中学の頃、まともに学校に通った記憶は薄かったように思う。その時期はまだ、順調とは言い難くもモデル業を数こなしていた時だ。つまり登校は仕事の片手間だった。学年が上がりクラス替えという本来全生徒が興味を持つイベントが発生しようとも、瀬名泉はそれすら他人事だ。誰とクラスメイトになろうが、どうせ顔なんてまともに覚えられない。そんな調子なので学校に友人らしい友人はおらず、そもそも誰かと仲を深める気にもなれなかった。
仕事の現場は絵に描いたような縦社会で、挨拶ひとつ取っても気を抜けない場所である。そういう場で、食えない大人たちを相手にすることで神経をすり減らすことが多かったせいか、仕事場以外で人と仲良くする──言い換えれば、無駄な労力を使うことを泉は嫌がった。彼にとって、人付き合いとは疲れを伴うもの。利益になるわけでもなく興味も持てない相手に、気を遣って譲り合って機嫌を取り合うことに意味が見い出せなかったので。泉は、学校で他人と不必要に関わることを、避けた。
優れた容姿と泉の仕事の特別感に惹かれ、クラスが替われば最初だけは呆れるくらいに人が寄ってくる。彼らは皆、好奇心や下心を忍ばせてやって来ては、泉のつっけんどんな態度にあっという間に嫌気が差して波が引くように泉の元から消えていく。春が来る度に繰り返せば、さすがに慣れたものだった。心に傷ひとつつかないと言い切れるくらいには。ただし。
「おはよう、瀬名くん。久しぶりだね、元気だった?」
「……元気に見えるわけ」
「うん、眠そうに見えるね」
泉の意思とは関係なく、関わりを持とうとしてくる物好きは少なからず存在した。冷めきった学生生活に訪れた小さな変化。中学三年に上がった春に出会ったクラスメイトのひとりは、なかなか手強く、泉の元から消えなかった。今日も、泉のすぐ前の席の少女は彼が登校するなりわざわざ椅子に身体を横に向けて座り直し、嬉しそうにはにかんだ。鞄を机横のフックにかけた泉は、椅子に腰掛けながら、彼女の緊張感のない顔を煩わしげに見つめる。
「休んでた間のノート見せてあげるよ」
「べつにいらないけど」
「なんで? 困らない? わたしの取ったノート綺麗だよ。お弁当のおかず二個で見せてあげるね」
「……あんたほんと意地汚いよねぇ」
彼女の、ミョウジナマエの取ったノートが綺麗なのは既に借りたことがあるので知っていた。そして、ナマエが案外意地汚いのも知っている。
ミョウジナマエは、泉からすれば鬱陶しいくらい明るく前向きで、友人が多く、優等生然としたクラスの委員長。クラスメイトとして過ごした短い間で出来たナマエの"外側の"印象は、そういうものだ。相手が己に対してどんな類の感情を持っているのかは、顔を合わせて喋ればおおよそわかる。彼女は、泉の見立てでは、こちらに対してなんの下心もないようだった。きっと委員長という役職にありがちな親切心と責任感で、自分に声をかけているのだと思っていた。しかし、話せば話すほど、彼女はなんだか思っていたのと中身が違う。こちらを気遣うような素振りを見せるのに、その親切を無下にされても、彼女はどうでもよさそうだ。礼を欠いた物言いに怒ることもなければ、悲しげにすることもない。ただありのままを受け止めて、そっか、と更に機嫌良さそうに笑うのだ。
泉の机に両腕を置いた彼女は、にこりと笑みを深くして、だってね、と切り出した。
「タダより怖いものはないでしょ。貸しの作りっ放しとか、瀬名くんは嫌がると思ったんだけど」
「ノート程度で貸し換算されんのも嫌なんだけど? 腐っても委員長なんだからさぁ、もうちょっと普通に親切にできないの?」
「えーだって瀬名くんちのお弁当美味しかったんだもん」
「もっともらしい理由付けようとしといて、結局それなわけ」
「わたしからあげ好きなの。でもうちじゃ絶対作ってくれないし」
「確かにあんたのとこのお弁当質素だったけど……。だからって人に集らないでくれる?」
押し付けられるようにして初めてノートを借りた日。思いやりの押し売りに辟易しながら開いた彼女のノートは、想像していたよりもずっと丁寧な字で、綺麗にまとめられた内容は授業を受けていない泉からしても理解しやすいしたものであった。さすが優等生と言ったところで、正直助かった。だから、昼休みに一人教室で弁当箱を開いた泉を見下ろして、羨ましそうに目を輝かせたナマエに「……いる?」とつい訊ねてしまったのは、ノートに対する感謝が彼の中にあったせいである。礼のつもりではあったけれども、これを習慣化するつもりは決してなかったのに。彼女は味をしめてしまった。
「ていうかノートくらい、頼めば誰でも見せてくれるから」
「まあ貸してくれはするだろうけど。わたしより綺麗なノート取る人を瀬名くんが見つけられるとは思えないなぁ」
「はぁ? 馬鹿にしてんの?」
「おかずが欲しいだけ」
「……あんたと話してると馬鹿になりそう」
「馬鹿になった方が楽しいよ、学校って」
そう話す声音にふと真剣さが混じったように聞こえて、泉はそっと下がりかけていた顔を上げた。にこにこと泉を眺める彼女は、先程と同じく締まりのない間抜け面だ。
ミョウジと話してると疲れる、と続けて喉まで出かかった言葉を、寸前で飲み込んだ。疲れもしなければ楽しくもない、何も残らない無味無臭なまま、この学生生活を終えるのだと以前は予感していた。今はなんだか、朝から疲れている。悪くも、良くも。うんざりしたような表情を崩さないまま、気付くと泉は「あんたのおかずと交換ならいいよ」と口にしていた。言い訳するなら、色々面倒臭くなったというところだ。
「さすが瀬名くん、話がわかる! じゃあ瀬名くんのからあげとわたしの豆腐ハンバーグと交換ね!」
「ちょっと待ちな、肉とお豆腐の交換って図々しくない」
「知らないの、瀬名くん。豆腐って畑の肉なんだよ」
「委員長のくせに屁理屈こねないでよ」
「委員長のくせに」
くだらないやりとり、遠慮のいらない関係、ほんの少しの充足感。それは瀬名泉にとって、労力を必要としない人付き合いと言えた。