朔間凛月は普通の人間と同じ時間が共有できない。体質の関係上、昼間の活発な活動は身体に大きな負担がかかるし、その代わり夜は昼の怠さが嘘のように楽になるからだ。不便ではあるものの、十八年間付き合ってきた身体である。ある程度受け入れてはいるし、自分に合った過ごし方も弁えている。とは言え、それは寂しさを覚えないということと同義ではなく。日の落ちた音楽室で一人ピアノを弾きながら、何も考えないわけがなく。だから、この生徒がほぼ全員下校している時間帯の音楽室への訪問者は、凛月にとってその寂しさを紛らわすのに適していると言えた。もちろん、誰でもいいわけではないけれど。
 廊下からの人の気配に、凛月はピアノを弾いていた手をとめた。"どちら"だろうかと一瞬考え、足音からその片方を特定した。やがて、きいと音を立てて開いた扉の奥から、予想通りの、夢ノ咲学院の制服を纏った少女が姿を現す。入り口で立ち止まったミョウジナマエは、なんだか呆れたように凛月を眺めている。
「来ると思ってた。ナマエはそういうとこ俺の期待を裏切らないからねぇ、良い子良い子」
「それはどうも?」
「おいで。いつまでもそんなところに突っ立ってないでさ、そっち座って。今日は俺がナマエに聴かせる番〜」
「もちろん拝聴はしますけど、わたしとお話しもしてくださいね」
「えー、どうせクレームでしょ? 聞かないよ、聞きたくない」
「苦情なんて滅相もない。わたしはいつだって凛月くんに感謝の気持ちしか持ってないですし」
「本当かなぁ」
 などと話しながら、ナマエは凛月の指示通りに、ピアノがよく見える一番前の席に腰をおろした。凛月以外に誰も見ていないこの場所でも、彼女の姿勢は良いままだ。こういう時くらいはもっと肩の力を抜けばいいのに、とも思うが、染み付いた習慣がそう簡単に抜けないことは凛月も知っている。育ちの良さと言えば聞こえは良いものの、彼女の場合はその事情がもう少し歪んでいることも、彼は知っていたので。
「リクエストある?」
「モーツァルトにしましょう」
「ナマエはモーツァルト好きだよね。うちの王さまは嫌いだけど」
「王さまに操を立ててるなら、リクエストは変えた方がいいですか?」
「変な言い方しないでよ。べつにいいんじゃない、見てないところで弾くくらい。モーツァルトなら前に一度ナマエが適当に弾いてたやつ、あれ俺も弾こうかな」
「あぁ、確かだいぶうろ覚えだったやつ」
「うん、アレンジがびっくりするほどダサかったやつね。あのダサさ、俺にちゃんと再現できるかなぁ」
 ひどい、とナマエが弱ったような顔をした。
「そりゃあわたしは凛月くんたちの王さまと違って天才じゃないですし? 凛月くんを満足させられるようなアレンジセンスは持ち合わせがありませんけど」
「なに拗ねてんの。ナマエにそういうセンスがないのは今に始まったことじゃないじゃん」
「はっきり言いましたね」
 ナマエは音楽科ピアノ専攻の立場に恥じずピアノは上手いがアレンジセンスはそこそこ酷い。うろ覚えの曲を演奏する時、思い出せない部分は適当に作曲して弾いているようだが、その部分もまたつっこみどころが多い。ピアノを弾くセンスとアレンジのセンスは別だということを、彼女は体現している。
「大したダメージでもないくせに。優先順位が低いスキルだからそもそも磨こうともしてない。取捨選択の結果だよね。本気で必要なら、ナマエはとことんやるもんねぇ?」
「……敵う気がしません、凛月くんには」
「ナマエが俺に勝てるわけないでしょ。重ねてきた年月が違うんだから、敵わなくて当然。そうあるべきで、それでいいの。じゃないと面白くないし。それに……俺はセッちゃんとは違うしね〜」
「うん? そこでなぜ瀬名先輩ですか?」
