いつだって彼は、わたしの先を行く。
男子よりも女子の方が早熟だというのが通説で、小学生まではその傾向が強かったように思う。ただしそれはあくまで全員に当てはまるものではなくて、現にわたしはそっち側だった。例えば小学生のとき、クラスでは男女合わせて二番目に背が小さかったし、みんなが好きな男子の話をする中で、わたしはそういうものに興味が持てなかった。肉体的にも精神的にも、成長が遅かった。
一方、わたしのひとつ年下の従弟はと言うと。肉体こそ成長はごく普通の男子と同じだったが、精神的には早熟だと言っても過言ではなかった。たまたまそうだった、と言うよりは、それはひとえに環境のせいだろう。持って生まれた綺麗な顔と、習い事で培われた魅せ方と。それを活かす場を、彼はモデルの仕事という形で幼い頃から与えられていた。様々な種類の大人たちを相手にして、様々な思惑に触れて。彼はわたしよりも、早くに大人になった。ついでに、身長だってわたしが従弟を越えたことは出会ってから一日だってない。
小学生の頃、大人びている従弟をわたしは勝手に年上だと認識していたし、やや成長の遅いわたしを彼は勝手に年下だと認識していた。つまりそこで噛み合ってしまったのが良くなかった。何が起こるのかと言えば、歪な疑似兄妹関係。親戚の集まりがある度に、従弟がわたしの面倒を見ようとしてくれたし、わたしは遠慮なく従弟に面倒を見られていた。傍から見れば微笑ましい光景だったようで、お互いの親たちは別段なんの訂正も入れることはなく。
会えば話すのは専ら彼の”仕事”の話と、”仕事仲間”の話。わたしがそれを聞きたがったからだ。知らない世界を知るひとが眩しかった。自分よりずっと先を行く彼が、とても大人に見えた。学校や勉強の進み具合の話はほとんど出番がなくて、それがわたしが事実を知る日を遅らせた。
すべてを知ったのは、小学校六年生に上がった時だ。六年生が終われば次が中学生だという知識はもちろんあった。従弟は中学生になるのだと思っていた。またひとつ、離れた存在になるのだと。けれども、彼は──その時、小学五年生だった。遠い遠い春のことだ。
これをきっかけにわたしたちの関係にヒビが入ったのかと言うとそんなこともないのだけれども。彼はそれがどうしたと言わんばかりだったけども。わたしは、従弟をお兄ちゃんと呼ぶのをやめた。
*
わたしを好きだと口にして、わたしをソファに縫い止めるその腕の持ち主は、ふわふわとした触り心地の良さそうな髪を暖かな電球色に照らされていた。
「いずみくんは、もしかしてほんとにわたしが好きだったの」
自分は、瀬名ナマエという人間は、順調に大人になっているのだと思っていた。
「こ、のクソガキ」
高校を卒業して、専門学校への進学を機に、家を出て一人暮らしを始めた。
「なんで、ここまでされないと気付かないわけ? これまではなんだと思ってたの?」
「そういうネタ?」
「馬鹿」
ありふれた自由を手に入れ、新しい知識を身につけ、新しい遊び方を覚えた。
「色恋なんて全く興味無さそうにしてたくせに。進学して、浮かれて大してかっこよくもない彼氏なんか作って、速攻別れてちゃってさぁ、ほんっと馬鹿だよねぇ。あんたも、そんな隙を作った俺も。ちょ〜最悪。俺の人生でトップクラスの後悔かもしんない」
「それはいずみくんが後悔するの? なんの後悔?」
「ナマエの手綱を握っておかなかった後悔に決まってるでしょ」
でもそれは、大人になることと同義ではなかったらしい。新しいものばかりに目を奪われて、まるで足元が見えていないなんて、どちらかと言えば子供だろう。おもちゃをもらったばかりの子供と同じだ。従弟──瀬名泉の言う通り。ただ浮かれていただけ。そういう自分に気付くきっかけをくれるのは、いつもひとつ年下であるはずの彼だ。いずみくんはわたしをよく見ている。文字通りよく観察されているような気分になるし、瀬名ナマエという人間の中身への理解も深かった。わたしは、わたし自身のこともよくわからないときがあるのに。
冷めているようでその奥に熱がちらつく青い瞳は、責めるような棘も伴ってわたしだけを映し続ける。間近に迫る、たくさんのひとを魅了してきた容貌は、機嫌が悪そうに歪んでも、うつくしいままだ。
真っ当な人生を歩んでいれば、家族と近距離で向かい合って動揺するひとはいない。家族の顔がたまたま整っていただけ。だから見慣れたその顔に緊張を覚えたことはなかったはずなのに、この瞬間、まともに直視することにやや照れが生じ始めていた。視線も表情も言葉も、そのどれを取ってもそこに籠もる温度は高い。このひとは、本当にわたしが好きらしい。これまで何度も、彼は似たようなことを口にしていたが、わたしはそれを本気のものとして受け取ることはなかった。真剣に向き合う選択肢を選んで来なかったと言うか、そもそも彼の話は伝わりづらい。
──ナマエは俺のことが好きだもんねぇ。大きくなったら、お兄ちゃんのお嫁さんにしてあげる。
──ありがとう?
