バレンタイン、と言われればまず一番にショコラフェスが頭に浮かぶくらいには仕事熱心なつもりだ。男性から女性に感謝の印として贈り物を渡すという海外の慣習に則って、学院の全ユニットが歌と手作りのチョコレートでファンをもてなすショコラフェスは、通常ドリフェスと違って勝ち負けはないけれどそのシステム上、新たなファンを獲得するチャンスを秘めたアイドルにとって大事なイベントである。セットリストやイベント用衣装はもちろんのこと、渡すお菓子の内容も今回のイベントでは重要で、作る時間と手間を考えなくてはならないこの十日間は全アイドルにとって忙しくなるだろう。一般の男子高校生のように、バレンタインのチョコレートをどのくらい貰うことができるかなんて、そんな話題で盛り上がることはまずない。
 そもそも、瀬名泉は昔からバレンタインそのものに関心がなかった。モデルを本業としていた頃から、この時期チョコレートは腐るほど貰う。摂り過ぎれば太るし肌は荒れるし、大して知りもしない女の手作りなんて口に入れる気にもなれないので、基本的に受け取りもしなかった。毎年事務所に届けられる抱えきれないほどのお菓子やプレゼントを横目に、事務所のスタッフにそれらの処理をどうするか尋ねられる度、「任せます」と答える。彼にとってのバレンタインとはそういう日だった。誰かから貰うことはおろか、渡すことなんてショコラフェスを知るまで頭に過ぎらせたことすらない。
 というのは、昨年までの泉だ。今年の彼は状況が違う。恋人ができれば、自然とバレンタインというイベントに対する見方が変わる。ショコラフェスの次に浮かぶのは、恋人となった少女の顔だった。彼女がバレンタインをどう捉えているのか、泉は知らない。二人でいてもその手の話題はこれまで彼女から一度も出なかったし、泉もショコラフェス以上の話はしなかった。欲しいと口にすることはなく、欲しいかと口にされることもなく。ただ彼女はどうするのだろうと、ぼんやり思った。これはただ彼女からチョコレートを貰いたい、というそれとは少し違うような気もする。欲しているのはたぶん、モノじゃない。



 ショコラフェス当日のスタジオは当然ながら、がら空きであった。Knightsのメンバーの活動拠点としているその場所に今存在するのは、ここを待ち合わせ場所とする泉だけだ。リハーサルを一通り終えて、まだ本番が始まるまでには余裕のあるこのタイミングで、泉は音楽科の校舎で先程授業を終えたばかりの恋人をここへ呼びつけた。慌ただしい一日の中で彼女を呼び出すなら、ここしかなかった。全ユニットを見てスタンプを集めると目当てのユニットからチョコレートがもらえる、というのが今回のイベントの目玉システムだけれど、生憎ナマエは自主練習でライブのスタートから間に合わない上に、まずチョコレートを始めとした甘い物が苦手である。客として見るとなんとももてなしがいのない奴だ。
 普段から置きっ放しにしている荷物や衣装たちが家主の帰りを待つように並ぶのを一通り流し見て、テーブルに置いた今日の主役へと視線を落とす。真っ黒な細長い長方形の箱はつるりとした触り心地の悪くないもので、色合いと相まってどことなく高級感を思わせた。その蓋を、細い指がそっとつまみ上げる。傾いた蓋の隙間から、その中身が覗く。
「すみません瀬名先輩、少し遅くなりました」
 恋人ことミョウジナマエがスタジオに姿を現したのは、丁度そんなときだった。傾けていた蓋をそのまま箱に立てかけて、顔を上げた泉はスタジオの入り口の方へと振り返って彼女の形を視界に収める。背筋をぴんと伸ばした制服姿の少女が学生鞄を片手に、微笑みながらこちらへ近づくのをじっと眺めた。やがて泉の目の前で立ち止まったナマエの視線が彼の身体を上下になぞるなり、ゆるりと深緑の瞳が細くなる。赤を基調とした今日の泉の衣装は、Knightsのモチーフである騎士らしさはそのままに、ショコラフェスのためにデザインされたものだ。
「先輩は赤も似合うんですね」
「当たり前でしょ、俺はなんでも似合うからねぇ」
「ええ、そのようです」
 軽口のつもりだったのに、予想外に真面目な声音で肯定されて、泉は返答に窮す。
「Knightsはいつも優美ですけど、今日は一段と華やさが強いですね。赤は情熱や愛の色。先輩の赤は上品なままうつくしくて──ずっと飾っておきたくなる」
「……あんたの家には飾られたくない」
