付き合い方とか、正しい恋人の在り方とか、そういうものを深く思考したことはなかった。付き合って、二人きりで会って、手を繋いで、キスをして、それから──なんて。
瀬名泉は、ひとつ年下のミョウジナマエと付き合うことになるまでまともな恋愛を経験していない。恋愛とはいずれは誰もが通る道だと認識してはけれど、泉のこれまでの人生においては非常に優先順位が低いイベントだ。興味が全くないわけではなかったので、適当な相手で試してみたこともあったものの、その相手に興味を持てなければただ面倒なだけという結論に至っていた。記念日もプレゼントもデートも、なぜそこに、好きでもない相手に、己が手間と時間を費やさなければならないのか終ぞその時はわからなかった。付き合って別れての一通りを掻い摘んで経験してみた彼は、いつか自身が正しく女性を好きになれる絵が見えなくなった。
だから、いまの自分はどうかしていると思う。否、あるいは過去の自分がどうかしていたのかもしれない。
「今週末さぁ、家に両親が帰って来ないんだけど」
いつも通りナマエの自主練習が終わるのを待っての帰り道だった。時刻は夕方と言っていい頃合いだったが、辺りはすっかり夜の景観だ。冬へと移り変わりかけているこの季節は、慌てたように太陽はすぐに姿を消してしまうし、気温もそれに伴ってぐっと下がりやすい。そのせいだけではないだろうけれど、人通りもまばらだ。
周囲は暗くとも、外灯の明かりで隣を歩く少女の表情はよく見えた。泉を見上げてきょとんとしたのち、彼女は少しだけ心配そうに眉を下げる。
「ご両親はご旅行ですか? 夜は戸締まり、気をつけてくださいね。最近なにかと物騒ですし」
「……ふうん、そうくるわけ」
泉に向けられる視線には純度の高い真剣さがのっていた。どうやら真面目に心配されているらしい。ミョウジナマエは基本的に聡い人間だ。泉がみなまで言わずとも彼の求めるものを察する聡明さと、その上でからかってくるような生意気さを兼ね備えている。今回も、ただからかわれているだけならまだ良かったのかもしれない。現実は、泉が何をどうしたいのか、彼女は恐らく検討もついていないのだろう。どんなに賢くとも、経験には勝てない時もある。ナマエもまた、泉と同様にまともに恋愛をしてこなかった人種。つまりここで察しろ、は無理難題だという話だ。
黙りこくる泉に、ナマエが怪訝そうな表情で首を傾げた。
「うん? なにか間違えましたか? 怒ってます?」
「……いや、いまのはちょっとだけ、俺が悪かったから。一旦忘れて」
「どうしたんですか。瀬名先輩ともあろうひとが、素直に間違いを認めるなんて」
「はぁ? あんたってほんとさぁ……あぁもういい、ありえない、さっさと忘れなよ。この鈍感、クソガキ」
「はあ。本当にらしくないですね」
らしくないがそのまま刺さって、ダメージを負った。自分でもそう思うからだ。本当にありえない、この段取りの悪さ。しかも八つ当たり。自省。
ちゃんとした恋愛をしてこなかったくせに、急にちゃんとした段階を踏んだ恋愛をしようとしているのだから、不格好になるのはきっと仕方のないことだった。人並みの付き合い方に、過程に、その先に、大した興味も欲求を持ってこなかったのだ。けれども、いまはそういうことをしたい欲が、確かにある。ひとつずつ彼女と進めたいと思った。手間と時間を費やすことに抵抗はなくなっている。ひとつ進んだら、彼女の新しい一面を垣間見たら、その次を考えるようになった。恋人として行うことすべて、彼女としたい。
「瀬名先輩? いずみさん?」
端的に言えば、触れたい。この、自分の隣で困ったように笑う少女に。自分の欲求の形が明確になったのには、きっかけがあった。
泉はそもそも性欲というものが、たぶん薄い方だ。その手の本を知人に見せられたこともあるが、そこで肌を晒す女性の写真写りと身体のバランスと顔のかたちに目がいって、ついでにカメラマンの腕の良し悪しまで考え込んでしまうので、結局性的な目で見るどころの話ではなかった。職業病だと言われたが、その通りだろう。
服の上からではあるけれど、ナマエのスタイルはそこそこいいと評価していた。いやらしい目で見ていたわけではなく、モデルを職業とする瀬名泉としての評価だ。顔のつくりも華やかで、きっと写真映えするのだろうなとぼんやり考えたことが、今思えば引き金だった。昔見せられた品のない写真のいくつかが頭に浮かんで、彼女も誰かの前で肌を見せる日が来るのだと、ごく当たり前のことを考えた。この良い家で生まれ育ち、いつだって姿勢を正し、涼しい顔をして前だけを見据え生きようと足掻く、うつくしい少女が。瀬名泉を綺麗だと称して穏やかに笑う彼女が、誰かの前で不健全に身をやつす日が来る──その相手は自分がいいし、自分でなければならないと、そんな欲求が生まれた。自分の手が、いつか彼女を穢す。どれだけ甘い声で鳴いて、すました顔をどんなふうに蕩けさせるのか。そうさせるのは自分なのかと、想像したらなんだか落ち着かなくなって、悶々とした。自分もきちんとそういった欲求を持てたことに驚きがあったくらいだ。
「いずみさん、なにを考えてるんですか」
ナマエは、自分が目の前の男にどんな目で見られているかを知らない。だからこうして、簡単にこちらに手を伸ばして、白い指で頬をつついてくる。その指を自分の手で握り込むと、少しびっくりしたようにナマエが目を瞬かせた。泉が足を止めると、自然と彼女の歩みも止まった。
「いずみさん?」
