂々と語れるような、決して気分の良い話ではない。だから言いたくなかったのだが、あれこれ推測をされるのも鬱陶しい。選択肢は絞られていた。
「……俺たちとあいつらの間に誤解があったのは事実。でも、俺たちの評価が下がったことも、そういう記事をあいつらのヘマのせいで載せられたことも事実だからねぇ。こうしてる間にもあの記事は誰かの目に触れて、Knightsは誰かに不当な評価を下されてるわけ。こんな理不尽、ありえない。許容できないし考えるだけで腹が立つ」
「記事を書いたライターに? Trickstarに?」
「そんなの、両方に決まってるでしょ。しばらく顔を合わせるだけで苛々しそう」
 Trickstarが取材を受けた雑誌のひとつが、Knightsの名前を貶めるような悪意ある編集がされていた。それを知った”王さま”を除いたKnightsは即日Trickstarに詰め寄り、あれが事実無根であるという声明を出すという話で着地させている。
 一見事態は収束に向かっているようで、これがあくまで応急処置であることは皆が承知していることだった。Trickstarの声明を信じる者も多くいるだろうが、それはあの記事を見た全員ではないのは明白。信用を得るのには時間がかかるけれど、失うときは一瞬だと泉は身にしみて知っている。だからこそ、地道な活動で失ったものを積み上げてきたのだ。それがあのたった一回で、しかも他のユニット、よりによってTrickstarのミスで、崩れてしまうなんて我慢ならない。Knightsは、これまで一緒に戦ってきた自分たちのユニットは──どんな手を使っても自分が守ると決めている。Knightsを穢そうとする、あらゆるものから。二度と、悪意に飲み込まれて潰されてしまわないように。
「聞きかじった程度ですが、状況から見るとあちらも被害者ですよね。Trickstarのひとたちに……と言うか周囲にも、余裕のある振る舞いと、懐の広いところを見せておいたほうが後々のためのような気もしますけど。特に遊木くんとか」
「なに甘っちょろいこと言ってんの? ゆうくんは弟だけど、仕事は仕事だから。都合のいい甘さを内側に見せても、つけ上がらせるだけで外側にはなんのアピールにもならないし。Knightsの名誉がかかってるんだからねぇ、当然俺はそこを最優先に動くよ」
 ナマエもまた、住む世界は違えども周囲からの評価を重要視しながら生きてきたひとりだ。言いたい奴には言わせておけばいい、なんてスタンスでもない。その彼女が、この件でこちらに意見するような物言いをするのがなんだか引っかかった。アイドル活動について、泉から話さないことには基本的に踏み込んで来ないナマエが、だ。
 人を宥めにかかるような、やけになだらかで穏やかすぎるメロディが、更に泉を苛立たせた。
「ていうか、あんたはアイドルのことなんて何もわからないんだから、余計な口出ししないで。しかもTrickstarの肩持つようなこと言っちゃってさぁ? 俺をもっと不機嫌にさせたい?」
「確かにアイドルのことはわかりませんけど、瀬名先輩のことは少しわかります」
 とめどなく流れていた音が、急にぴたりと止んだ。曲の終点までたどり着いたわけではないことくらいは、流し聴きしていた泉にもわかる。ナマエはナマエの意思で演奏を止め、瀬名泉と向き合うことを選んだのだと。肩から上だけを泉へと向けた彼女は微笑んだまま、静かに薄い唇を開く。
「瀬名先輩の気がかりは、きっとわたしにはどうにもできないこと。だから特に何か言うつもりはなかったんですけど、ひとつだけ」
 今から生意気を言いますね、という前置きは、まるで子守唄でも聴かせるかのような、あたたかなトーンでされた。
「今の瀬名先輩には余裕がない。そういうものは、得てして周囲に伝わります。知り合いにも、そうではない方にも。余裕のない振る舞いは、瀬名泉というひとを知らなければ知らないほど、誤解させてしまいそうで嫌なんです。つまりわたしは、あなたの名誉の心配をしてる」
「……はぁ? なんなの、それ。なんであんたにそんなこと言われなきゃなんないわけ。そもそも、俺はKnightsの名誉の話をしてたんだけど?」
「そうですね。でも、わたしはKnightsの味方ではないので」
 余裕がないなんて、指摘されるまでもないことだ。あの雑誌が世に出てから、そういうものは根こそぎ持って行かれている。仕方ないと思っていた。普段以上にぴりぴりしていることはユニットのメンバーやクラスメイトを始めとした周囲も理由ごと察しているだろう。もちろん仕事中は隠し切るように切り替えているつもりだけれど、それもどこまで出来ているかは己では確かめようがない。
 瀬名泉は、それくらいKnightsを"大事なもの"であると捉えている。その程度のことがナマエにわからないはずがなく。けれども、彼女は瀬名泉の"大事なもの"に対し、自分はそうではないと告げている。少なくとも、泉はそう受け取った。べつに自身と同じだけ、Knightsを愛せと彼女に望んでいるわけじゃない。ただ、どこか冷めたように、どうでもいいとでも言いたげな表現をする意味はよくわからないし、正直気分は悪い。これ以上話を続けていても険悪になるだけだと判じて、泉は話を切ってしまおうとパイプ椅子から腰を上げた。折角の貴重な二人の時間を、嫌な思い出にしてしまいたくなかった。もういい、と口を開きかけたとき、それを遮るようにナマエが言葉を継いだ。
「わかりませんか。さっき言ったばかりなんですけど」
 深い緑色をした双眸は、泉だけを見つめている。ピアノ椅子に座ったまま、先に椅子を離れた泉を見上げる瞳はあまりにも真っ直ぐだった。嘘偽り無く、事実だけを告げる目だ。
「わたしはあなたの味方なんですよ、いずみさん」
 その言葉は、心に直接刻み込むような鋭さで、いつもとは違う重みを伴ってずしりと落ちてくる。ああそういえばそうだったと、頭の隅で思い返す。
「Knightsのことは好きですよ。あのひとたちが傷付くのはもちろん嫌ですが、あなたが傷付くのは、もっと嫌です」
 彼女はいつだって、真実瀬名泉の味方だ。瀬名泉が何を優先しようと、彼女の優先順位の上位に位置するのは瀬名泉で変わりがない。これはそういう話だ。理解した瞬間、ナマエから目を逸してしまったのは反射だった。くすりと笑う気配があったが、本当に彼女が笑ったのか、自分の目では確認できない。
「帰りましょうか」
 柔らかい音が、泉の名前をもう一度紡ぐ。大事なものを、愛おしいものを呼ぶ声音だ。視線を逸した先、ピアノの鍵盤蓋がゆっくりと閉じられていくのを眺めながら、泉は彼女の提案にやっと頷いた。

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