瀬名泉の恋人は、世間を知らない。
「ダイナーって日本にもあるものなんですね」
「ずっと学院の近所にあったけど?」
世間知らず、と一口に言っても程度があるけれど、恋人であるミョウジナマエには泉の体感上あらゆる一般的な常識が抜け落ちている。それは彼女だけに思うことではなく、泉の周りの御曹司たちにも同じことが言えたが。彼の家も年に数回海外旅行ができる程度には裕福な家庭ではあるものの、本物のブルジョワとはやはり裕福の度合いが違うし当然伴って価値観も違う。バレエを習っていた頃は比較的生活水準の高い家の子どもたちと共によく過ごしており、その中にいると家の大きさと比例して微妙に変わる価値観や空気感を幼いながらに察するスキルが身についた。そしてそのあまり日常生活に役立たないスキルは、ナマエたちを一般人とは一線を画した人間だと以前からカテゴライズしている。
「まああんた普段繁華街とか行かなそうだもんねぇ」
彼らが昼食を取るべく入ったダイナーと呼ばれるこの手のハンバーガーショップでは、滅多に見かけることができない希少な人種だと。
足の長いテーブルを挟んで泉の向かい側のスツールに腰掛けたナマエは、泉が僅かに目を細めて一瞬笑ったのを目聡く拾って、やや憤慨したように息をついた。
「あ、いま世間知らずだと思ったでしょう」
「だって実際知らないでしょ、世間」
「まるでいずみさんはよく知ってるみたいな言い方」
「あんたよりはね」
泉は言わないが、彼がつい頬を緩めた理由として、ナマエの推測は実のところ不十分だ。彼女を視界の真ん中に据える度、少女の雰囲気と店内の温度差が愉快に映るのは仕方のないことだった。先日ここでライブを行った天祥院英智も大概だったが、服装が普段通りな分ナマエの方が尚更この場所に似合っていなかった。襟に控えめなフリルがあしらわれた薄いトープ色のプルオーバーに、裾広がりの黒いジャンパースカートという取り合わせの彼女の私服は、これまでのイメージを損ねることなく寧ろ彼女にきちんと嵌っていたが、それはつまりこの上品さとは真逆の背景に溶け込みにくいということだ。どちらかが悪いわけではなく、要は相性の問題だろう。どこにいても埋もれない彼女の清廉とした空気は、泉が好きなところのひとつではある。
一方その背景はと言うと。原色に近い赤が既に派手な第一印象を植え付ける壁には、加えて色とりどりのネオン管がアクセサリーのように這っていた。店名を英語で象った別のネオンサインは同じく壁に張り付いて常にちかちかと瞬いていたし、床は一面白黒のチェックで覆われ、店内の装飾や色合いのセレクトは基本的に自己主張が強い。客をまるで落ち着かせる気がない──というのはこういった場所に慣れない泉の感想だ。ここはカフェではなく、ダイナーである。店のすみっこでレトロなジュークボックスや車体の大きな典型的なアメリカ車が幅を利かせている通り、ダイナーとはアメリカ産の飲食店だ。そのターゲット層からして、"落ち着く"の基準が泉とは異なる。取扱いメニューもいわゆるB級グルメと呼ばれる大味で高カロリーなアメリカ料理が大半で、体型維持のためカロリー計算をして食事を摂取する泉にはやはりちょっと縁遠い。恋人は、更にその上を行ってこの場所と縁が無い。そんな二人が揃ってここを訪れたのは、以前天祥院英智がプロデュースしたダイナーの周年イベントに出演した泉が、追加報酬として食事券を数枚貰ったことがきっかけだった。誰かにあげてしまってもよかったのだけれど、どうせなら普段行かない場所に彼女を連れ出してみたくなったのだ。知らないもの、見たことないものが多いナマエに、新しいものを教えていくことが、泉は好きだ。彼女に新しいものを見せるのはいつだって自分でありたいと密かに思うなどして。
「天祥院たちもそうだけど、たまにそこ避けて通れる? ってことを知らないよね、あんたって」
「避けてるわけじゃありません。通る機会がなかっただけです」
友人から誘われたこともないらしい。大方、誘いにくかったのだろう。
「あとわたしは英智さまたちほどではないと思ってます。わたしのほうが感覚が一般人寄りという意味で」
「俺から見ればどっちもどっちだけどねぇ」
