朔間零が短い人生で出会った数多くの人間の中で、彼女はその存在まるごと誰よりも危なっかしい少女だった。それは会う回数を重ねれば重なるほど、より強固な確信へと変わっていくのだから困ったものだ。
人の興味を軽く煽っていくくせに、引き寄せられてきた他者への正しい対処法を、彼女は知らないのだろう。真っ向から向き合おうとする相手を、少女はどうしたって無視できない。吠えてくる飼い犬を視界に入れない強かさを持っているのに、今にも助けを求める捨て犬を放っておく勇気はない。無愛想な分、一見冷めたひとのようで、その実恐らく他人に甘いのだ。零の見立ててでは、それは彼女自身が優しさを欲している裏返し。自分が好いた相手に拒まれたくないから、自分も拒まず、人の求めに手をのばす。理屈はわかるが、要領が悪いし生き方としては下手くそだ。だから自分のような厄介な奴に捕まるんだ、と零は蓮巳ナマエに同情しながら。
「ひでぇ怪我」
「転んだ」
「見りゃわかる。なに平気な顔でここまで来ちゃってんだよ。墓参ってる場合じゃね〜だろ」
「放っておけば治るから。いつかは」
「そりゃあ真理だろうけどさ」
その日、いつものように墓場に現れたナマエは、紺のスカートから伸びた右足の膝小僧にやや大きめの怪我をこしらえていた。こすったような傷跡に、血がそこそこ滲んでいるのが見えた直後。零は無意識に、ひゅっと小さく息を吸う。彼は、吸血鬼を自称する朔間零は、血が苦手だ。見るのも、味わうのも。濃い錆の苦味が舌の上で広がったとき、吐き気を催した記憶が鮮明に味覚に焼き付いている。だから、新しい血が流れるその瞬間に、零は立ち会いたくなかった。さっさと洗い流して来いとか、ティッシュで拭いておけだとか、言いたいことは色々あった。けれども、何から言おうか選別している間中──なぜか彼女の膝から目が離せなくなった。鉄臭さを確かに味覚も嗅覚も思い起こせるのに、今目の前の赤色に零が感じるものは、そんなネガティブだけの要素ではなく。だからこそ、少し困ったし、僅かながらに動揺も生まれていた。それをすっかり隠せるだけの経験を積んでいる零は、なんでもない顔で、やや呆れたように見せかけて。
「……もうちっと自分を大事にする努力をしてみた方がいいんじゃね〜か、女の子。顔に傷でも出来ようもんなら、過保護なオニイチャンの雷が落ちちまうぜ?」
「もう転んだものは仕方ないよ。それに、実際怪我は顔じゃないし」
痛いか痛くないかと問われたらきっと痛いと答えるだろうに、本人は泣いた様子もなく、随分あっさりとしたものだ。人の気も知らずに。
「開き直り方だけは一人前になったもんだな。坊主の苦労が手に取るようにわかるよ。放し飼いにしてる猫が毎度怪我して帰って来てたら、家に閉じ込めたくもなる。気をつけろよチビちゃん、オニイチャンはおまえを傷付ける奴には容赦なく厳しい。それはおまえ自身も例外じゃね〜かもな」
「そうだね、知ってる」
当たり前のものとしてそれを受け止める異常さは、一周回って彼らの中では正常として落ち着いているのだと零は理解した。
ナマエの兄を自称する、彼女の従兄妹である蓮巳敬人は。少女の兄であることに拘り、少女を"兄として"守ることに拘った。元々真面目過ぎるくらいの少年だ。何かのタイミングで変な使命感に火が着いて、消えなくなってしまったのだろう。現実的且つ合理的であるようでいて、どこか空想めいた理想も見ているがゆえに。彼女の兄であること、誰かを守ること、誰かに求められる自分。現実ラインの手近なところで、彼は望みをひとつ叶えたと言える。一種の矛盾を内包した敬人は、ある意味思春期らしいと言えるのかもしれない。そういった少年の話相手をしている時間は、案外有意義で、好きだった。
しかし当の妹の方は。一筋縄ではいかない、思春期を理由付けとして使うには弱い複雑さと、彼女特有の勘の良さが、時折零をひやりとさせた。
「そ。まぁ小言は俺の担当じゃねえからさ、今日はこのくらいにしといてやるけど」
けろりとした顔で、ランドセルを地面に下ろしながら、ありがとう、と可愛げ無く彼女は答えた。ごく自然に零との距離を詰めたナマエは、相変わらず愛想はないがうつくしい顔で、零の目を宝石にしてはやや輝きの薄いエメラルドグリーンの瞳が、真っ直ぐに見据える。
「どうしたの?」
「なにが」
「なんかへん」
「おまえほどじゃね〜よ」
「うん。わたしほどじゃないかも。でも、当社比で、今日の零は変」
