──これはまた食えないところにいったわねェ、泉ちゃん。
 教壇に上がった時からそんな印象の拭えない少女を、鳴上嵐は楽しげに観察していた。音楽科の空き教室は暑くも寒くもない環境だったが、当初集まった人間の一部の温度感は室温を下げにくる勢いで低かった。それを持ち上げたのは他でもない彼女だ。必ず成功すると決まっています、とこの室内と同じ、暑くも寒くもない温度でそう全員に向けて話すナマエの言葉は飾言もなくシンプルで、何の確約もないはずなのにどこか真実味を帯びていた。皆の空気が、僅かに高揚したのを感じた。
 ひとつの才能であり努力の結果のように、思えた。きっとぼんやりと生きてきただけでは得られないもの。姿勢も振る舞いも話し方もすべて、まるで誰かさんのように、そうなろうとしてなったのだろう。人を惹き付ける素材を持ち、その方法を知っている。自分の立場を、その使い方を、虫も殺さないような顔で微笑みながら、よくわかっている。そうでなければ、ただ美しく優しいだけの少女であったなら、この一癖も二癖もありそうな音楽科の面々が大人しく言うことを聞くわけがないのだから。人をまとめ、人の上に立つことに慣れた子なのかもしれず。であれば、なるほど面白い。
 いち早くナマエの元に駆けて行った後輩の朱桜司は、ナマエのそういった一面も込みで尊敬の眼差しを向けているようにも見えた。一方、嵐の先輩にあたる瀬名泉はというと。この教室に足を踏み入れてから、彼女の方を睨むように見たまま始終機嫌を損ねている。嵐が思うに、泉は彼女にご執心のはずだが、さてどうなのだろう。一目惚れしたということなら、それはわからないでもない。見た目だけなら彼のタイプであるのかもしれない。しかし彼女は恐らく泉が得意としないジャンルの人間である。素直でかわいい年下──とは、当然いかない。出会って数十分、世間知らずのおっとりしたお嬢様のような第一印象は、とっくに消えている。嵐の目と直感は誤魔化せない。あれは、従順にはならないタイプだ。
「ほんとうに綺麗ねェ、ナマエちゃん。司ちゃんから聞いてたけど、期待以上よ。納得しちゃった。これから女同士仲良くしましょ?」
「ちょっとこのオカマ馴れ馴れしいし図々しくない?」
 席を離れた泉が司をナマエから引き剥がしたタイミングを見計らって、嵐はナマエとの接触を図る。折角同じユニットの仲間が気に入った子だ。問題がありそうな子なら引き離した方がいいだろうし、そうでなければユニットの活動に響かない程度に協力してあげるのも面白いし悪くない。どうするにしても、まだ互いに軽い自己紹介を交わしあったくらいの間柄でしかなく、彼女を知るにはもっと会話が必要だと判じていた。
 ずいと近づいて、腰を折りながら視線を合わせれば、ぱちりと瞬きした大きな黒の瞳に嵐が映る。
「はあ、一体なんの期待と納得でしょう」
「あんたは黙ってて! そもそもつっこみどころはもっとほかにあったでしょ!」
 泉と嵐の前で姿勢を正すナマエは、ふと二人の向こう側を一瞥してから、すぐに嵐を見上げて笑った。
「ともあれ、褒められて悪い気はしません。ありがとうございます。でも、その感想はどちらかと言うとわたしのものなんですよ」
「んん、どういうことかしら?」
「Knightsには瀬名先輩ともうひとりモデルをされている方がいると聞いてたんです。実際にお会いして、立ち姿を見て納得したのはわたしの方。こうやって顔を合わせて益々納得しました。近くで見ても綺麗なんですねえ、鳴上さんは」
 嵐はやや目を見開いて、直後には言葉に詰まる。先の教壇の時とは違い、整い過ぎた空気も含みもなく、ただ朗らかさだけが真っ直ぐ自分に注がれている。心からの感心を寄せられているのだと気づいた時には、聞き慣れたはずの褒め言葉がいつもより深く響いた気がした。これを無意識で使い分けているのだとしたらちょっとタチが悪いとも思うが、気分が良いことに変わりはないので、今は置いておくとして。
「あらあらァ、案外素直で可愛いじゃない。なるほどねえ、本当に仲良くなれちゃいそう」
「はあぁ? そいつどこも可愛くなんかないでしょ〜。先輩の俺のこと褒めようとしないしさぁ、生意気ったらありゃしない」