 こちらを見上げるナマエに泉の反応を楽しむだけの軽さはなかった。そこにあるのは、熱を伴って眩しいものを見つめる双眸。彼女は泉を讃えるとき、少々大げさな言い回しをするわりに恥ずかしげもなく、生意気にもいつもどこかスマートだ。これを彼女の本音だと真正面から受け止めてしまえば押し負けてしまいそうな気がするので、泉は大抵話半分に流すことにしている。否、しようとして。
「ちょっと」
 黒い手袋に包まれた泉の左手を彼女はそっと持ち上げて、ごく自然な動作でその手の甲に薄い唇で触れた。柔らかな感触が手袋越しであることを、惜しく思ったのは瞬くような間だ。恐らく尊敬が込められたキスに、いやらしさはなかった。ナマエは視線を上向かせると、目だけで小さく笑う。様になっているのが、むかつく。
「かわいい」
「あんたは俺を口説きたいの、からかいたいの」
「どちらも、です。わたしは欲張りですから。口説き足りてはいませんけど、時間もないので続きはまた今度ということで」
 満足したのか、泉の手からするりとナマエの指がほどける。先輩のご用件はなんでしょう、と呼び出した理由を訊ねながら笑む少女に、彼はまずため息を落とすところから始めた。全く、出鼻をくじかれた気分だ。喉まで出かかったちょ〜うざい、を意識的に飲み込んで、泉は数分前までいじっていた黒い箱に再度手を伸ばす。役割を終えた蓋を箱の横にすっかりよけて、その中身を気持ち慎重に手に取った。大した重さがあるものではない。壊れやすいものでもない。けれども、泉にとって、それは決して軽いものではなかったので。なんと言おうか一瞬頭を悩ませて、すぐに考えるのが馬鹿らしくなった。この恋人相手に、小手先の言葉は意味を為さないと心得ている。
「あげる、あんたに」
 泉の手の中にあるのは、薄いフィルムに包まれ根本にはピンク色のリボンが結ばれた、一輪の花だ。ナマエの目と似た色をした茎と伸びた葉の先には、それこそ華やかな赤を帯びた厚みのある花びらが何枚も重なりながら膨らむように開き、見る者の目を惹く美しい造形を作り出していた。手渡そうと緩やかにナマエに向けると、彼女はそれを受け取る動きが頭から抜け落ちてしまったかのように、見下ろしたまま数秒停止する。
「……わたしに?」
「他の誰か宛に見える?」
 目を見張るナマエを見るのはちょっと久しぶりだったように思う。泉の差し出す薔薇の下方を、彼女はおっかなびっくり自分の指で掴み、やっと受け取った。手渡す際に触れた彼女の指先は、外から来たばかりからか、驚くほど冷たかった。
「ありがとうございます。造花……じゃない。プリザーブドフラワー、でしたっけ」
 生花を特別な溶剤に漬け、乾燥させたそれはもちろん水を与え続ける必要はなく、すぐに劣化することもない。泉が花屋で提案されたのは、長期保存向きの花だ。フラワーバレンタインという言葉もあるけれど、端からバレンタインに花を贈るつもりであったわけではなく。候補としては食べ物以外が望ましいと考えていたし、稼ぎはあるので予算にこだわりはないものの、金をかければいいという相手でもないことがまた泉を悩ませていた。
「正解。ナマエは甘い物好きじゃないでしょ。折角時間作ってショコラフェスを見に来てもらうのにさぁ、何もないってのも……」
 なんて適当な言い訳を口にしながら直後に言葉を詰まらせたのは、ナマエが薔薇の花をゆっくりと鼻先に近寄せたからだった。匂いがするものではないけれど、薔薇を間近で視界に留める彼女は満ち足りたように唇をほころばせる。赤い薔薇と並ぶ少女は、とても。
「──きれいですね」
 きっと綺麗だと、思ったのだ。通り過ぎようとした花屋で赤い薔薇を一目見たときから。 高貴で華やか、そして何より品を纏う。自分の恋人に添えれば、ぴたりと嵌まると疑わなかった。泉は己の美的感覚に自信があった。そしてやはりそこに狂いはなかったことを、ここで改めて知って。
「……そうだねぇ」
 主語の曖昧な同意をした。彼女に真意を伝えるつもりはない。ナマエが満足したように、泉もまた満足しているのだから、これでいい。
 壁にかけられた時計を視認すると、集合時間が近づきつつあった。そろそろ行かなくちゃ、と伝えれば、ナマエは僅かに焦ったように泉の名を呼んでくる。
「い、ずみさん」
「なんで今声が上ずったの?」
「聞かないでください」
 急に苦味の混じったものへと転じたナマエの表情を、まじまじと見やる。理由はおおよそ検討がつくが、なんとなしに実感がわかないので、そのままナマエの言葉の続きを待った。恋人への照れというよりも今から親に叱られることを承知で罪を告白する子どものような様には、少々呆れつつ。
