泣きわめくようなピアノを聴いたのは、初めてだった。
およそ半年前のことだ。耳に慣れたメロディがピアノの繊細な音で紡がれて、どこからともなく夕方の廊下に薄く満ちたのは。なんの縁もゆかりもない曲であったなら、放っておくだけなのだが、それは紛れもなく自身の所属するユニットの曲であったのでそうもいかなくなった。彼、朔間凛月の在籍しているKnightsの、曲だ。あのメンバーでピアノを弾ける人間は限られていて、凛月を除けば不登校となった王様一人のはずだけれど、ではこれを弾いているのは誰だという話になる。演奏者が他のユニットの人間とも考えにくいし、王様でもないと凛月は断言できた。彼が不登校となったからではない。
本来ピアノ伴奏ではなく当然自分たちメンバー以外が自由に確認できる譜面も存在しないこの曲は、ピアノで弾くにあたって演奏者による多大なアレンジが入っていた。その無茶苦茶でセンスの感じられないアレンジに、センスの塊であるユニットのリーダーらしさはまるでない。そしてセンスはないが──やたらと上手いのはわかる。趣味や習い事といったレベルに留まっていなかった。不必要な音の多さが難易度を上げ、けれどもそれを危なげなく弾きこなすとは、そういうことだろう。
人に聴かせるための小綺麗にまとめた演奏とはとても言えたものじゃない。繊細なようでいて荒々しく、型破り且つ大胆で、人を圧倒するような圧も含んだ、それはまるで憂さ晴らしのような弾き方だと思った。ストレス解消に氷を噛み砕くような、金属バットで打ちっ放しをするような。溜まった嫌なものすべてを掻き消そうと足掻いて、一生懸命生きながら、泣いている音。その憂さ晴らしをよりによってこの曲でやっているのだから、演奏者は余程Knightsが好きか嫌いかのどちらかだろう。興味がわいた。強引で雑な印象が強いが人を惹きつける演奏には違いなく、本人の顔を、その表情を、凛月は一目見てみたくなったのだ。
いつの間にか眠気はすっかり醒めていた。音のする方向──人のいないはずの音楽室へとふらふらと吸い寄せられるように歩いて行けば、扉は僅かに開いていて。凛月がそっと中を覗くと、室内を橙色に染め上げる西日が、小さな段上の真ん中に鎮座するグランドピアノと、その前に座って鍵盤を叩き続ける制服姿の少女を浮かび上がらせていた。この夢ノ咲学院アイドル科の校舎に女子生徒が存在するというイレギュラーが頭の奥に追いやれるくらいには、一瞬思考を忘れる光景だった。一心不乱に両手を動かしながら、長い黒髪を時折強く揺らしながら、その人はひたすらに演奏を続けている。夕日に照らされた形のいい横顔は、頬に光る筋が伝っていた。それが涙であることに凛月が気付いたのは数秒後のことだ。彼女は泣きながら、ピアノを弾いている。誰かに助けを請うような必死さで、すべてを呪うような重苦しさで、渦巻く想いを指先に込めて。神聖で、幻想的な一枚の絵のように、感じた。その絵画に押し入るような真似をしてはいけない。だから凛月は、彼女の演奏が全て終わるのを待った。それから数分間、悲愴的なアレンジのされた自ユニットの曲が、細い指から紡がれ続けるのを立ち尽くして聴いていた。そしてそれが終わった時、体力を使い切ったのか肩で息をする少女に、凛月は拍手を送ったのだった。
「────っ」
拍手を耳にし、勢いよく振り向いて凛月を視界へと収めた少女は、想定よりも動揺していた。悪い行いを見つかって怯える顔ではなかった。どちらかと言えば、得体の知れないものを目にした時と似ている。不法侵入はあちらのはずなのに、なぜかこちらを警戒するような、ぴりぴりとした緊張を発して。しかし凛月と目が合って数秒後、間もなくほっとしたように、彼女は強張らせていた細い肩から力を抜いていった。凛月から目を離したのち、ふう、とまるで安堵の息を吐く少女に違和感を覚えた。ピアノを見下ろしたまま目元をごしごしと擦る彼女に、凛月の方から口を開く。
「そんなに強く擦ったら、痕になるんじゃない」
「……ごめんなさい」
「いや痕になっても俺は困らないし、どちらかと言うと謝られた方が困る」
「いえ、その、勝手にピアノを使っちゃって、ごめんなさい」
「べつに俺のピアノってわけじゃないからねぇ、そっちも俺に謝られたって困るんだけど」
すん、と鼻をすすりながら、涙を止めたばかりの暗い色をした瞳が、再び凛月を静かに映した。先程まで泣いていたにしては、受け答えはしっかりしているし、表情に気弱さはない。そういったものを感じ取らせることを、拒むようだった。たったそれだけで、彼女の人となりが少し見える。これは結構、気が強い人種と見た。