「はは、変な言葉覚えちまって、坊主の教育の程が知れるよ。あいつも年に似合わず結構マニアックだもんなぁ」
笑い飛ばしてみるものの、そこにナマエは反応を見せない。彼女はとうに零の違和感に勘付いているらしかった。曇のない目に映る己が気まずそうな顔をしているのを見るのは、益々気まずい。嘘を吐き続けるのを苦にさせる目は、正直言ってずるいと思う。探るように向けられる視線に耐え難くなってきた零は、そっと目を逸らしながら、渋々一つの提案を絞り出した。
「怪我……の、手当。させてくれ」
*
澄み渡る青を覆うように出張っている雲のおかげで、ついでに太陽の光も遮られ、零の体質にはかなり優しい天気だった。おかげで、5月にしては少々肌寒い日ではあるが。ナマエに水道で傷口を洗って来るように指示し、その間に墓地の管理事務所で絆創膏を貰ってきた。
座れよ、と指さした先が墓石であったせいか、ナマエはむうと眉をしかめた。表情の険しさが兄そっくりだ。少し気を遣って、結局近くの花壇に腰掛けさせることにした。途中、「墓に座るくらいなら地面でいい」「地面で足見せたらパンツ見えるぞ」「いい」「よくね〜だろ」というやりとりの中で、蓮巳家の教育方針に疑問を持つなどしつつ。
靴と靴下を脱ぎ捨てた細っこい足にまとわりつく水滴は、花壇に座る彼女が足をぶらぶらとさせる度、重力に従い下方へと流れた。膝を折って彼女の前に跪くように屈んだ零はその様子をぼんやりと眺め、その白い肌に刻まれた傷を見た。まるで真っ白なキャンバスに赤い絵の具を一滴垂らしたように、そこだけがぽつんと紅く滲んでいる。傷口に混じっていた細かい砂は洗い流されたものの、血は完全に止まってはいないようで、新鮮な赤色が肌を汚した。
「思ってたより血が固まってなかったな。とりあえず絆創膏、貼っといてやる」
「うん。ありがとう」
「こら、足動かすなよ。貼れないだろ、意地悪すんなって」
小さく笑う少女を見るに、確信犯だろう。絆創膏片手に、零の手から逃げ出すように前後に動く足を掴まえた。少し力を入れたら、折れてしまいそうな頼り無さだ。
再び、紅い瞳に赤色が飛び込んでくる。零の視界を占領するのは、嫌いだった血の色そのもの。鼻をつくのは錆臭さ、だけのはずで。決して、思わず唾液を呑み込むような、甘いなにかではないはずだったのだ。決して、目眩がするほど味覚と嗅覚を誘惑するようななにかであっては、いけないのに。
「零?」
きっと、本能というやつだ。気が付くと、零は惹かれるままにその傷口に唇を寄せて、あんなに拒んでいた血液を、その舌先ですくい取っていた。どうあがいても、血は血だ。誰のものであろうと、突然ワインになるわけがない。だから舌の上に広がるのは、確かに血だと味覚は判断している。けれども、そこに嫌悪感を抱けなかった。嫌じゃない。うつくしいひとの内から流れ出るものを口にしたいと思ったのは、自然な欲求のようですらあった。プラシーボ効果に似た、一種の思い込み。美味しくはないが、その血液を口にすることで、妙な満足感が零を包んだ。腑に落とせない違和感に意識を持って行かれていたが、やがて自身の行動のおかしさに、我に返った。傷口から顔を離し、そろそろと視線を上げると。冷たくもなく熱くもない、いつも通りの温度を保った瞳が零を見下ろしていた。気持ち悪がるでもなく、怖がるでもなく。この事態を、普通のものとして受け止めている。まるで兄の過保護さを理解する、物分りの良い妹のように。
「悪い……ていうか、なんか言うことあるだろ。いったん驚くとかさ」
「吸血鬼なんでしょ? 最初に会った時から、零はそう言ってた」
「言ったけど」
「嘘だったの?」
「嘘じゃねえ、けど」
「じゃあ、普通ってことじゃないの?」
彼女は今、心の底からの疑問を零に訊ねている。拒み方を忘れてしまったのかとこちらが問いたくなるくらい、真剣に。相手をどうしようもなく信じてしまうから、疑うことを忘却する。人見知りでなかなか心を開かないくせに、一度心を許せばたちまち警戒が消え去るのだ。何においても受け入れると誓ったかのような懐の広さがあると言えば、それはとてつもない長所のようだけれど。実際は、彼女の大きな短所だ。突然傷にキスをくれるような男の行為を簡単に許してしまうなんて、正気じゃない。なんて奴だ、と吐き捨てたくなった。
「……おまえさあ」
勘はよく働くくせに、危機感はさっぱり仕事をしないらしい。彼女はやはり危なっかしい──その認識は、強まる一方だ。