お嫁さんなどと言われたところで、当時小学五年生のわたしは結婚にぴんと来なかったし。本当の家族になるという意味なら、まあいいかくらい適当な解釈で。精神的な未熟さゆえに、その意味を曖昧に捉えていた。
──ナマエは俺のお嫁さんになるんでしょ。忘れないでよね。
中学生になっても、高校生になっても、いずみくんは会う度にそう繰り返していた。さすがに結婚の意味は正確に把握していたけれど、昔のノリをそのまま続けているだけなのだと思いこんでいた。
ソファの上で、身じろぎすら許さないとでも言うように、わたしの身体を押さえ込んでいるひとはわたしのよく知るいずみくんのかたちをして、わたしの知らない表情をしていた。逃げることも目を逸らすこともできそうにない。不思議なことに、拒みたくなるような嫌悪感は湧いてこなかった。
「ていうか、俺とこれだけ長い間一緒にいて、なんであんな顔面偏差値の低い男と付き合えんの? あり得なくない?」
「顔で選んでないから?」
「良いように言うのやめなよ、つまりあんたの低めに設定したハードル越えた奴なら誰でも良かったんでしょ。ばっかじゃないの。そういうとこ昔からガキだからねぇ、ナマエって。すぐ形から入りたがるし、背伸びしたがる」
「容赦ないね」
「しないって決めたから。特に、悪い子には」
手のかかる子どもを見るみたいに、いずみくんの目に呆れたような色が浮かぶ。
「いずみくんにガキ扱いされたくない」
「だってあんたの方がガキじゃん」
「わたしの方がお姉ちゃんだし」
「歳だけね。中身は俺の方が大人だから。あんたがお姉ちゃんなんじゃなくて、俺がお兄ちゃんなの。ずっとそうだったでしょ」
「そうだったかなあ」
「そうだったの」
結局、幼い頃の甘え癖が抜けていない。思い返せば今日だって。いずみくんからかかってきた電話に出たわたしはどうやらいつもと様子が違ったらしく、それを察知したいずみくんに根掘り葉掘り理由を聞かれて、最後には彼氏と別れたとぽろりと言ってしまった。そしたら、直後に何故か「今日家に行くから」と一人で決定事項にした彼をわたしは拒めず今に至る。彼氏と別れてなんとなく寂しくなってしまったから、誰かと居たかったというのはある。それにしたってこれってだいぶ甘えているし、かなり情けないなと我に返るなどした。後の祭りだけど。
いずみくんに彼氏の話をしたのはこれで二度目だった。一度目は、彼氏が出来たとき。浮気だなんだと色々言われて、これまで見たことがないくらい酷く機嫌を損なっていたので、もうこの話はしないと心に誓った。今回も、べつに愚痴を語ったわけではない。彼氏と別れた理由の説明を求められたから、かいつまんで説明してあげたくらいだ。
元彼には、あのひとには、わたしだけではなかったし、わたしも、元彼だけではなかった。浮気していたとかそういうことではなく、お互いの優先順位がとても低かった。学校が、勉強が、友人が──そちらに気を取られている内に、付き合う意味を見失った。このひとじゃないといけない理由はなかった。相手も同じだ。だから結果的に振られた形にはなったものの、未練はなくて。でもなんとなく、物寂しくて。
いずみくんだって、優先すべきものは多いひとだ。大事なものがたくさんある。例えばユニットの仲間、例えばモデル仲間。だから恋人ばかりを優先もできないわけで、この別れは仕方なかったのだと、ぶっちゃけ同意が欲しかった。決して、俺ならそんな理由で別れたりしないとかそういうものが欲しかったわけじゃないのに。
「ナマエの好きなタイプ、年上のお兄ちゃんみたいなひとだよね。叔母さんが言ってたよ」
余計なことを。
「つまり俺のことじゃん。ナマエが好きなのは、ずうっと昔から俺だけだったんだよ。あんたは全然気付かなかったみたいだけど」
図々しい、とはさすがに言えなかった。言われてみれば思い当たる節はある。それを指摘されるまで自覚できなかったのは、わたしが鈍いせいなのか、無意識に気付かないようにしていたからなのか。
「そうだったとしても。わたしが彼氏と別れた理由はさっき話した通りだし、これってわたしといずみくんでもあり得る話じゃない? このままだと繰り返すよ」
「はぁ? ナマエは俺のこと舐め過ぎだよねぇ。薄っぺらい元彼と一緒にしないで欲しいんだけど。……ああもう、元彼って呼ぶのも腹立たしい。結局さぁ、ナマエにはあいつじゃなきゃいけない理由がなくて、あいつにはナマエじゃなきゃいけない理由がなかったんでしょ〜。だから手放すのも早かったの。でも、俺にはあるから」
「わたしじゃなきゃいけない理由?」
「なに、知りたい? いいよぉ、俺と結婚するってちゃんと約束したらいくらでも教えてあげる」
