その少女が蓮巳家の寺へ来た日のことを、蓮巳敬人はよく覚えている。振る舞いも表情も、その美しさも──すべてが相俟って、彼女は人形そのもののように思えたのだ。正直呆れたし、腹も立ったし、見惚れも、した。寺にはおよそ似つかわしくない、その容姿に。
 敬人の叔父にあたる人物が事故で亡くなり、残された母娘の娘の方を、蓮巳ナマエといった。母親は遠い異国の人間で、元々身体の弱い彼女は精神面と体力面の両方から無理が祟って、あっという間に弱っていったらしい。みるみる衰弱し、病院から出られなくなるまでそう時間はかからなかった。そこで娘を預かることを申し出たのが、敬人の父親だ。彼は敬人によく言い聞かせた。同い年だろう、おまえが一番仲良くして、守ってやるんだぞ──小学生ながらに無責任な言い草だと敬人は思った。蓮巳家へ来ることで彼女の住む家も通う学校もがらりと替わることは理解できたが、それと自身が彼女の世話を焼かなければならないことはイコールではないだろうと。ただでさえ微妙な年頃で、しかも異性だ。すんなりとはいかないだろう、互いに。第一、敬人は同性であろうとも友人は少なかった。唯一対等と言える幼馴染以外は、全員頭が悪いガキだと思っていたから。
 どことなく気まずさが拭えぬまま、その日はやってきたのだが、彼の懸念は想定以上の形で現実となった。
「ナマエ、夕飯の時間だぞ」
「…………」
「聞いているのか」
「聞いてる。ほしくない。どっか行って、寺のひと」
「敬人だ。……まったく、貴様というやつは」
 こんなやりとりを幾度なく繰り返した。蓮巳ナマエは、敬人どころかこの寺の住人の誰にも懐かず、心を開きはしなかった。二日経ち、三日経ち、一週間経っても、ナマエは寺へ来た日と変わらない距離間の、他人だった。母親の病状が思わしくないことで、塞ぎ込むのはわかる。しかしもっと最低限の礼儀というものを備えていてもいいだろうに。一般家庭よりも礼儀作法に厳しい家に生まれた敬人は、自分にも他人にも厳しかった。これだからやはり同年代は。いつまでも子供で困る。
 そんな敬人の不満もよそに、日がな一日、寺の縁側で腰を下ろす彼女は庭に向かって設置された置物の一部のように動かず、喋りもしない。学校に行きたくないという身勝手な登校拒否を、周囲の大人が許していたのも気に入らなかった。
 しかし。その頃敬人は学校から帰ると、いつも夕焼け色に染まる庭とその景色に溶け込むようにぽつんと座る置物同然のナマエを、少しの間だけこっそりと柱の影から眺めるのが日課になりつつあった。まるでそこだけ切り取られた世界の中で、時間が止まってしまったかのようなその光景は、なんとなしに彼の目を惹いていたのだ。人に溶け込まない、いけ好かない少女。それに腹が立つと同時、その浮世離れした雰囲気には、本の中の登場人物のような、現実に則さない魅力があった。
 その印象が少し覆ったのは、二週間と四日経った頃だ。
「…………っ」
「ナマエ?」
 深夜、たまたま水を飲みに起きた敬人は、誰もいないはずの縁側でナマエが一人蹲っているのを、見た。肩を細かく震わせて、うつむくナマエの顔は、か細い両手ですっぽりと覆われていた。その表情は窺えないが、手の平の下は、想像に難くない。
「泣いているのか」
「泣いてない」
「なら、顔をあげたらどうなんだ。話す時にひとの目を見ないのは、失礼だろう」
「……泣いてない。失礼でいい。どっか行って」
 絵に描いたように強情だった。敬人はごく自然に、彼女の隣に腰をかけ、その頼りない背中をぽんぽんと叩く。そうしなければ、今見捨ててしまったら、一人で泣かせてしまったら、後でものすごく後悔するような、そういう予感が彼の足をこの場に縫い止めた。
 びくりと一際大きく身体が震えたのち、「いやだ」と掠れた声が拒否を告げる。嫌がれているのかと思ったけれど、そうではないと判明したのは直後だった。
「……それ、されたら、泣くから、いやだ。思い出す、から」
「誰を?」
「ママ」
