蓮巳敬人は、幼少から自尊心が高い少年だ。そもそも同年代より賢しい頭を持っていたので、周囲が己より劣っているという認識が早い段階で芽生えていた。周囲には上手く馴染めなかったけれど、彼には唯一対等と認めた幼馴染がいて、様々な知識とエンターテイメントを与えてくれる本があって、それをアウトプットする手段もあり、そして──自分を絶対的な存在として求めてくれる従妹がいた。彼には、それだけで十分だったのだ。満ち足りていたし、不満らしい不満もなかった。朔間零という魔物と出会うまで。
朔間零は、敬人よりひとつ年上の少年は、敬人の目に誰よりも聡明に映った。知識量が違う、目線が違う、視野の広さが違う、器が違う。彼の話はいつも多角的で客観性があり、相手の理解力に合わせた巧みな話術は老若男女問わず人を心から納得させていた。己がこの世で一番賢いと自負していた敬人すらも、例外ではなく。偏った持論を一方的に展開する敬人に、零はいつも軌道修正を行い、答えを与えてくれた。反発心を過分に込めてふっかけていた挑戦的な意味合いの強かった議論は、いつしか敬人の中で足りない知識を埋める答え合わせのようになっていった。朔間零に聞けば、なんでも答えが得られる。何故なら彼は特別で、誰よりも優れていて、知らないことはなにもないはずだから。そう信じて、疑わなかった。
しかし、それを実感すればするほど、やがて足元から恐怖が這い寄るようになる。零はこの世で特別で、彼以外はその他大勢のエキストラ。自分は彼と比較すると路傍の石同然で、そこに価値が見出せない。こんなに怖いことはないと思った。このまま零の近くで過ごせば、自分は一生石ころのままなのではないかと、そんなあり得ない妄想が頭にこびりついて離れない。自分に明確な価値を与えてくれる従妹──蓮巳ナマエの存在は彼の中に変わらず安堵をもたらし続けたけれど、同時に強い不安も生んだ。彼女もまた、零を慕っていたがゆえに。──このままでは持っていかれてしまう、このちっぽけな自尊心ごと。
「ナマエ、またここにいたのか。何をしてるんだ」
「夕日鑑賞会」
ナマエは季節が何度巡っても、この家に来たときと同じく寺の縁側で過ごすことを好んでいた。夏休みが明けて新学期に入ってすぐはまだ残暑が厳しかったが、今のこの時間帯は肌寒さすら覚える気候になりつつあった。沈みかけた太陽から放たれる茜色の光をその身に浴びながら、ナマエは縁側に座り込んだまま、表情を作らない顔を敬人の方に持ち上げる。ぽんぽんと、彼女は自分の隣の空いたスペースを軽く叩いた。座れということだと解釈して、敬人はそのまま腰を落とすと、ナマエが先程まで鑑賞していた夕日を両の目に収める。見慣れた景色に感動もなにもないけれど、彼女はどこか楽しげだった。
「零も、見てるかな」
「────」
何気ないその言葉が、敬人の背筋をぞくりと冷やす。得も言われぬ恐怖が蘇って、服の中が汗ばんだような気がした。
「……最近、よく朔間さんの話をしているな、ナマエは」
「そうかな。敬人だって、よくするよ。零の話か、本の話か、幼馴染のひとの話ばっかり」
「英智だ。いい加減名前を覚えてやれんのか」
「やれん」
この従姉は、敬人の幼馴染が好きではないらしい。何度か病院に引っ張って行き対面させたことがあるけれど、優しげに会話を試みる天祥院英智に対し、彼女は人見知りを十二分に発揮していた。まずナマエは病院というフィールドそのものを好まないので、いつしか仲良くさせることを諦めたのだが。彼女が相手を受け入れるかどうかは、相手の歩み寄りは恐らく関係ない。つまり簡単に受け入れられた朔間零が、特殊なのだ。
「ナマエは、案外朔間さんを気に入っているよな」
敬人は、近頃意図してナマエに零の話をする回数を徐々に減らしていっていた。そうして気付いたのは、自分から話題に出さずとも、ナマエの方が零の話をしたがっているということ。彼女の中で、朔間零の存在が大きくなり始めていること。
「……そうかも」
小さく頷くナマエが、僅かに口元に弧を描いたのを、見てしまった。見たくなかった。
"敬人がいればいい"と、彼女は以前から何度も言う。その言葉は、残念なくらいに疑う余地がないはずだった。ナマエにはこれまで友人らしい友人がおらず、蓮巳敬人という兄のような存在に寄りかかって、他人を求めようとしなかったのは事実である。敬人はそこに呆れて心配するのと同じくらい、優越感を育ててしまっていた。自己肯定感とは、他者によって作られるものだ。ナマエという他者に肯定され続け、求められ続けて、彼の自己肯定感は高まっていった。朔間零の存在に引っ掻かれた自尊心は肯定感を薄めたけれど、敬人にはナマエがいる。彼女は敬人だけを絶対的なものとして求める、はずだったのに。
