瀬名ナマエという人は。瀬名泉の、姉は。小さな波にすら飲み込まれて流されてしまいそうな緩さと危なっかしさが前面に出ているのに、その中になかなか頑固な一面を潜ませていて。他人のことをよく見ているくせに、お人好しが過ぎて人の底に張り付いた悪意を見抜けなかったりして。どこまでも人を振り回し、他人のパーソナルスペースなんか意に介さないような奔放な言動をするようでいて、明確な一線を見極めて引いてくるような人で。
居心地が良くて柔らかで、気まずくも苦しくもなる姉の隣という場所。親愛と恋慕と性愛と独占欲と嫉妬と。そのコントロールに苦労する綺麗なだけではない感情すべて、ずっと泉の傍にいたいと幼い頃から笑い続けた彼女が無自覚に教えてくれたものだ。そんな瀬名ナマエの隣は、瀬名泉が何年もの間守り続けてきた居場所だった。いずれ見知らぬ誰かに取って代わられるものだとしても──だから、なんだというのだろうか。
「いずみくん、おかえり!」
学校から帰って来たら、大学進学を機に一人暮らしを始めたはずの姉の間の抜けた声が、リビングから聞こえてきた。この状況に懐かしさを覚えつつ、リビングに繋がる扉を雑に開けば、ソファから慌てて腰を上げようとする女性の姿を視界に認めた。彼女はスリッパに包まれた足でぱたぱたと泉の傍まで寄ってくると、腕を大きく広げて歓迎を表す。素直に今の喜びをさらけ出したような笑顔は昔と全く変わっていない、まだ少女のようにすら思えた。泉がその場で動かずに様子を見ていたら、ナマエはどんどんにじり寄って来る。放っておけば、思い切りの良い抱擁を姉から食らうことは決定事項だろう。正直色々と面倒なので、それは回避する方向にするとして。彼女の頭を右手で掴んで、それ以上の進行を力で押し留めた泉は、はあと小さく息をつく。
「はいうざぁい」
「ひどーい」
ひどいのはどっちだ。むう、と不満げに唇を尖らせながらも、彼女はもう一度「おかえり」と繰り返した。挨拶くらいは、返してやってもいい。
「……ただいま。やっぱ違和感あるよね、ナマエが家にいるの」
「そう? たった二年家空けただけなのに、いずみくんって薄情」
「二年をたった、とか言えちゃうナマエの方がよっぽど薄情だと思うけどぉ?」
「あ、そこは痛い」
もっとまともに悪びれてみろと内心悪態を吐く。本来うなじをすっかり隠してしまうくらいの長さがあるはずの髪が頭の高い位置で結い上げられ、惜しげなく晒されている白い首元を、泉は見咎められないようにそっと眺めた。その更に下を覆うのは、薄いラベンダー色のブラウスだ。似合ってはいるが、認めたくも褒めたくもないのは、大人びた落ち着きと艶やかさを意識してしまったが故に。そんなものを身に着けなくとも、ナマエは十分可愛らしい。絶対に口にすることはないが。
未だに少女のように幼く笑うのに、身に纏うものは二年前から比べると、彼女の"女性"への変化が垣間見えている。魅力的になっていく姉が眩しいような、その姿を誰もが目にできるという現実が癪に障るような、彼女の変化に比例して胸の内で育っていく複雑な感情を、彼は持て余し続けていた。昔、"少女"であった頃から、今に至るまで服やアクセサリーの趣味が徐々に移り変わっていったのを、その過程を、泉は知っている。あのスカートは捨ててしまった、あのアクセサリーは従妹にあげた、あのジャケットはまだ仕舞い込まれたままだがそろそろ誰かにあげるだろう、好みから外れてしまったから──そういう姉の一切合財を把握しておくことは、彼にとっては自然なことだ。昔から泉によくコーディネイトの相談をしてくるナマエが、それを不自然に思う日はきっと一生来ない。「この服どう思う?」というメッセージに添付されてくる服屋の姿見鏡の前で撮影された、購入を悩む服を合わせた彼女の画像の全てを保存していることを知る日も。閑話休題。ともかく、泉は誰よりも近くでナマエの変化を見続け、その綺麗になっていく姿に焦りを覚えて、手に入らないことを悔やんできたのだった。今も、こうやってすぐ機嫌を直し、泉だけをその瞳に映して微笑むナマエが、可愛らしくて憎たらしい。
「嬉しいなー、今日から一週間、いずみくんと一緒」
「憂鬱な一週間だけどねえ、こっちとしては」
「えー、ひどいよ」
瀬名家の両親は、今日から一週間の旅行へ出かけている。彼女が一人暮らしのアパートから戻ってきたのは、両親の外泊中に家に一人残される泉を心配してのことだった。まだ未成年だから、とかなんとか彼女はそんな理由を述べていたが、泉はもう18歳だ。別段一人で困るような年齢ではないと自負している。だから、当初は子供扱いするなと彼女の泊まり込みを突っぱねてみたりしたものの、結局強引に押し切られた。──白状すれば、その突っぱねすらすんなり承諾するのに腹が立つから抵抗するポーズを取ってみただけなのだけれど。ほんとは嬉しいんでしょ、と全部わかったような口振りのナマエには、やはりむかついた。
「わたしいずみくんとまた一緒に暮らせる一週間を楽しみにしてたのに」