 ナマエと出会って一週間と四日後に知った、彼女の在り方の理由。結局、寂しくてたまらないのだろう。目の前にないものばかりを、想っている。ここにいない人へ祈って、ここにはいない場所を望んで。彼女の定位置となりつつあるこの庭すら、彼女にとって自身の居場所という認識はなく、我が家であった場所以外は全部"外"。求めた相手と繋がっているはずの空を見上げて過去に思いを馳せるのに、この場所は丁度よかった。きっとそれだけのことなのだと、敬人はそう解釈して。そんなの悲しすぎると、子供ながらに悲観して。自分より弱い生き物を、守ってやらねばらないような、気がした。
「俺は、ナマエの母親にはなれない。この場所も、ナマエの前にいた家にはならない」
「……わかってるもん」
 年下の少女。たったひとつしか違わないはずなのに、膝を抱え込むように身体を折る彼女が己より一層幼く、か弱く見えた。どうすればいいのだろう。どうすれば、彼女は笑ってくれるのだろうか。
「でも」
 厳しくも優しい兄のこれまでの振る舞いを、頭に思い浮かべた。敬人は次男で、末っ子だ。尊敬できる兄がいる。決して甘やかしてくれるだけの兄ではなかったが、彼の存在は、敬人を安心させる一人だった。自分も、そんな兄のようになりたいと思った。少女にとっての、兄に。
「俺たちは貴様の家族になれるし、この場所は、貴様の家になれる」
「……そんなの」
「──俺は貴様の、兄にはなれる」
「…………」
「兄の前では、泣いていい。兄には甘えてもいい。さみしかったら、呼んでもいい」
 顔にべったりとくっつけていた手の平が、僅かに離れた。指の隙間から敬人を見上げる目の色は、この薄暗さでは正確にはわからないけれど、恐らく赤い。じっと、こちらを試すような、やや尖った視線が敬人に刺さる。やがて、どこか不服そうな調子で、薄い唇が開いた。
「……なれないよ。ほんとの兄妹じゃない。血が繋がらないおとうさんは、おとうさんになるって言ったのに、出て行ったもん」
 そんなものは敬人にしてみれば知ったことじゃなかった。それは血が繋がっていようといまいと家族として失格だったという話で、しかし今のナマエが求めているのは理屈であり、確証であり、揺るがないものであることを理解してもいたから──
「知らないのか。俺と貴様は従兄妹だ。イトコという漢字は習ったか? 俺から貴様を見た場合、イトコの漢字は従うに、兄と妹と書く。つまり実質、兄妹だろう。血は繋がってる」
「な、なるほど……?」
「だから」
 助けてやるから、と。少女の指通りのいい髪を撫でながら、どうかここを居場所にして欲しいと彼は願う。どうか、隠さずに泣いて欲しいと、そう願って。かくして、彼女の表情を隠していた指は、いつの間にか敬人の服を強く握るようになっていた。やっと、泣きはらした目と対面した。ぼろぼろと溢れる涙を拭うのを止めたナマエは、「さみしい」としゃくりあげながら告白する。
「さみしいよ、敬人」
 その日彼女は初めて敬人の前で泣き、初めて敬人に甘え、初めて彼の名を呼んだ。



 それから。ナマエは敬人のことを、敬人と呼ぶようになった。彼の兄は、"敬人の兄"という認識だったし、家の誰に対しても無愛想は変わらずだったけれど。敬人だけは、彼女の中で特別で、それは誰にの目にも明らかだった。学校へ行くようになり、時折笑顔を見せるようになっても、ナマエの世界は母親と敬人だけで構成されているかのようで。自尊心が満たされ、まるで自身の存在価値が底上げされたかのような優越感があった。他者の中で己という存在が大きな割合を占めている。特別であることが、誇らしかった。ナマエが、"彼"と出会うまでは。
「貴様、一体なにして……って、朔間さん?」
「……よう、坊主」
 少女の手をなんの躊躇いもなく掴む、少年がいた。それを受け入れる少女がいた。その朔間零という存在に、初めて、危機のようなものを覚えた。己の存在価値を揺るがされるような、危うさを。

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