もしかすると、知らない方がいいのかもしれない。綺麗な彼女に、綺麗じゃない欲求を抱えるのが申し訳なくなって、自己嫌悪に陥るときがある。自分が先へ進みたいという想いは、ただのエゴでしかない。受け入れられない可能性を今更考えて、気分がちょっと沈んだ。彼女と性行為ができるかできないかじゃない。そういう己を彼女がどう感じるか、だ。ナマエは生意気に先輩である自分をよくからかってくるけれど、その一方で彼女は泉を憧れだと言う。そこに嘘はないとわかるし、だからこそ、これは彼女が憧れてくれた姿を裏切るような真似なのかもしれないと、怖くなるなどして。
「なにか不安でも?」
「……なんでそう思ったの」
「なんとなく。そういう顔してます。話せることなら、聞きますよ。なんでも聞きますし、わたしにできることなら、なんでもしたい」
「なんでも、なんてさぁ、あんまり無責任なこと言わない方がいいんじゃない。特に、男の前では」
力を入れるのをやめたら、今にもするりと泉の手をすり抜けていきそうなナマエの指を逃さないように、更に強く握った。縋るような掴み方だったかもしれない。ナマエは嫌がる素振りもなく、泉の好きにさせていた。昼白色の無機質な光を浴びながら、泉だけを一途にその目に映す。
「べつに誰にでも無責任に言ってるわけじゃありませんよ。いずみさんだけです。事実、いずみさんにされて嫌なことなんてないですし」
「じゃあ」
これはずるいなと、また自己嫌悪。それでも、唇は思うように閉じてくれなかった。
「週末、俺の家に来てって言ったら、あんたは来るわけ」
「家? いずみさんの? 招待してくれるんですか?」
「そう。それで、泊まって行きなよって言ったら、どうすんの」
「泊ま……それは、その」
「そういうこと」
ナマエの表情が一瞬固まって、ゆるゆると視線が泳いだ。あまりあからさまな動揺を見せない彼女のことにしては珍しい反応だった。ここまで来てやっと、泉の意図を把握したらしい。返答に窮した彼女は、あーとかうーとか声にしながら、最適な答えを探している。常々ナマエのことは困らせたいと思っているが、こういう困らせ方は、好みではなかった。だから──ナマエの華奢な手をどうにか自分を制して解放してやると、泉はその彼女を捕らえていた指で、彼女の額をはじいた。
「ばっかじゃないの、真面目に考えちゃって。冗談に決まってるでしょ〜。困らせてやろうとしただけだから。あんたいつまで経っても生意気なクソガキのままだし、たまにはびびらせてやりたくもなるじゃん? いまの顔は悪くなかったねぇ」
これで誤魔化し切れるほど、ナマエは鈍くないと泉は知っている。これはただの軌道修正だ。いつもの二人に戻るための。彼女がそこに乗っかってくれれば、この話は終わるはずだった。空気感を元に戻して、再び家に向かうべく足を動かそうとして。不意に下ろした手を、冷たい指にぐっと掴まれた。泉を引き止める冷たい手の持ち主は、そこから動こうとせず、表情もどこか強張らせたままだ。
「いいですよ」
キスする時ですら余裕のあるナマエの緑色の瞳が、いまは切羽詰まったように揺れていた。
「行きます、いずみさんの家。泊まります」
「……ちょっと、自分がなに言ってるかわかってんの? 冗談だって言ったでしょ。あんたが負けず嫌いなのは知ってるけど、こんな時まで強がらなくていいんだから。時と場合を考えなよね」
「考えました。考えたから、いいんです」
「なにムキになってるわけ」
「なってません。いずみさん、わたしがなにも知らないと思ってるでしょう。ちゃんと知ってます。真っ当な恋愛なんてしきてないけど、でも」
静かだけれど、必死だった。握られた方の指を、ナマエの親指がなぞるように何度も行き来する。どうやら無意識のようだった。こそばゆかったが、振り解きたくはなかった。
「恋人らしいことは、ぜんぶいずみさんと一緒にしたいと思い、ました」
彼女の視線が少しずつ下へと落ちていくナマエには、いつもはない可愛げがあった。その気持ちが同じというだけで、そういうものをナマエが言葉にしてくれただけで、なんだかとても幸福感で満たされた。まるでいまが幸せの頂点であるかのような錯覚をする。これは正しく錯覚で、これくらいで満足していたら、きっと心臓が持たなくなるだろうに。浅く息を吸って、吐いて、泉は口元をゆるめた。
「俺も」
彼女の顔はほんのり朱に染まっていた。不必要に大人びて、好きという単語はいつだってさらりと口にするのに、こういうことに弱いのは、年相応だ。再度持ち上がった視線は、恐る恐る泉の様子をうかがっている。
「俺もナマエと一緒がいいって──たぶんあんたよりずっと前から思ってたから」
「そうだったんですか」
「あんたは鈍いから知らなかっただろうけど」
「いずみさんに鈍いって言われたくないなぁ」
「事実でしょ、認めなよ」
往生際が悪い恋人は、ううんと不満げに唸っていた。生意気だ。
「週末、今なら見逃してやってもいいけど?」
「いいえ、受けて立ちます」
「なんで喧嘩腰になっちゃうわけ? やっぱり怖いの? あとでやっぱなしって言っても逃してやんないからね?」
「逃げそうになってたら、捕まえてください」
「そうする」
気が付いたら普段通りの調子を取り戻して笑うようになったナマエに掴まれたままの手を繋ぎ直して、引き寄せる。先程は指で痛みを与えてやった額に、今度は唇で触れた。以前はためらった、恋人らしい行為のひとつ。こうやって、自分たちは好意を示す手段を、増やしていく。次は、週末は──二人きりで会って、手を繋いで、キスをして、それから。