遠い日、右も左もわからない瀬名泉の手を優しく引いてくれた少年がいた。たったふたつしか変わらない年齢差が当時の泉にはとても大きく感じられ、自身を少しばかり上回る大きさの手の持ち主が、大人に見えたのだ。泉の目には、彼の頭から爪先まで常に輝いて映った。恵まれた容姿に洗練された所作、カメラを通したときのより鮮烈な存在感──他人に圧倒的な才能というものを感じたのは、思えばこれが初めてかもしれない。同じ事務所の先輩であったミョウジナマエは、泉の理想のかたちをしていた。業界で大きな顔をするたくさんの胡散臭い大人たちの中でも、彼の言葉だけは、するりと心の中に落ちた。およそ二年前までは、迷いなくそう言えたのに。
*
夢ノ咲学院のハロウィンパーティは、例年通り盛況だった。学院全体がハロウィン一色である。ライブを控えた生徒たちの仮装はもちろんのこと、学院内も客を迎える体制を整えており、教室を始め廊下からトイレまで抜かりなく本格的な装飾がされている。一階の渡り廊下も例外ではなく、どこから持って来たのかわからないかぼちゃをいくつもくっつけたオブジェが幅を利かせていた。見事に客の写真撮影スポットと化しており、のちほどインスタグラムに似たような写真が大量に並ぶことだろう。
他の生徒と同じく仮装に身を包んだ泉は、そんな客たちをさっさと横切りながら、目的の場所を目指していた。ライブ本番まではまだ時間に余裕があり、特に急ぎの用事もないが、この人混みを長くうろつく気にもなれない。本番を終えるまでは、気分が落ち着けられる場所で誰に邪魔をされるでもなく、コンディションを整えたかった。けれども、予定とは得てして狂うもので。
「あれ、おまえ瀬名か。すごいかっこ」
気分を落ち着けるどころではなくなったのは、愛想のないトーンで突然自身の名を紡がれ、その声音に聞き覚えがありすぎたせいだった。
「……はぁ? なんであんたがここにいるわけぇ?」
泉はうつむきかけていた顔を慌てて前へ向けると、あからさまに眉間に皺を刻んだ。周辺を見回すまでもなく、泉の視界の真ん中で、該当の人物がスマートフォンを片手に、人混みの中で突っ立っている。びっくりするくらい周囲に馴染まずに。
やたらと整った顔と姿勢、そして特徴的な空気感は目の前の青年、ナマエという人間を背景から浮き彫りにしてしまいがちだ。泉には遠目でも彼を見つけられる自信があった。いつでもどこでも彼はこうだ。お祭り騒ぎの場がここまで似合わない男もそういないと泉は思う。周りの騒々しさなんておかまいなしといった風で、辺りはこれ以上ないくらいに"動"なのに、彼だけまるで別世界にいるように"静"だった。彼自身も、彼が無意識に振り撒く空気も、いつも穏やかと言うよりも冷めた静けさがある。
以前より明るく染め上げられた薄茶の髪は、泉の記憶の中よりほんの少し伸びている。彼はぱちりと黒目を瞬かせて泉を見下ろすと、にこりともせずに淡々と状況を述べた。
「真に呼ばれた。あいつどこいる? 連絡繋がんなくて」
案内するから来たら連絡しろって言われたんだ、とナマエは面倒そうに付け足す。約半年ぶりに顔を合わせたとは思えないくらいに、彼はさっぱりとしていた。
真に呼ばれたとナマエが何気なく口にしたそれは、泉にとって聞き逃がせない内容だ。真に呼ばれて彼が素直にここへ足を運んだことも、よりによってKnightsとTrickstarの対決の日に真が彼を呼んだことも。どちらも、"なぜ"が付き纏う。
「あんたさぁ、半年ぶりに会う俺にもっと言うことないの? あるでしょ?」
「瀬名の要求はいつも難しい。……この学校、ほんと電波の入り悪いな」
ナマエは考える素振りも見せなかった。煩わしそうにスマートフォンに視線を落とす青年を眺めて、泉はこれに何を期待しても無駄だと自分に言い聞かせる。何も伝えることがないと言うのなら、何も思い出せないのなら、その程度なのだろう。じわじわと落ちる気分を振り払うように、泉は溜息とともにかぶりを振った。ライブ前に言葉を交わす相手としては、最悪だ。