 横から割って入ってきた泉は好き勝手なことを言う。本音は後半だろう。腕を組んだまま唇を尖らせる泉は、横目でユニットの後輩である司と睨み合っている。可愛くないと結果的に貶される形になったナマエは、痛くも痒くもないといった顔で。
「うん? 瀬名先輩、もう一度わたしに聞こえるように仰ってください?」
「いいよぉ、いくらでも言ってあげる。あんたなんか、ぜんっぜん、可愛くない」
「はい、瀬名先輩はとってもかわいいですね」
「い、いまそんな話してないでしょっ!」
「期待に応えてみたんですけど」
「ふふ、無事褒められて良かったじゃないの。泉ちゃんが楽しそうでなにより」
 なるくんの目節穴なんじゃないの! と憤慨する泉は機嫌こそ悪そうに振る舞っているが、いつもより気持ちテンションが高い。と言うか、落ち着きがない。年下の女生徒に振り回されているような様は珍しいことだ。そう深い付き合いでもない泉相手にここまで慣れた様子でやりとりを重ねられるこの少女も、大概物珍しい生き物だが。
「なんにせよ、折角のご縁です。不束者ですけど、こちらこそどうぞ仲良くしてください」
「あらやだアタシたちまるで結婚するみたいな挨拶じゃない? 良ければ嵐ちゃんって呼んでくれていいのよ、末永くよろしくして?」
「誰と誰が結婚するわけ?」
「軽いジョークよォ、嫉妬しちゃイヤ」
「もしやわたし妬かれてるんですか」
「あんたは変な勘違いをっ……てかなんで笑ってんの」
「瀬名先輩が慌ててるのが面白かったので」
「やるわね、あなた」
 つまりまたからかわれたのだと察した泉が文句をつけ始める前に、ナマエが悪びれもせずに白状した。悪戯っぽい笑い方は、妙に彼女に似合っている。それこそ、教壇で綺麗に微笑んでいた瞬間よりも。ナマエの言動は泉を苛立たせる結果を避けられず、どうあがいても白い肌をやや紅潮させた彼に彼女はあれこれ言われることになるのだけれど。ナマエは、それすら楽しんでいるような節がある。
「ほんっと、あんたって奴はさあ……!」
「先輩はわたしが大好きですもんねえ。大丈夫、ちゃんと知ってます」
「なになに、もうそういう関係なの? 泉ちゃんったらいつになく大胆! 詳しく教えて欲しいわァ」
「はぁっ? 違うから! おまえら先輩からかうとかちょっと生意気が過ぎるんじゃないの?!」
「ええ、わたしは生意気で売ってるので。……司くん、さっきのあれは冗談なので固まらないでください。瀬名先輩とわたしの間には何もありませんよ」
「……ねえ、あんたいちいち癪に障る言い方しかできないわけ?」
「? どこか障ったのなら、謝罪しますが」
 ナマエの言葉を本気にした司が一瞬青くなっていたのを嵐の目は確認していた。婚約者がいる相手に懸想する先輩に不穏なものを感じたのかもしれないし、尊敬する彼女に泉が好意を抱くということそのものが複雑な気持ちにさせたのかもしれない。どちらにしろなんと可愛いことだろう。末っ子と呼ばれるに相応しい隙を持つ彼は、ほっとしたように浅く息をついたのち、取り乱しかけたことを恥じるように固い表情を作っていた。
「Jokeで本当に良かったと思っておりますよ、ええとても。しかし、ナマエにこんなCuteな一面があったとは知りませんでした。あまりそのようなJokeを言うおかたではなかったように思いますが……?」
「そうですね。うん、ちょっとはしゃぎすぎちゃったかな」
「あぁ、いえ、誤解しないでください。私は決してナマエを咎めているわけではないのです。寧ろFreshに感じられました」
「気遣ってくださってありがとうございます。でもこれ、わたしの個人的な反省ですから」
 それはどういう類の反省なのか。誰かが問う前に、椅子が床を擦る音に全員がそちらを見た。固まった身体を解すようにううんと伸びをする朔間凛月が、眠そうに目を擦る。
「ねえ、誰も戻らないのなら俺もう先に戻っていいかなぁ。ナッちゃん、そこの浮かれてる二人ちゃんと連れ帰ってきてね」
「誰が浮かれてるってぇ?」
「私は浮かれてしまっていました……反省します」
「ちゃんと反省できるスーちゃんはいい子だ。先輩は全然素直にならないのに〜?」