「いえ、その、こういうものを頂いたあとに非常に出しづらいんですけど。色々考えたんですよ、わたしも。この二週間くらい。色んなひとに話を聞いて。悩んで、話を聞いて」
 無駄を嫌う人間の口から紡がれる無駄の多い前置きは可愛らしくはあったが、今はいじり倒すには圧倒的に時間が足りなかった。
「時間ないから、長い前口上は巻いてくれない? はい結論」
「バレンタインでいずみさんに渡すチョコレートを作ってきました」
「はいはい、やたら言い渋ってたけど、そんなところだろうと思……はぁ?」
 泉が自分の耳を疑うこととなったのは、彼女が最後に口にした動詞のせいだ。
「作ったって、チョコを? あんたが? お抱えのパティシエがとかじゃなくて?」
「うちはパティシエを抱えたことなんてありませんけど」
 いずみさんわたしの家をなんだと思ってるんですか、と渋い顔をしているけれど泉からすればその認識の摺り合わせをしている場合じゃない。彼女に、ミョウジナマエに手づから何かを作るという選択肢があったことにまず驚きだ。
「あんた料理できたんだ」
「基本的に出来ませんよ。でも、レシピをなぞることは出来ます。中学の頃はバレンタインに友達とチョコレート交換をするのが流行ったので、わたしも作ってました。甘い物は苦手ですが、全く食べられないわけじゃありません」
 彼女がどの程度バレンタインという行事に関心があるのかを、今日まで泉が探ることはなかった。彼女の価値観と照らし合わせたとき、このイベントに興味を持つことがあるのかも。何か用意されることがあるとしても、それは当然既製品であると推測していた。
「わたしの作るものは本来いずみさんに出せるようなものではないと思ってます。でも、お金をかけて良いものを買うのは簡単ですけど、わたしのお金じゃないのはずっと引っかかってて。それに、いずみさんが求めてるのは、そういうものとは違う気がしたんですよ」
 泉がナマエに求めて、期待したものは。本当は、なんだって良かったのだ。既製品だろうと手作りだろうと、そこに彼女の気持ちが寄り添っているのなら。どういう顔で、どういう想いで、ナマエはバレンタインを通して泉を見るのか知りたかった。もっと端的に言うなら、ミョウジナマエの気持ちが欲しかった。いつだって泉が彼女に望むものはそれのみだ。バレンタインという愛情をシンプルに表現できるイベントで、好意を包み隠さないようでいて真に素直にはならない少女の、内側が垣間見えることを期待していた。
「……貰って、頂けるでしょうか」
 ナマエは片手で薔薇を持ったまま、空いた右手で鞄から、緩慢な動きで青いリボンのかけられた薄い水色の小箱を取り出した。親に叱られる直前の子どものようだった強張った表情に、やっと照れが滲み始めている。眉間に皺を作るらしくない彼女は、新鮮だ。ナマエがずっと泉のことを考えて、泉の望むものを模索して、泉を想って作ったものが、彼を満足させないわけがないのだがそこには理解が及ばないらしい。肝心なところで、二人はどこかずれている。
「出来は不安だけど、仕方ないから貰ってあげる。なんでもないような顔して二週間も悩んでたなんて、あんたも結構可愛いとこあるんだねぇ」
「なぜでしょう、あげたくなくなってくる……」
「返品はしてやらないから〜」
「あっ」
「はいありがとうね」
 ひょいとナマエから小箱を奪うように取り上げて、泉は口元を緩めながら手袋越しに撫でる。彼女が「まだ心の準備が」とかなんとか抗議の声を上げていたけれど、泉は意に介さない。ここまできてまだ渡すのを躊躇っていたなんて、彼に言わせれば往生際が悪いというものだ。先程彼女が薔薇をそうしたように、泉もまた水色の箱をそっと鼻先に近づけた。プリザーブドフラワーと違って、箱の奥からは甘い匂いが漂っている。時間が迫っている今はスタジオに置いて行くしかないのが惜しい。
 ラッピングまでいちいち悩んでナマエが行ったのかと思うと、リボンの先まで愛おしく感じられた。泉がそのまま箱の側面に口付けたのは半分そのせいもあり、もう半分はナマエの反応を楽しむためでもあり──すいとナマエを青い目に映せば、彼女の顔は手持ちの薔薇のような色に染まっている。
「あんたも似合うじゃん、赤」
 今度はナマエの気持ちが詰まった青い箱ではなく、今にも文句を並べ立てそうな彼女を引き寄せ、その唇へと。泉は内に積もる愛情を込めて、キスをおくった。

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