「わかんないならもういい。ていうか、俺のゆうくんの居場所を、あんたなんかに教えてやるわけないでしょ。敵に塩を送る趣味とかないから〜」
「じゃあおまえでいいや。暇なら案内して」
「……なぁにそれ、つまり誰でもいいってわけ?」
約束しているのなら、遊木真はナマエからの連絡を待っているはずだ。悔しいし認めたくないけれど、真はこの男に酷く懐いている。絶対自分の方があの子への愛の深さは勝っているはずなのにおかしい。遊木真は何もわかっちゃいない。そんな嘆きはともかく、健気な弟の厚意を無下にするような言い回しを、彼が黙って流せるわけもなかった。
「ゆうくんがずっとあんたからの連絡を待ってるかもしれないって思わないの? さいってい」
「おまえ言ってることめちゃくちゃ。その辺は相変わらずだね。ちょっと安心した」
表情のバリエーションに乏しいナマエの口元が、薄く緩んだ。感情の揺れのない瞳が僅かに優しげな色を宿して、細まる。
「半年前、もっと余裕なかったろ。不安だったよ。でもいまは、元気そうだ。おまえも、真も」
半年前──最後にナマエの顔を見たのは、忘れもしない、DDDのときだった。格好悪いところを見せたことを、ずっと後悔していたから。
「……なんなの、あんた。突然来てお兄ちゃん面しないでくれる? 鬱陶しいだけだから。ゆうくんのお兄ちゃんは俺だけだしさぁ、俺にはお兄ちゃんなんていない。だいたい、不安なら……」
考えれば考えるほど、言葉にすればするほど、行き先がひとつしかない苛々が降り積もっていくのを感じた。折角久しぶりに会ったのに、情けないところなんて二度と見せたくないのに、口から出るのは己のナマエに対する失望と不満ばかりだ。
「不安になるくらい心配するなら、もっとそれなりの態度ってもんがあるんじゃないの。久しぶりに会っても言うことがないってことは、どうでもいいってことじゃん。俺が何回ライブに誘っても来ないくせに、ゆうくんからの誘いは断らないんだから、ほんっと嫌になるよねぇ」
ここまで言ってしまってから、泉はすぐに悔やんだ。これではまるで、自分の誘いをナマエに断られて拗ねている子どもみたいだ。昔と何も変わらず彼を慕っているみたいだ。ナマエに憧れを向けるのも、期待するのも、とうに止めたのに。頭の奥まで染み付いたものが、まだ抜けきってくれない。
「そのゆうくんへの扱いも雑だし。なんでも持ってるくせに、どうでもよさそうにするとこ、あんたも昔から変わってない。そういうとこ大っ嫌い」
半ば八つ当たりのような科白を、ナマエは黙って聞いている。表情ひとつ変えられないことに、また胸がむかついた。
昔のナマエは、誰から見てもよく出来たモデルだった。彼は自分の魅せ方をよく知っている。カメラの前で、どんな服装でどのような表情や動きを要求されても、すべて計算し尽くされたように、魅力が損なわれることがない。ナマエはもっと高みへ行ける人だと思った。だからこそ、自分も彼のようになりたかった。いつか並んでみせると、研究して努力を重ねて、背中を追いかけ続けて──追いつく前に、ナマエは大学入学を機にあっさりと芸能界そのものを切った。まるで端から自分には必要がなかったとでも言うように、なんの未練もなく、一般人に戻ったのだ。ナマエが言うには最初から高校卒業するまでしか活動しないと事務所と話をつけていたらしい。泉から言わせれば、それは逃げでしかなかった。その逃げた青年が、未だに眩しく見える自分にもまた腹が立つ。
ここまできてもまだ、ナマエが自分と向き合ってくれることに、瀬名泉が上へ行く姿を見守ってくれることに、心のどこかで期待している。同じことを思ったから、真もナマエをここへ呼んだのかもしれない。昔の自分たちを知っているナマエにこそ、決着を見届けて欲しかったのかもしれず。その気持ちは、わからないでもなかった。やはり、ナマエにむかつきはするけれど。
「だって瀬名、いつもテスト前に誘ってくんだもん。おまえぼくを留年させたいのか」