「零もね、寂しがりだから。普通じゃない。同じひとがいない。誰も並べない」
闇に染まりかける空を見上げて、ナマエが言葉を継ぐ。まるで、同じ空を見上げる誰かを想うように、祈るように。
「ちょっとだけ、わかるの」
ナマエのそれは、正しく共感だ。あの他人とは一線を画した美貌と才を持つ少年の秘める孤独への、理解。敬人にはわからない。わからないが、彼女が朔間零と共有できる何かを持っていることは、腑に落ちた。異国の血が混じった容姿は、日本人とは違う色と圧倒的な美しさを有し、それは誰の目にも特別と捉えられた。その他大勢とは違う、凡人と一線を画した存在となり得る少女。ゆえに、彼女は人の輪から外れている。朔間零の隣に彼女を置くことに、違和感はなかった。
「──そうか」
急速な焦りが、敬人の思考を奪い、残っていた安堵を蝕んでいく。このままだと、いずれ彼女の中で求められるのは、肯定されるのは自分ではなくなってしまう。朔間零に取って代わられる──それは短絡的で冷静ではない強迫観念で、被害妄想近かったのだろう。子どもである敬人には、その判別がつかない。
「寂しいのか、ナマエも」
その寂しさを埋めるのは誰なのかと、暗に問うた。普通じゃないから、普通じゃない者と並ぶのかと。自分を置いて、見放して、あのひとを選んで、彼女の世界は蓮巳敬人を端役にしてしまうのか。肯定感が薄れ続ける。嫌になった。怖くなった。虚しくなった。そして。
「……ううん」
ナマエが視線を空から下ろして、ゆるく首を振った。茜色の交じる緑の瞳が、敬人だけを見つめる。
「わたしには、敬人がいるから。寂しくないよ」
「────」
胸に再び落ちた安堵に、嫌気が差した。
「それなら」
敬人が求めたままに、彼女は今も敬人を求めている。思い通りではあれども、そこに満足感は最早なかった。肯定されて、我に返って、自分が酷く矮小な人間だと思い知らされた気がしたのだ。あのひとと関わって傍に居続ける限り、きっと幾度もこんなことを繰り返すのだろう。
「しばらくあの墓地に行くのは、控えろ」
声音が自然と低く震えた。彼と己の存在価値を比べて、己を卑下して、彼女に認められて──そんなことを考える自分が嫌になって。とても正気じゃいられない。だから敬人は決断した。逃げるという、選択だ。
「この頃、暗くなるのが早くなってきただろう。学校が終わったら真っ直ぐ帰って来い。俺がいつでも迎えに行ってやれるわけじゃないからな」
自分勝手であるという自意識はあった。自分だけの感傷に彼女を巻き込んでいるのだから。朔間零がナマエをどう見ているのかはっきりとは知れないが、敬人の見立てでは恐らく彼もまた彼女のことを憎からず思っている。そこに勘付いていて尚、自分は。
「大丈夫だよ。暗くなる前には帰る」
「ナマエの大丈夫、は信用ならん。今までも門限を少し過ぎる日が何度かあったぞ。何かあってからじゃ遅いんだ」
「でも」
「それとも……朔間さんに会えないのは、嫌か?」
ナマエの瞳が困惑に揺れるのに、気付かないふりをした。彼女から視線を逸らし、空と真逆に位置する床を目で辿ってから、最後に睨むように自分の膝を見る。
「敬人は、いいの。それで」
「……俺はいいんだ。もうあのひととは会わないと決めた」
「どうして」
「ナマエには、関係ない」
全く筋が通っていないし、強引で、ナマエの気持ちを一切考慮しない一方的な命令に近い。彼女に、それを飲み込む義務はない。拒むことは簡単だ。自分の話なんか無視して、この場を去ってしまえばいいだけ。いっそそうなれば良いと思う反面──敬人は、知っている。蓮巳ナマエは、蓮巳敬人を拒まないことを。受け入れて、頷くことを。
「──わかった」
こんなことは、最後にしたかった。ナマエが何も語らない敬人の要求を飲んだように、この肩にのしかかるどうしようもない後悔は、自分が黙って飲み込むものだと敬人は理解した。あまりの情けなさに、吐き気がする。けれどもそれすら、目の前の少女に悟らせたくはない。
「大丈夫だ。あのひとは、強いひとだから」
朔間零は、ひとりでも、大丈夫。なんとなしに自分に言い聞かせるようなものになった敬人の科白に、ナマエはまた一度頷く。何かが欠けたような物寂しさを、漂わせて。それを横目で眺めたのち、敬人は何もかもを視界から締め出すように、そっと目を伏せた。