 ナマエの問いかけを黙殺し、凛月は細い指を白い鍵盤にそっと乗せながら、昼間の瀬名泉と彼女のやりとりを頭の中で反芻する。わかりやすくナマエへの好意が見える泉はともかく。なんだか違和感があったのだ、泉と楽しげに話すあのナマエには。はしゃいでいたとは本人の弁で、確かにそういうきらいはあった。ナマエは物怖じしないが、言動はある程度相手を見て空気を読む。泉とは、もっと難なく話せたはずなのだ。あんなにからかうような物言いをしなくとも。ああいう手合の機嫌の取り方もよく知っているだろうに、彼女はそれをしなかった。泉がからかいやすいのはわかるが。なんにせよ、ナマエらしくない振る舞いだ。鳴上嵐には素直に感心を見せていた。彼がナマエの尊敬の対象になる理由は察しがつく。でもそれは、泉だって同じで、その対象内のはずなのに。
「……なんか、むかつくなぁ」
 鍵盤の上で踊る指が、流れるように音を操る。記憶の片隅からから呼び起こした曲が、身体とピアノを介してここに再現されていく。頭が、身体が覚えている。あの日この音楽室で彼女の紡いだ、軽やかな音たちを。今日と同じような、なんでもない一日。吐く息が真っ白になっていた冬の日、めちゃくちゃに作曲しながら弾く彼女のアイネ・クライネ・ナハトムジークは、モーツァルトに謝った方がいいような出来栄えで。けれどもあまりにも楽しそうに、自由そうに、晴れ渡った青い空のような邪気のない笑顔で弾くものだから、これはこれで悪くないな、なんて思ったものだ。”この場所で”ピアノを弾く瞬間だけ、彼女はむき出しの感情を垣間見せる。悲しみも怒りも喜びも、そのすべてを音にのせて表現する。観客は朔間凛月ただ一人。自分だけが、春の木漏れ日のように穏やかに微笑むだけの少女とは別の顔を見ることを許されている。逆に言えば、彼女はここ以外で、そういうものを外に出す場がない。
「────」
 凛月のピアノに静かに耳を傾けていたナマエは、なんだか申し訳なさそうな眼差しを向けてきていた。何を考えているかは、だいたいわかっていた。
「俺のピアノ聴きながら、くだらないこと考えるのやめて」
「……凛月くん」
「話があるんでしょ。いいよ、聞いてあげても」
 手は止めずに、少しだけ鍵盤を叩く力を弱めた。ナマエの用件は、確信こそないが大方予想がついている。彼女は何を考えているのか読ませないような顔をするのが得意だが、思考回路さえ理解していれば先を読むのは容易だった。凛月にとっては。
「ごめんなさい」
「ナマエが謝るの? 俺に謝らせるんじゃなくて」
「まさか。わたし、凛月くんに失礼なことをしてしまったから。わたしの勝手な都合を押し付けようとしました」
「本当に律儀だよねぇ、ナマエは。べつに俺は怒ってないよ。ナマエの嘘や隠し事には、いつも難儀な理由がくっついてて、その大半を俺は知ってるし。まあそれに付き合ってあげるかどうかは、また別問題だけど〜」
 天祥院英智から、三日前に話があった。紅茶部の活動日、いつもどおりの何気なさで、彼はナマエからの伝言を凛月に告げた。”音楽科との顔合わせの日は他人のふりをして欲しい”と。なにもかも面白くなくて、その日は英知が機嫌良さそうに出してきた高級茶葉で淹れた紅茶を、凛月は十分で飲み干してさっさと衣更真緒の家に帰った。
「許してあげても良いけど、そもそも伝え方が気に入らない。エッちゃんを伝言係に使うなんて、随分良いご身分になったもんだね。そんなに仲良しだったの」
「仲良しだなんて恐れ多い。や、色々悩んだんですけど、あれが一番穏便かと」
「穏便〜? 言いたいことや頼みがあるなら、こうやって直接来るべきじゃない? エッちゃんが悪意を持って内容を捻じ曲げて俺に伝えてたらどうするの?」
「英智さまはそんなことしません」
「そんなのわかんないでしょ。ナマエはエッちゃんって人間を信用しすぎ〜。ていうか、前みたいに、不法侵入とかじゃなくてナマエは普通に許可もらってここに来られるわけだし。一体何に遠慮してるわけ」
 今日も、ナマエは首から来客証をぶら下げている。学院が認めた、正式な客である証拠だ。
「ごもっともです。けど……前は、来る理由があったじゃないですか。その理由は、今は遠くへ行っちゃったから。わたしの勝手な都合で来るのは、フェアじゃないですよ」