「……は?」
長い沈黙を破ったのは、呆れたような気配の滲んだ反論だった。泉の「大っ嫌い」をまるっと無視して、彼は言葉を継ぐ。
「今回はたまたまテストと被ってなかったから来ただけ。真の誘いも結構断ってる」
「信じると思ってんの?」
「ぼくが瀬名に嘘ついたことあったか?」
「……ないけど」
泉が知る限りは、なかった。売り言葉に買い言葉で疑ってみたものの、心の奥底ではナマエが適当を言っているわけではないと結論が出ている。口の端を更に上げて、ナマエは意地が悪そうに笑う。
「おまえ干渉されんの嫌いなくせに、構われなかったらすぐ拗ねる。そういうとこ、嫌いじゃない」
「はあぁ? いつ誰が拗ねたって? ついでに俺はあんたが嫌いだって言ったんだけどぉ?」
「あ、真から連絡来た」
「ちょっと、会話放棄やめてくれる?」
「合流すんのにもうちょっとかかるらしい。やっぱ瀬名が案内して」
ナマエは泉の文句を受け流しながら、メールアプリで真への返信を打っている。完全に彼のペースに巻き込まれていることへの苛立ちと、懐かしさが同時に浮上してくるから困る。
「──お兄ちゃん面って、おまえは言うけどさ」
スマートフォンに向き合ったまま、なんでもないことのように、ナマエがぽつりと切り出した。
「ぼくは、おまえらの兄になったことはないよ」
「……ナマエ」
「弟なんていらないし、そもそもガキも嫌いだし、大して面倒見てやった覚えもない」
泉に嘘をついたことはないという彼の科白に嘘はなく、であればこれも事実として受け取るべきものなのだろう。思い返すと優しいばかりのひとではなかった。と言うか、甘やかしてくれたような記憶はほとんどない。端的な指摘、愛想のない態度。けれども、そんなナマエが時々、素っ気なく、言葉少なに褒めてくれるのが好きだった。一人泣きたいのを堪えていたら、そっと頭を撫でて、手を引いてくれたときは、救われた。彼は、何かから守ってくれたわけではない。自分は自分、他人は他人というひとだ。しかし、他でもないミョウジナマエから気まぐれに与えられる優しさは、自分たちにとって間違いなく特別だった。
「でも、おまえらが懐いてくれんのは、わりと気分悪くなかった」
ああそうだこの感覚だったと、心中に去来する郷愁を泉は素直に受け入れた。ナマエにとっての自分たちもまた特別であればいいと願った、あの頃ごと蘇って。
「だから、最後まで見ててやるって決めてるんだ。ふたりとも」
その願いが叶っていたことを今更、知った。スマートフォンから視線を上げたナマエが、やっと泉と目を合わす。泉がナマエを見るように、今度は彼が、泉をどことなく眩しげに見ていた。
「おまえらは、輝く世界が似合ってる。向いてるよ。もっと、上まで行ける」
いつかのように、彼の言葉がすとんと胸の中に収まる。ナマエが言うならそうなのだろうと、得も言われぬ説得力に、泉は笑いたくなった。まったく、あんたというひとは。
二年前、彼が芸能界を去った日、自分の存在もどうでもいいと言われたような気がして、落ち込んだことを覚えている。その内自分だってナマエを切り捨ててやると思って、それでも見返したくて、彼の行けなかった上へと自分はどんなかたちになっても走り抜いて見せると決意して。表舞台から去ってしまった彼に失望したけれど、見ていて欲しくて、認めて欲しかった。なぜならナマエは、泉にとって特別であり続けたから。
「当たり前でしょ。俺は……俺たちは、あんたとは違うんだからねぇ。ちゃんと見てなよ。あんたの目が節穴じゃないって、証明してあげるから」
「うん」
カメラに残せないことが惜しくなるくらい、ナマエがうつくしく微笑んだ。つい見入ってしまいそうになったことは、墓場まで持っていくとして。
そろそろ行こう、と泉に案内を促すナマエが、泉の背中をぽんと叩いた。昔は大きく感じられた手だけれど、今は泉とそう変わらない大きさだ。その細い手が泉の頭を撫でることも、手を引いていくことも、この先きっと二度とない。たぶん、それでいい。