この孤独には際限が無いと、そんなことを考える。きっと、ひとつ満たされれば、次に物足りなさを感じてしまうもの。そんな欲張りな己には付き合っていられないから、空いた穴をひとつだけ埋められれば十分だろうとそう納得して、わたしは満足したかったのだ。

 わたしには蓮巳敬人という一つ年上の兄がいる。正確には父親の兄の息子であるので、つまり従兄だが、敬人本人が兄になると言ったのだから、それでいい。彼は確かに血の繋がった親戚だ。その血の繋がりこそが、昔のわたしには唯一信用の置ける証明だった。それまで信用の代名詞が、母親のみであったために。
 日本人である父親と、異国の人間である母親との間に生まれた蓮巳ナマエという人間。その容姿は、日本人のような髪色を持ちながら、顔つきと目、肌の色は異国の血が濃く出ていた。要するに、日本で暮らせば少々目立つ外見であったのだ。すれ違うだけなら気にも留めない違和感も、同い年の子供の集団の中に放り込まれれば、強く意識する者が多くいる。子供は、自分たちと異なる特徴を持つ者を輪に入れたがらない傾向にあった。またわたしは特別人見知りだったから、そうして輪から弾かれた生活は幼稚園、小学校と場所を変えても続き、やがて日常となっていく。
 孤独が生まれ、それに浸っている内に、身体も心も慣れていった。その中で、母親の存在だけが己を独りではないと証明してくれた。何があっても守ってくれる、絶対的な味方。そう信じてそこに頼り切っていたから──彼女の入院をきっかけに、離れることになった時、わたしは初めて絶望の前に立った。どうしようもない孤独感。自分はたった独りであるという現実。知らない家に、知らない人間。誰も信用できなかった。どんなに優しい言葉をかけてきたとしても、美味しいごはんを用意してくれたとしても。物心付く前に血の繋がった父が亡くなった後、母に近寄り次の父親になりかけ、結局逃げた男と同じ。口先だけ、今だけだから信じられないとそう断じて。
──俺は、兄にはなれる
 この、自称兄は。
 誰も信用できないから、ずっとひとりでいる──子供の意地など途方もない哀しみの前では長く続かず、わたしの心が折れかけていけた頃。毎日毎日飽きもせず会いに来ては小言を残していくその少年を見慣れてきた頃に、彼は血が繋がっているから自分は兄になれると主張した。心から彼に頼って、安心して泣ける理由が欲しかったのだと思う。誰かに泣いていい、甘えていいと言って欲しくて。彼から与えられたそのきっかけに、わたしは縋った。だから。その日から、母親を除けば、わたしは敬人さえいればいいと、そうしたら独りではないと思うように、なった。そして、母が亡くなってからは、よりそれが酷くなった。