「かさくんはともかく、なんで俺まで」
「自覚ない分セッちゃんの方が重症なんじゃないの」
 泉にそんな指摘をする凛月は、微笑ましげでいて冷ややかな影があった。そのまま勝手に教室を去ろうとする凛月を引き止めたのは、泉でも嵐でも司でもなく。静かだけれども耳に残る、綺麗な声。
「朔間くん」
「……なんか用?」
 肩から上だけで振り返る凛月は、眠気のせいなのか、返す声音に愛想はない。愛想がないどころか、なんだからしくない不機嫌さも垣間見えて、向かい合ったものをどきりとさせる鋭さが混じっていた。それを真っ向から受け止めるナマエは彼の棘を感じ取ったとは思えないくらい飄々としている。ただ少しだけ申し訳無さそうに。
「すみません、お引き止めして。ピアノの件、よろしくお願いしますね。レッスンの日は、また瀬名先輩を通して連絡します。こちらでレッスン担当の生徒にも連絡して……」
「チェンジ」
「……はい?」
「だから、チェンジだって。その生徒はいらない。なんで俺が年下で実力もわからないような奴に教わらなきゃなんないの。俺より下手って可能性もあるよねぇ。そんなの意味ないでしょ〜」
「一応音楽科のピアノ専攻の生徒なんですけど。気に入らないなら、無理強いはしません。譜読みが早くできるように一通り教えるだけですし。必要ないなら、それはそれで」
「あんたはチェンジの意味がわからないようだから、俺が教えてあげる。チェンジはねぇ、交替って意味だよ」
「はあ、交替……」
 ぼんやりとそう呟いたナマエは、やがてはっとしたように凛月を見る目をまるくして、そのあと眉をひそめた。その反応に満足したのか、凛月は少しだけ目元を緩めて、語りかけるように続ける。
「いるでしょ、一人。俺にピアノ教えられそうな奴がさぁ」
「……いや待ってください、朔間くん、それって」
「さすがナマエ、話が早くて助かるよ。じゃあそういうことで、連絡待っておいてあげる。ああ、それと──」
 赤い瞳が細くなり、彼を囲う空気がひんやりとしたかのような錯覚が起こって──けれどもその口の端だけは釣り上がっていて。朔間凛月という人間の、ヒトではない側面を形にしたような、どこか妖しげな色が纏わりついて離れない。
「今後二度と朔間くんって呼ばないで。俺がそう呼ばれたくないって知ってるくせに。だいたい、他人ごっこに付き合うなんてめんどいし、そもそも俺約束なんてしてないもん。ってことで、いつも通り呼んでくれなきゃもう返事しないから〜」
 そのまま去っていく凛月をナマエは最後まで見送って、やられたなあと残念そうでもなく彼女はぼやく。
 今の会話ですべてを察することは出来ないけれど、少なくとも二人は他人ではないということだと嵐は結論する。そしてあの会話の流れだと、凛月のレッスンの指名は──。
 二人の関係が益々よくわからない。他人ではないが、付き合っているといったような甘ったるさや親密さではないようにも思える。凛月の気安い態度から親しさは窺えたが、さてどこまでの仲なのか。隣の泉はだいぶ詳細が気になっているようだけども、プライドが阻むのか、彼から疑問が投げられることはない。彼に代わって、己のプライドに邪魔されることのない司が、怪訝そうに眉根を寄せながら恐る恐る訊ねていた。
「ナマエは、凛月先輩とお知り合いだったのですか? どういったご関係で?」
「なんだろう、凛月くんとは……悪友?」
「は? それは、あの、悪い友人、と書いて悪友と読むあれですか? なぜそのようなご関係に」
「うん、まあ、そこはSecretということで」
 司の真似をするように、妙に発音の良い英単語を混ぜて、ナマエはそんなふうに締めた。なにも説明する気はないようだ。ここで茶化しに入るのは簡単だが、どう話に加わったとしても、彼女は口を割らないだろう。そういう顔をしている。
 嵐が横目に見た泉は、面白くなさそうに、ふんと鼻を鳴らして凛月が消えた方を眺めていた。本当になんだかややこしい相手を好きになってしまったらしいモデル仲間に、嵐はそっと同情した。

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