「楽しみ、ねえ……自分が出て行きたくて出て行ったくせにさぁ、なんなのそれ。調子良すぎると思わない?」
つい眉間に皺が寄って、嫌味が口を突いて出てくるのを、泉は止められなかった。
「ナマエってほんっと自分勝手だよねえ。俺の事情なんていつも無視。そういうの、ちょーうざい」
思いのほか冷めた口調になったことに、自分で少し驚いたが、謝ろうとは思わない。また一緒に住めるのを楽しみに? どの口が言うのか。彼女が実家からでも通える距離の大学に合格したことにほっとし、まだ四年間は同じ家に住めるのかと安心した人の気も知らずに、一切の相談すらなくさっさとアルバイトと一人暮らしを始めたことを、彼はまだ根に持っている。自分と一緒に居たいと思うのなら、家を出なければよかったのだ。そうしたら、一週間なんて言わずに済むのだから。突き詰めれば、ナマエにとっての自分など、その程度だったということだろう。
泉の苛立ちを隠さない態度に、ナマエはぱちりと目を瞬かせると、再びゆるりと笑って、優しげに泉を見上げた。まるで弟の我儘を穏やかに受け止める姉のような、泉の大嫌いな顔をして。だから、きっと頭を撫でる目的で伸ばしてきたであろう手を、彼はすんなり払い落とせた。拒まれた手を見下ろすナマエの表情はちっとも曇らない。むかつく。
「ううん、少し悲しいけど、古今東西お姉ちゃんってうざがられるもんだしね。まあ姉弟感あるからいっか」
「ちょっと、わけわかんない前向きな捉え方しないでよ。もっとへこみなよ」
「へこむといずみくんが喜ぶからへこまなーい」
「……なにそれ」
喜ぶか喜ばないかと言われたら、喜ぶだろうが。
「いずみくん、すぐひとをいじめるから。いじめて喜ぶ」
「そう言うあんたも人のこと言える立場じゃないでしょ」
「わたし? わたしはいじめてないよ。可愛がってるだけ」
「そういうところじゃないの?」
「それはお互いさま。やっぱり姉弟だねえ、わたしたち」
「一緒にしないでくれる?」
人を怒らせるのが得意だが、人の怒りを持って行くのも得意な姉だった。現に、怒る気力が気が付けば削がれた。まだ怒ってる? とこちらの機嫌をうかがうように覗き込んでくるナマエと目を合わせるのがなんだか気まずくて、逸らす。もう怒ってないと答えるのも、癪だ。
「隙あり」
「うわ、ちょっと!」
甘い匂いのする塊に襲われたのはその一瞬で作ってしまった隙のせいであった。首に巻き付く腕と、泉の身体に重なる細くて小さくて柔らかなそれ。鼻先を掠めた黒髪の一本すら、麻薬めいた甘美さを伴っているような錯覚が起こるのだから、我ながら救えない。突き放すことはせず、けれども抱きしめ返すこともせず、泉は自分を離さず喋りもしない彼女に努めて冷静に訊ねた。
「……ねえ、これいつ満足するの?」
あくまでこちらは不本意、という態度を崩さない。崩してはならない。この甘えたがりで甘えさせたがりな姉の柔らかさとこの世で一番好きな香りが、至近距離で視覚と嗅覚と触覚に訴えて来るのだから、そしてそれを己の好きなようにできないのだから、こんなもの拷問以外のなにものでもないだろう。耳元で囁かれる声すら、この距離だと尚更甘く耳奥に残った。
「ごめんね。一緒にいられなくて。寂しがらせたね、いずみ」
「────」
五感の内の四つが、彼女の存在を感じるためだけに働いている。もし残り一つも、その仲間入りを果たす時がきたとしたら。それは、姉弟を卒業する時なのかもしれない。そんな、予定すらない詮無いことを考えて。
「はぁ? 誰が、なんで寂しがらなきゃいけないわけぇ? 自惚れるのも大概にしたら?」
どこまでも深くに沈みそうな思考を振り払うように、泉は大げさに声を上げた。ナマエの表情は、わからない。
「馬鹿なこと言ってないで、今から夕飯作るから手伝ってよねえ」
「うん」
「わかったらほら、まず離れる。鬱陶しいから」
「えーやだー」
「やだ、じゃないでしょ。このまま引きずって台所まで行くよ?」
「いいよ」
「いやしないよ、ほんと、ちょー邪魔ぁ! 相変わらず手がかかって仕方ないよねえ、この姉は!」
「楽しそうだねえ」
「どこが!」
しがみつく姉を引き剥がしながら、その身体の頼りなさを改めて知りながら。泉は彼女が帰って来たことを実感し、思い出していた。これ以上ないくらいの暖かな幸せと、行き場を失くした昏い慕情の間を行ったり来たりしていたことを。
──寂しがらせたね。
そういうところまでは見透かすくせに、それくらい長い時間を共有してきたくせに、彼女は泉の真意だけは汲み取らない。必死で隠している反面、勘付いて欲しいという弟のジレンマを、ナマエが暴くことはないのだろう。恐らく、相手を知りすぎているが故に、目に見えているもの以上の何かを愛する家族が抱えているなんて、夢にも思っていない。ある意味とても純粋で、残酷なくらいに鈍感な姉なのだ。そんなどうしようもなく厄介な、この血の繋がらない姉との一週間が、今日から始まるらしい。