「まあ知らなくても支障ないかなあ」
売り言葉に買い言葉のノリでそんなことを呟いたら、一瞬いずみくんの眉があからさまに釣り上がって、わりとすぐに下がった。眉間に皺を寄せて、ちょっとだけ苦しそうな表情で、口元は緩ませている。見てるこっちまで、苦しさが伝染して、胸が痛くなりそうだ。少し意地悪を言い過ぎたかもしれない、と内心反省したくらい。腕を押さえてくる彼の手の力が、僅かに弱まる。
「──俺じゃだめなわけ? あと何が足りないの。ここまでしても俺はあんたにとって、まだガキだってこと?」
請うような余裕のない眼差しが、ひたすらにわたしだけに注がれていた。兄ぶっていたいずみくんとはまた少々違う面持ち。お兄ちゃんのように振る舞う一方で、彼は時折年下らしい一面を覗かせる。捨てられかけた犬みたいな弱々しさをちらつかせられたら、自分がこの顔に弱かったことを思い出した。そしてそれ以上に──目の前のこのひとは、わたしを女として好いてくれる男なのだと意識させられて、熱と同時に昔置いてきたはずの感情が浮上しようとするものだから、頭がくらくらした。そもそも、子ども扱いしていたつもりはない。だって、最初は兄だったのだ。憧れすら抱いた眩しい相手だった。要は、たぶん初恋だったのだと思う。けれどもそれは、遠い昔に置き去りにしてきた慕情。年下だと知って、いずみくんが今までしてくれたように今度はわたしがお姉さんにならなければと意識を改めて。それをきっかけに、段々と甘酸っぱさの詰まった感情は沈んでいった。子供、と言うよりも、ただ守るべき家族で、弟だった。そういう風に、接していたつもりだった。それがこの従弟を傷付けていたとも知らずに。
「知ってるよ。昔は俺のことが好きだったことも、今はもうそんな風に俺を見てないこともさ。ナマエに彼氏が出来たとき、俺は浮気だって言ったけど、そもそも付き合ってもないしねぇ」
「あ、ちゃんとわかってたんだ」
「当たり前でしょ、馬鹿にし過ぎだから。俺とナマエは結婚するんだって、会う度に言い聞かせてたらそういうもんだって刷り込まれないかなって期待はあったけど」
「……いずみくんの頭の中のわたしって小学生のままじゃない?」
「そうかもね」
「いずみくんの方がわたしを馬鹿にしてるじゃん!」
意地悪そうに笑っても、どこかさみしげな色は抜けきらなかった。そんな顔をさせたいわけじゃない。
「ともあれ、ナマエが俺を好きじゃなくなったのを理由に諦めてやるなんて出来そうにないし。そんな簡単に諦められるもんなら、俺はこうやって悪あがきなんてしてないの」
いずみくんの骨ばった手が、わたしの髪をするすると撫でていく。男の人の手なのだなと、当たり前のことがぼんやりと過ぎった。
「だから、ねえ、いつになったら……俺を男としてもう一度好きになってくれる?」
迫る首筋が、表情が、大きな手が、なるほど彼も大人へと変化していっているのだと思い知らせてくれる。わたしはわたしなりに、従弟を可愛がってきたつもりだったのに。いつの間にか、わたしよりずっと大人っぽい顔をして、大人っぽいことを言うようになって。こんなの、ずるいと思う。
ゆっくりと腕を動かして、腕一本分だけ彼の拘束から抜け出した。不安そうに揺れる瞳を見つめ返し、慰めるようにその手入れのよくされた頬に触れた。
「──いまかもしれない」
今なら、もしかすると。この胸の奥で数年の間を置いてぶり返した甘い疼きを、今度は失わずにいられるかもしれない。わたしの零した一言に、いずみくんは軽く目を見開いたのち、先程の弱々しさから一転、とびきり機嫌が良さそうに微笑んだ。切り替わりが早すぎて、今度はわたしが不安になった。
「はいよくできました〜」
頬に触れていたわたしの手に、いずみくんの指が重なった。ひんやりした手にきゅっと握り込まれて、なぜか彼の唇がわたしの指先を掠めた。まるで指の一本まで自分のものだと、図々しくも持ち主のわたしに誇示するように。もしかして、今のは、わたしは、乗せられたのだろうか。押してダメなら引いてみろだったのか。その手の駆け引きは、一体どこで覚えてくるの。
「ナマエは本当に、いつまで経っても俺に弱いよねぇ。いい子」
上機嫌で私の頭を撫でるいずみくんは年下らしさを見せたときとは打って変わって、すっかりわたしを子供扱いしている。まあ弱いのは、事実だけど。
「いい子だから、俺と結婚しようね」
そういえば、いずみくんがわたしを好きになったのは、どれくらい前からだったのだろうか。なんとなく、わたしがいずみくんを好きになる前から、彼はわたしに目をつけていたような気がする。何故なら──彼はいつだって私の先を行くから。