 敬人とは学年が違えばもちろんクラスも違って、ついでに下校時間も違うことが多かったけれど、たまに時間がぴたりと合った時は、校門で待ち合わせて一緒に帰った。下校する生徒で混雑する校門の前でわたしを待つ敬人の姿を見つけると、いつもつい数分前まで居心地が悪かった教室なんかすぐにどうでもよくなる。まるで魔法のように、わたしの空洞を埋めてくれるひと。優しい手で、わたしを導いてくれるひと。わたしの到着に気付いた彼は、微かに笑って、帰るか、と言う。それに頷く瞬間に、満ち足りる幸せを感じられるのだ。時折わたしたちを横切りながら視線を投げてくるクラスメイトなんて、視界に入らなくなるくらいに。
「今日、テストが返って来たぞ。そっちもそろそろじゃないのか。どうだったんだ」
「よかったよ。いつもどおり。敬人のおかげ」
「ナマエの努力の成果だろう」
「えらい?」
「えらいよ」
 よくやった、と彼の手の平が私の髪を撫でていけば、たまらなく嬉しくなった。90点以下の数字が載らないテスト答案の存在は、大げさでもなく、彼のおかげだ。元々、母と二人暮らしの時は大して勉強なんてして来ず、その勉強時間に比例して成績も芳しくなかった。理由はシンプルで、必要を感じなかったからだ。わたしも、母すらも。
 だから敬人は、わたしの短い人生において、教師以外で初めて勉強の大事さを説いた人だった。知識は武器になる、勉強量は己を裏切らない。レベルの低い奴らを見返す手段だと思えばいい、と実感を込めて話す彼に、逆らう気にはなれなかった。
「じゃあ、ごほうびが欲しい。日曜日、一緒に出かけて」
「日曜は……この前買った本を読み終える予定だったんだが」
 少しだけ困ったように眉をひそめる敬人を見て、わたしは勝ちを確信した。彼は本当に嫌がることは、NOと言える日本人である。
「その予定は変更しよう。本は逃げないし」
「ナマエも逃げないだろう」
「どうかな。わたしは逃げるかも」
「逃げたらご褒美はあげられないぞ」
「捕まえといてね。もらってあげるから」
「待て、まるで俺が連れて行きたがってるみたいになってないか?」
「ありがとう、敬人」
「人の話を聞け」
 こら、と手の甲をわたしの頭にこつんとぶつけながらも、口元はゆるく弧を描いている。
「日曜ね、昼から行こう」
「それは構わないが。……たまには友達と出かけたらどうだ」
「いないもん。いらないし」
 彼の言葉は、的確にわたしの弱味とも言えるなにかを突き刺す。敬人だって周囲に馴染んでいるようには見えないが、友人が一人もいないわけじゃない。一方わたしはと言うと。友人と呼べる存在は、誰もいなかった。己を遠巻きに見つめる目は悪意だけに満たされていたわけではないと知っていたのに、近づくことをしなかったのだ。
「敬人がいたら、それでいいよ」
「……ナマエ」
 敬人はなんとも言えない顔をした。満更でもなさそうな、優しげで穏やかな目つきになるのを、説教開始直前のような緊張感で上塗りして押し留めている。わたしの頭のつむじを叩きながら、彼は最後にはどこかさみしげに、笑った。
「怒らないの。友達作れって」
「今だけだろうからな。ナマエがそんなことを言うのも」
 わたしが"特別"だから、みんな近づき難いのだと、昔母親が言った。要は普通じゃないってことだ。その理由付けは、ある種の怠慢であったようにも思う。だからわたしのこれが努力を怠った結果の孤独であるのだと、呑み込むのに時間がかかった。母親がいるから、敬人がいるから、自分は独りではない、寂しくないと思い込んでいた──その実それは言い聞かせていたと表するのが正しい。
「……ちがうよ」
「朔間さんが言ってたよ。兄妹とは、そういうものらしい」
「信じるの?」
 虚を突かれたように、敬人がぱちりと目を瞬かせた。その反応が、疑う余地などなかったと物語っている。
「敬人」
 何故、あのひとはそんな残酷なことを敬人に言うのだろうか。何を知っているというのだろう。それとも、知られているのだろうか。人の心を読むのが上手なあのひとには、何もかもお見通しなのかもしれなくて。
「わたしは」
 本当は、満たされていたのに、物足りなくなっていく。際限のない孤独。空いた穴は、ひとつ埋められればそれでよかったはずなのに。確かに、蓮巳敬人という存在一つで、一時空洞は埋まるのに。埋めても埋めても、何かが足りない。朔間零と関わったせいか、曖昧にして見ないようにしていたはずのその感覚が、よく暴れだす。彼は人に囲まれているのに、まるでひとりだった。それこそ、"特別"だからだろう。誰とも並べない、さみしい猫。彼はきっと、留まる場所を間違えている。もしかすると、わたしも。
 敬人がいるからわたしはひとりじゃない、と彼に主張したけれど。放っておけないのは、結局わたしも敬人という存在を除けば独りである自覚があるから、同じ独りである彼を無視できないだけだ。自分もまた独りだと思い出すことを強いられながら、拒まれなたくないから、拒めない。自分が誰かに与えられるものなんて限られているのに、それでも求められると、与えたくなってしまう。
「わたしには、敬人がいれば、寂しくないから、他はいいの。ずっと」
 そういう自覚を持って尚、心のどこかでまだ認めたくなかった。わたしには、敬人がいればそれでいいと何度も何度も己に唱えた。例え敬人には、わたしだけではなくとも。
「全く、貴様という奴は。この甘ったれめ」
 彼の手は今日もこんなにも、優しいから。これさえあればいいと心の底から言えたら、きっとわたしは一生幸せでいられるだろうに。そんなわたしを冷めたように笑う零を幻視したのは、罪悪感からかもしれなかった。
 いつの日かきっと、この孤独を抜け出したいと願う自分が現れる予感があった。人と足並みを揃えられず、であればついて来れぬ者は置いていけばいいと、そう結論する、わたしが。蓮巳ナマエはそう在りたくないけれど──朔間零は、そう在るべきだと、思う。

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