言われてみれば、あちらの方が一般常識への理解度が浅い気がしなくもないが、ほんとに僅かにそう感じる程度である。家柄の格が違う、と自身を卑下する意味を込めて彼女はよくそんなことを言う。自分の家はお金はあれども財閥の傘下にいる子会社であるだけで良家でも名家でもないという説明を聞く限り、"格"とは家の裕福さとはまた違うもののようだった。そこに劣等感を抱く感性も含め何度聞いても泉には共有できない感覚なので、あまり深く触れることはないけれど。
「じゃあ例えば、電車は一人でも乗れるわけ?」
「馬鹿にしてるでしょう。一緒に乗ったじゃないですか」
「バスは?」
「……バス? あのバス? 乗り方とかあるんですか?」
「ほら知らないじゃん」
「待ってください、思い出せるかも」
思い返すと二人で電車に乗ったことはあれどもバスはない。電車移動のときだって、大抵泉が二枚分の切符をさっさと買ってきてしまうので、実際に切符の買い方を彼女が知っているかは怪しいものだ。
「また今度俺が教えてあげるからしょげないの。ハンバーガーも来たし」
恋人は真面目に考え込んで自分で自分が信じられないという顔をしていた。バスという存在は身近なものとして捉えていても、乗車経験がない事実が受け止められずに無い記憶を掘り起こそうとしているように見える。どうせ生活の中で車移動が大半を占めていたのだろうし、ないものはないで仕方ないのに、彼女はどうも見栄を張りがちだ。
良いタイミングで店員が運んできた二人分のハンバーガーは、ナマエの気を逸らすのに十分役立ってくれた。それが視界に入った瞬間から、ナマエの視線はそちらに釘づけになっている。目の前に置かれたバスケットの中には淡い色の紙に本体の片側を包まれたハンバーガーと、その隣に黄金色のフライドポテトが詰まっていて、そのどちらとも肉や油の濃い香りを放つ。薄い二枚のパンの間に、分厚いハンバーグとレタスやトマトなどの野菜が一緒になって狭苦しそうにはみ出しながら重なっていた。泉からすれば、たまに付き合いで食すことがあるいつものハンバーガーである。けれども、ナマエは貴重なものを目にしているかのように感心し、それを観察するだけで、なかなか手を伸ばそうとしない。
「見たこともないんだっけ?」
「実物は。写真では何度か」
「普通は実物より写真で見る機会の方が少ない気がするけど……。てか、どの角度から見ても一緒だから。そんなじっくり観察しても面白いもんじゃないでしょ」
「写真でしか見ることができなかったものがいま目の前にあるって結構感動しません? 昔、写真集を見てハワイのラニカイビーチに憧れた時期があったんですけど。その後実際に連れていってもらって、写真と変わらない海の色のうつくしさに子どもながらとても感極まったんです。あのときを思い出しました」
「ラニカイビーチもハンバーガーと一緒にされちゃたまんないんじゃない?」
冷めたら不味くなるんだから早く食べなよ、と促すと、彼女はそろそろとテーブルを見渡し、神妙な顔で泉を見上げた。
「噂通り、これは手で食べるものなんですね」
「どこからの噂か知んないけど、ハンバーガーって大抵そういうもんだからね。紙の部分持って、そのまま食べる。お店のひとに言えばナイフやフォークは持ってきてもらえるだろうけど、どうする?」
「郷に入っては郷に従えという言葉があります。つまりここは作法に則って手でいくべき」
「……楽しそうだねぇ。まあ好きにしたら」
いちいち大げさな恋人だった。いただきますと両手を合わせて呟いてから包み紙を両手で持ち、ゆっくりとハンバーガーを口元に近付けていくナマエを、泉はテーブルに頬杖をついて眺めた。ナマエには早く食べなと急かしておいて、彼自身はまだ手をつける様子もない。この店内で浮いている少女は、ハンバーガーとの取り合わせもやはりアンバランスで、どうしたって俗っぽさより上品さが勝る。見ていて、飽きる気配がなかった。
彼女はすんと匂いを吸い込んでから、桃色のリップをまとった唇を控えめに開く。ハンバーガーの大きさを考えるとやや心もとない開き方だったが、彼女はなんとかパンと肉を小さな口の中に入れて、ひとかじりした。そのまま静かに咀嚼し飲み込むと、再び泉と目を合わせるなり緑色の瞳を輝かせる。
「すごい、とてもケミカルな味がします……」
「それっておいしいの? おいしくないの?」
「おいしいです!」
勢いが強い。
