なんでも知っている朔間零。彼の言うことは正確で、的確で、その言葉は絶対で。従っておけば安心で、間違いないと最初に言い出したのは誰だったのだろうか。大人顔負けの語りで誰もを引き込み、多くの人に頭を下げられる零を、わたしは何度も見てきたけれど。彼が求めたのは本当にそんなものだったのかと、わたしは何度でも思うのだ。
昼間はうだるような暑さが続き、太陽の光が容赦なく建物から出た人々を焼いていったけれど、夕方になるとそれもだいぶ落ち着いた。日光の厳しさは和らぎ、気温が下がれば吹く風も熱風から冷風になり、外でも過ごしやすくなる。日陰になる木の下の花壇にいると、涼し過ぎるくらいだ。逢魔が時の墓場というのは本来人を心細くさせる光景であるものの、幾度となく訪れる内に、いつしかこの色が、空気が、身体に馴染んでしまったように思う。
「あ〜わりと落ち着くんだよな、これ。おまえもそう思うだろ?」
「思わない」
「つめてえの」
「わたしと零では立ち位置が違うから。同意はできないよ」
「ん、まあそれもそうか。おまえなんか賢くなったな?」
「馬鹿にしてる?」
「してないしてない」
「やめて」
無邪気に笑いながら零がわたしの頭をぐしゃぐしゃにしてくるのを、特に力づくで止めるでもなく好きなようにさせていた。夕方の零は、元気だ。息がしやすい、と彼はよく言う。その感覚は共有できないけれど、彼が元気だと少し嬉しかった。今のように、やたらとわたしを膝に乗せたがるそれもやはり理解はできないが、彼が落ち着くと言うのならまあいいか、くらいの気持ちで受け入れている。いつからか明確には思い出せないものの、こういうことは頻繁にあった。華やかな花の香りを纏っていた母親とは違う、さっぱりとしているのに甘さの混じる匂いを身近に感じるのは、案外嫌いじゃない。彼は自分より大人なのだと、実感する瞬間だ。真夏にこうもひっつくと暑苦しくなりそうなものだけれど、生憎零はひんやりとしていたので、不快ではなかった。
「弟はもうこうやって甘えてくれね〜からさ、たまにこうやって昔の感覚を思い出したくなっちまう時があるんだよな。俺は今でも同じように可愛がりたいんだけど」
「わたしは零に甘えてないよ」
「いいぜ、甘えといてくれても。ていうか甘えとけよ。おまえはまだ、周りに甘えて良い年齢だろ。オニイチャンにも、オニイチャン以外にもな。お姫様は、大事に大事に守られて可愛がられながら成長していくもんだぞ〜」
「そうなんだ。知らなかった」
真面目にそう答えたのが良くなかったのか、零がつまらなさそうにわたしの頭上で唸る。呆れられる理由は、残念ながら思い当たらなかった。
「そもそも甘えたいのは、零のほうに見えるよ」
「……そうかもな。じゃあ、甘えさせてくれよ」
「いいよ」
「はは、時々男前だよなぁ、チビちゃんって」
遠慮なく、と聞こえて数秒、考えるような空白があった。零はわたしに触れるとき、一瞬何らかの思考を挟むことがよくある。その後間もなく、後ろから回された腕にぎゅうぎゅうと抱きしめられながら、ぼんやりと同じ形をした墓石が並ぶ姿を眺めた。ふわふわの零の黒髪が、首の後ろに当たって少しこそばゆい。
わたしがいる日もいない日も、零がよく見ている景色は、最初こそ不気味なように思えたが、今ではきっちり同じ感覚で並ぶ墓石や供えられた色とりどりの花たちが、美しいもののようにすら見えた。死者が眠る場所。わたしがここで落ち着くのは、ここに眠るのが他人ばかりではないからだろうか。わたしの両親も、ここに眠っている。零とは違う理由だが、わたしもすっかりこの場所の常連だ。
零が、すぐ背後で小さく息をついたのがわかった。目にしているのは同じ景色でも、感じるものは違うのだろう。零に抱きしめられているわたしと、わたしを抱きしめる零の考えることが、違うように。
「さみしいの?」
「またそれかよ」
「さみしいから、甘えるんじゃないの」