 ナマエのアイドル科校舎への訪問理由は、昨年度までアイドル科に属していた幼馴染の”お迎え”だ。聞いたところによると、財閥の息子と、その財閥傘下の会社の娘という関係らしい。親同士の関係性が、そのまま子へと引き継がれている。ナマエがただの一般家庭の人間であったなら、アイドル科校舎に迎えに来るなど不可能であったのに、彼女の家が天祥院家と同じく夢ノ咲学院に多額の寄付を行っていたせいで、それが可能となる環境が出来上がっていた。その”お迎え”の過程で、凛月はナマエと出会ったわけで、そこには感謝するべきと凛月は理解しつつも、ナマエをいつまでも立場で縛る”幼馴染”の存在が気に食わない。
「俺を理由にはしてくれないとこが、ナマエの悪いところだ」
 自然と、手を動かすスピードが速くなっていく。リズムも乱れてきたし、集中なしに弾けるのはここまでだろうと判じて、凛月は鍵盤から手を離す。
「ナマエってたまにびっくりするくらい薄情。まーくんの俺への愛情の深さを見習って欲しい……」
「衣更くんを参考にすると色々問題あるような気も」
「俺とまーくんの間に問題なんてないから。失礼なこと言わないでくれる?」
「はあ……ごめんなさい……?」
「反省してナマエの中の俺の優先順位をもっと上げといてよ。ぜんっぜん足りない。勝手に婚約者とか作っちゃうし、扱いが雑。俺はアレンジセンスと一緒にされるなんて、絶対お断り」
「……婚約者?」
「ナマエの薄情者〜」
 ナマエなんて、難しいことを考えずにもっとこの朔間凛月に構えばいいのだ。それだけでいいと、凛月は度々考える。人の上に立って、人の期待を背負って、人の悪意まで受け止めて。そんなもの、全部やめてしまえばいいのに。衣更真緒とベクトルは違うが、彼女も一種の苦労性。大きく違うのは、ナマエは決して苦労が好きというわけではないところか。その上、とんだ格好つけの見栄っ張りときているから救えない。見栄を張るために、自分を守ることよりも、身をすり減らし続けることを選ぶような少女だ。そうやって自分で自分を追い詰めて、逃げ場を求めてたどり着いたのが、この音楽室だった。
 音楽科のホールもレッスン室も、外のピアノスタジオも、家のピアノ部屋も──練習環境としては整ったそれらは、等しく彼女に上手く弾くこと、上を目指すことを強いる、息が詰まる場所。アイドル科の校舎という普段触れない環境に置かれたピアノに彼女が惹かれ、そこで自由に弾く時間を求めたのは、そんな理由だったらしい。初めて顔を合わせた日、これからもここに弾きに来ればいいと提案したのは凛月だ。自分なら教師が見回りに来る時間もわかるし、教師自体に顔が利く。加えて、ミョウジナマエという学院からすれば雑に扱えない相手なら、教師も強くは出られない。面倒な手順は踏むことなく、どうにでもなると判断したが故に。そうして、彼女は今年の春前までは、確かにこの音楽室に何度も足を運んでいた。しかし。
「そもそも……そっか、ナマエがここに来づらくなる理由作ったのって、俺だったっけ」
「……それは」
「そういうことでしょ。俺がナマエに好きとか言ったから」
 そう話す凛月も、そんなこともありましたね、と返すナマエも、どちらとも照れや羞恥はない。あっけらかんとしていた。
「まあ半分正解ですけど。もう半分は、さっき説明した通り。わたしはこの先凛月くんを、凛月くんが望む形で好きになることは、ないので」
「はっきり言うねぇ。でもそこ気にしなくてもよくない? 俺がナマエに好きだって言って、ナマエが俺を振って、それで終わった話じゃん」
「終わったん、ですかね。どっちにせよ、今まで通り凛月くんの厚意に甘えてここに来るのは、違うと思うんです」
 春になる直前、凛月はナマエに好意を告げた。真緒に匹敵するほどの、強い執着があったわけではなかったように思う。一生一緒にいて欲しいとか、世話を焼いて欲しいとか、彼女に求めるものはそういったものとは違った。