「ピアノを弾くためにここまで来たの?」
「いいえ、本当は人を迎えに。一応許可はもらってるんです」
「アイドル科の校舎の音楽室で泣きながらピアノを弾く許可ってこと?」
「……あなた結構意地悪ですね」
「へえ、俺にそんな文句つけられる立場にあると思ってるんだ? ここ、授業以外では生徒も立ち入り禁止だから。見つけた段階で教師に報告しなかったことを褒めて欲しいくらいなんだけど?」
「それについては……ありがとうございました」
「あんたは結構素直だね」
確かに、彼女の首から提がっている吊り下げの名札には、学院が発行した来客証が収まっていた。他学科の少女が気軽に手に入れられるものではない。人を迎えに来た、という主張からすると非正規のルートで手に入れたものでもなさそうだ。アイドル科の誰かが彼女を呼び出し、呼ばれた彼女は正式な手順を踏んで学院から許可をもらっている。これはこれでなかなか不自然な事態ではある。簡単そうでなかなかできることではないからだ。一アイドル、一生徒の都合でいちいちルールを緩めていては、秩序が保たれなくなってしまう。この場合二人のどちらかが、何らかの特権を持っていると見るのが正しい。その特権は、ピアノを弾く許可までは与えられていないはずだけれど。
「約束まで少し時間があったんです。そしたら、たまたまここを見つけて、鍵も開いていたから、つい」
「ついピアノを弾いちゃったんだ?」
「……そうですね」
苦い顔だ。凛月としては、別段咎めるつもりはないし、誰かに報告するつもりもない。わざわざそんなことをする方が面倒というものだ。それにあのピアノ、一度聴いておしまいにするには、少し惜しい。
「あんたのピアノ、アレンジは下手くそだったけどさ」
「……はあ」
「わりと嫌いじゃない。叫んでるみたいだった。生きてるって感じがしたよ。原曲のイメージとは駆け離れちゃってるけどねぇ」
「ありがとう、ございます……? ん、褒められてます?」
「一応褒めてるけど」
凛月を見上げたまま、首を傾げて唸る少女は納得いかなさげだった。思ったままを伝えただけで、相手を喜ばす意図のなかった凛月は、フォローする気もない。マイペースに、そのまま気になっていたことを続けて訊ねた。
「そういえば、なんで俺を見たときあんなに驚いてたの。あれだけ盛大に音出しといて、まさか本当に誰にも気づかれないと思ってたわけじゃないでしょ。泣いてるとこ見られたからって感じでもなかったし」
「え? ああ……それもダメージではありましたけど」
誰にも気づかれないと思っていたのなら、ちょっとどころではなく頭が足りていない。最悪見られても構わないという覚悟くらいはあっただろう。泣いていたのは事故だったかもしれないが。最初に凛月を見た瞬間の彼女の動揺は、泣いた姿を見られた故の羞恥からきたものではなさそうだった。つまり理由はもっと別のところにある。例えば、人違いだとか。
「あなたが、わたしの知っている人によく似ていたんです。驚いちゃって」
その推測が正しかったことは、すぐに判明した。そして凛月はもうひとつ、その相手まで予想を立てている。
「ふうん……? ただの知り合いに見つかっただけの反応に見えなかったけど? あんたは俺を一体何と間違えたの」
「ただの知り合いです」
「あんたはただの知り合いを相手にしたら警戒するわけ。へえ。そういうことにしておいてあげてもいいけどね。これは俺の推測だけどさ、もしかして──どこかの吸血鬼と間違えたんじゃない?」
少女の目が、そっと見開かれた。綺麗な顔が小さな驚きに染まる。経験上、結論を出すのは難しいことではなかった。この容姿は、認めたくないけれど兄とよく似ているらしいので。
「あなたは、朔間先輩の……ああなるほど。Knights、ですか。道理で……」
「うわやっぱり気付いてなかったんだ、Knightsの曲弾いてたくせに。俺はね、凛月っていうの。見たところ、あんたは兄者が嫌いってことでいい?」
「な……」
あの激しくも深い音色を叩き出していた人と同一人物だとは思えなくらい間抜けな様子に、凛月はなんだか可愛げすら覚えながら。
「奇遇だねぇ、俺も嫌いなの」
努めて優しく笑いかけてやったら、彼女は反応に困ったように、眉をひそめる。感情的なピアノを弾く、兄を嫌う兄の知り合い──これはちょっと面白いものを見つけたかもしれない。最初の感想は、その程度だったのだ。