「味付けが濃くて不健康な感じはありますけど、刺激的で、なんというか……癖になるってやつでしょうか。すごい。すごく、不思議な食べ物」
「さっきからすごいって言いすぎ。喜んでもらえたならなによりだけどさぁ、頼むから癖にはしないでよ。困るの俺だから。あんたのとこの使用人に怒られるのも俺だから」
ナマエは二口三口と重ねてはまた感心の言葉を述べる。それくらい、彼女にとってハンバーガーとは衝撃的な食文化らしかった。そこまで喜んでもらえるなら、ハンバーガーも本望だろう。その間につまんだフライドポテトは「じゃがいも味の塩を食べてるみたい」とあまりお気に召さなかったようだが。
「連れて来てくださってありがとうございます、いずみさん。一緒に来られてよかった」
泉がストローでお茶をすすっていたところに、不意に嬉しそうに綻ばせた顔を見せてくるものだから、動揺で盛大にむせた。心臓に悪い、なんて格好悪い理由で怒ることもできず、ごほごほと咳き込みながら、心配するナマエに大丈夫と示すように手を振る。
「あんたってほんっといちいち大げさだよね」
「大げさですか? 本当に感謝してますよ。いずみさんは、わたしに色んなものを見せようとしてくれますよね」
特に口に出すことなく胸に秘めるだけだった泉の願望──ナマエに新しいものを見せたいというそれを見聞きしたように口にしてまた笑う彼女を、彼は目を瞬かせて見つめた。
「その気持ちが嬉しいですし、わたしは他の誰でもないいずみさんを通して新しいものを知れる瞬間が、とても好きですよ」
「……ああそう」
素っ気ない返答になったのは、不意打ちのせいで羞恥心が表に出過ぎて何も取り繕えそうになかったからだ。熱が上がった頭を冷やそうと氷w浮かばせたお茶をもう一度飲む。今度はちょびちょびとしか飲めないストローではなく、ガラスのコップに直接口をつけて中身を飲み干した。望み通り、頭と身体がやや冷える。
俯きかけていた顔をなんとか重力に逆らって動かし、「いずみさん?」と名前を呼んで首を傾げるナマエの方へと向けた。彼女の口元に、ちょっとだけハンバーガーのソースがついているのを見つけると──自然と泉の手は伸びて。
「口のとこ、ついてる」
親指でナマエの唇の横のソースを拭い、ぽかんとする彼女の両の目に見守られながら、泉は少し考えたのち、自分の親指をぺろりと舐めた。ケミカルな味が舌の上に広がる。ナマエは面白いくらいに硬直したままだ。
「口についたソースに気付かないなんて、ガキみたいだねぇ」
「……あ、の」
「なぁに?」
そう答える声は、わざとらしく優しい。ナマエの声音は、落ち着きがなく先程の泉のように羞恥が滲んでいた。
「恥ずかしい、んですけど……口で言ってくれればよかったのに」
「口で言っちゃ仕返しにならないでしょ〜?」
「わたしいずみさんに仕返しされるようなことしましたっけ?」
困ったように眉を下げるナマエには、一生考えてもわからないだろう。彼女は察しが良いけれど、自分の言動が泉にどんな影響を与えるか正確には把握しきれていないところがある。わかってやっているときは良いが、ダメージが大きいのは大抵彼女に自覚がないときだ。何なんです、と更に問い詰めようとしてくるナマエの科白を受け流して、泉はやっとハンバーガーに手をつけた。
「相変わらずたまに食べる分には、悪くない味だけどさ。次はもうちょっと身体に良さそうなもんが食べられるとこにしない?」
「そうしましょうか。ハンバーガーは美味しいしまた来たいですけど、いずみさん向きではないですし」
「こんなカロリーの暴力は、たまに食べるくらいが丁度いいの。それと、今度はバスで出かけられる場所にしようねぇ、乗り方教えて欲しいんでしょ」
「……よろしくお願いします」
自身の無知に再度申し訳なさそうにしているナマエに、泉は嬉しそうに薄く笑いかける。今日はこれを教えて、次はあれを教えて。彼女に教えたいものも、見せたいものもまだまだたくさんある。知識の不足が多いということは、教えられるものが多いということと同義であるのだから。自分を通して、多くの新しいものを見てほしい。そうして、彼女の中で自分の存在がもっと大きくなればいいと願っている。だから。
「どっか行ってみたいとこ、ある?」
瀬名泉の恋人は、世間知らずで構わないのだ。