──俺はナマエが好きだよ。だから、音楽室じゃなくて、俺のところに逃げてきなよ。ぜんぶ、俺が許してあげるからさ。
 ナマエはずっと、勝利を求めている。求め続けている。突き詰めれば、瀬名泉と同じ典型的な努力型の人間だ。努力に見合った結果と実感が無ければ、段々と擦り切れていくだけのひとだ。彼女の設定する”目的”は、目先のコンクールや学校の成績なんてものじゃない。彼女の言う、”勝利”は。
 認めさせたいと、そう彼女は言った。ナマエは深くを語らないのでこれは凛月の推測だが──彼女はきっと、他人からの評価や家柄、一生自分に付き纏うもの全てと、戦い続けるつもりでいる。好きでやっているのとはわけが違う。原動力は、”認められなければならない”、そんな強迫観念といったところか。何かに追い立てられるように、彼女は走り続けていて、その先にあるのはただの孤独だとわかる。逃げるように努力した結果に、充実感や達成感はなく、感慨だってわかないだろう。それは、目的が無いのと同じだ。そういう人間は遠からず、潰れてしまう。彼女を潰すのは、他人からの期待ではない。勝利できなかったときの、自分自身への失望だ。勝てなかったという、敗北の結果だ。
 凛月は自分の分析に自信があった。だからこそナマエには、潰れて欲しくなかった。見ていられない。泣きながら、感情のままに音楽を奏でる姿を、綺麗だと思った。でも、見ていたいのは、うつくしい顔を子供みたいに緩ませて、弾むようにピアノを鳴らす彼女だ。逃げ場所が、音楽室ではなく朔間凛月になればいいと、そう願っただけ。要は救われてほしいのだ。その願いを知ってか知らずか、ナマエは凛月を拒んだ。拒んで、それから音楽室には来なくなった。そこで一度終わったのだ。彼女のことは好きだが、そこに執着はなかった。してはいけないと思った。これ以上自分から追えば、この受け入れられなかった気持ちが更に育つことがあれば、きっと後戻りできなくなる。だから去ったナマエを追うことはしないまま、彼はこの教室にまた彼女が訪れる日を想いながら、春が来た。
「つまり、期待させたくなかったって感じです」
「……だからさぁ、そういうところが薄情だって言ってるの。癖になっちゃってんだろうけどさ、利害中心でしかもの考えてない。ナマエは他人に期待しないんだ。自分が相手の欲しいものを用意できなかったら終わりだと思ってる。永遠にお互い欲しいものを与え合わなきゃ、はいおしまいって? 俺とナマエも? それは、俺を、周り全員を侮ってるのと同じだよ。わかる?」
「そんなつもりじゃ」
「うんそうだろうね。あぁ、謝らなくていいよ。俺はナマエが……俺の、思う通りのナマエじゃなくていい。それだけ覚えといて」
「……ええと」
 なんとなしに気まずそうに顔を俯かせたナマエを視界に入れたまま、凛月はピアノ椅子から立ち上がった。ナマエに言ったことに嘘はない。下心だけで彼女に音楽室に来て欲しいと望んでいるわけではないからだ。
「選手交替。今度はナマエの番ね」
「……リクエストあります?」
「ナマエが小さい頃によく弾いてた曲。なんでもいいよ。俺が知りたいだけ」
「わかりました」
 ナマエと入れ替わりに机と椅子が並ぶ方へと足を向けた凛月は、おもむろに一番前の席の机に浅く腰掛けた。ナマエの顔を、よく見ながら、聴きたかった。やがて合図もなく始まった曲は、細かく刻むようなテンポで進むのに、聴衆を労るような柔らかさがある。アレンジはできないくせに、こういう弾き方をするのは得意なのだから、不思議なものだ。チェルニー30番の──さてこれはどれだっただろう。
「ねえ。これからも、来てね。俺、ナマエのピアノ好きだし。待ってるから」
 ひとりはさみしいんだよねぇ、とずるいと自覚のある一言を添えた。返事はない。聞こえないふりを決め込んでいるのか、あるいは返答に悩んでいるのだろう。ばっさり切り捨てられるより、ずっとよかった。

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