「べつにそうじゃねえけど。まあ弟とべたべた出来なくなっちまった点においては、寂しさを否定しね〜よ」
「かわいいの、弟」
「世界一」
「わたしより?」
「おまえそういう質問するキャラだったか? 答えて欲しいのなら、答えてやるけど」
「いらない」
「知ってる」
とりとめのないやりとりを、少し冷え始めた風がさらっていく。風が止んでから、わたしはやや強引に顎を持ち上げ、零の顔を見た。会話は、時折相手の表情を確認しないと不安になる。
「ん?」とわたしの突然の挙動に首を傾げて、こちらを見下ろす彼が唇の端を薄く上げる。瞬きするのもためらわせるほど人目を惹きつける美貌が、わたしだけに向けられていることに気づいた。ふとしたとき、昔海で拾った、波にもまれて角の取り払われた、鈍く光るガラスを宝箱から取り出して眺めているときと似た特別感を彼に見ることがある。テレビの画面の向こうで誰かが身につけているただ眩く輝くだけの宝石たちとは違う。もちろん、墓石の周囲に敷き詰められた玉砂利とも違う。この”特別”はわたしだけの感覚で、これは決して零を崇めているということではない。たぶん、わたしはわたしなりに彼が”大事”なのだ。わたしの特別。わたしの憧れ。
別の誰かから見れば、零は一級の宝石なのかもしれない。彼の周りに集まる人たちは、彼をそういうふうに捉えていると知っている。触れるのもおこがましい、信仰の対象。そういう”特別”が、彼を普通ではない場所へ押し上げている。
「今日はもう来ないの? 零のお客さん」
「お客さんってわけじゃね〜けど。しばらくは、来ないかもな。ちょっと塩対応しちまったし」
「どうして」
「ん〜、おまえと二人でいたかったから?」
「うそ。そんな理由で見放すなら、零はとっくにここに来なくなってる」
「全く、嫌な鋭さ備えやがって。可愛くねえな」
ぺちんと、なぜか額に手を置かれた。やはり拒むことはなく、ただじっと彼を見上げた。 意地悪く笑っているつもりなのかもしれないが、その微笑みはどこかさみしげな陰を落としていると、本人は自覚しているのだろうか。
「ちっとは可愛いげのあること言ってみろよ」
「いいよ」
「だからおまえは──」
「零は、わたしの特別だよ。たくさんの人の中の特別じゃなくて、わたしにとっての、特別」
切れ長の紅い瞳が、何かを求めて、揺れていた。そのなにひとつ、言葉にされることはない。だから、自分で汲み取らねばならない。恐らく彼には”なにか”があった。
「普通じゃない、”特別”のさみしさを知ってる。零のさみしさは零のものだから、おそろいではないけど。ちょっと、似てる気がしたから」
他人の孤独は、わたしが定義していいものではない。けれども、人に讃えられれば讃えられるほど、囲まれれば囲まれるほど、彼の中でそれが形を明確にしていくであろうことは、おぼろげにわかった。こんなところにいても、零の孤独は変わらない。ここで少数の誰かの神様として、無為に時間を捨てているのは、勿体無いと思った。
「だから、零にはさみしいままでいてほしくない」
でもここじゃなければ、もしかすると。もっと別の場所で、足を引っ張られることなく進み続ければ──誰もたどり着いたことのないところへ、彼なら。
「零は、なんにでもなれるし、どこへだって行けるよ。誰かのためでも、そうでなくても」
どうか見たことないものを探しに行って。
「誰にも手が届かない場所に、零なら行けそう。人よりも持って生まれたものが多いから。スタート地点が違うから、普通のひとでは100年生きてもたどり着けないところまで、きっと」
「……なんだそりゃ」
「特別だから、できるよ、たぶん」
そうしていつかさみしくなくなるといいね、と笑ったわたしの肩口に、零はおもむろに額を擦りつけた。彼の髪が再びわたしの首をくすぐる。行けるといいな──そう零した彼の声はなんとなしに満ち足りていたように、聴こえた。