瀬名泉というわたしの恋人は、わたしのことが大好きらしい。言葉で、態度で遠慮なく伝わってくるそれに、自分は恋人という立場であっても、あまり応えられずにいた。わたしには、見ないようにしているものがあって──心の奥底で、きっと自分自身が変化することに踏み切れないでいる。
なにかと兄ぶりたがる心配性でお節介で短気なわたしの恋人兼従弟は、一人暮らしであるわたしのアパートに頼んでもいないのに頻繁にやって来ては、彼氏と言うよりも姑のように小言を並べ立てつつ入り浸っていた。そのため顔を合わせる機会は多いのだけれど、案外二人で出掛ける機会は付き合い始めてから一度もなかった。まだこの関係になって日が浅いというのもあるが、外で会う機会は、二人きりよりも親戚の集まりやお互いの家族ぐるみの方が断然多い。
そもそもどちらとも、学校のない時間に仕事をして、仕事がない時間に学校へ行くという生活を送っている。つまり休日の一致が非常に少なく、一日使ってどこかへゆっくりと遊びに行く日を作るのは難易度が高い。幸い二人ともインドア派で人混みが好きではない方だったので、家で食事をしてのんびりと過ごす程度でも不満はまったく生まれてこなかったのだけど。少なくとも、わたしは。そんな刺激のない付き合い方をしていたある日、たまには出掛ける? と彼は、いずみくんは電話で言った。
──午前中は仕事の打ち合わせがあるけど、昼前には終わるから。12時に駅前で待ち合わせでいいでしょ?
──12時半で。
──はい12時だからね、遅れないでよ。
──理不尽!
抗議も虚しく、集合時間は12時になった。曰く、「ちょっとでも時間遅らせて寝坊したときの保険かけようとしてんのわかってるから。寝坊したくなきゃ、さっさと布団入りなよ」らしい。ぐうの音も出ない。いずみくんが30分空き時間ができるの嫌がってるだけじゃん、とは言えなかった。わたしの方が年上なのに、時々パワーバランスが狂う。ともあれ、そういう経緯で、わたしたちにしては珍しく、と言うか初めて、ごく普通のカップルみたいな待ち合わせというものをすることになった。
日曜日の駅前は、悪い意味で期待を裏切らない混雑加減だった。家族連れも友達同士も部活帰りの学生も、もちろん仲睦まじいカップルも、あらゆる関係性の人たちが駅という場所を中心としてたくさん行き交うは光景は、冷静に考えなくとも混沌としている。ひとひとりが埋もれるのに十分な量の人間が留まっていた。こんなに人の多い場所の真ん中で待ち合わせをするのは随分久しぶりな気がする。時刻は11時50分、人混みの中で既になんだか疲労を感じていた。熱くも寒くもない春だからまだましだけども、これが夏や冬ならもう家に帰りたくなっているに違いない。そもそも夏の炎天下での待ち合わせは、あっちも死ぬほど嫌がりそうだ。
落ち合う場所は駅前のモニュメント時計下ときっちり決まっていて、お互いを見つけられないことはないはずだけどさてどこに──付近を見回して、そして。
「……えぇ」
思わず口から転がり出た呟きは、即座に雑踏に溶けた。指定通りの場所に、指定の時間よりもやや早く、彼はそこに到着している。時間に厳しいのは知っているので、それはべつに不思議じゃない。特に待たされて苛立っている風でもなく、寧ろ遠目にもどこか機嫌が良く見える。いや、そんなことよりも。
何も考えないようにしたいのに、早く彼の元へ行って声をかけなければいけないのに。いずみくんの姿を視界に収めた瞬間から、足の動かし方を忘れたかのように、馬鹿みたいににそこで立ち尽くした。彼は確かに自分の従弟で恋人で、わたしが彼を間違えるわけないのに、急にその現実感が薄まったからだ。
黒のカットソーに、薄い灰色のジャケット、そしてチェックパンツという服装で、いずみくんは姿勢正しくひとり佇んでいた。恐らく変装用にかけていると思われる黒縁眼鏡も妙に馴染んでいるが、決して地味な印象には落ち着かない。ただそこにいるだけなのに、それにしては放つ存在感が周囲とは頭ひとつ抜けている。その空間だけ切り取ったみたいに、時折腕時計を見下ろす仕草すら、映画の一場面よろしく様になっていて趣があった。シンプルに言って、うつくしい。顔の造形も、整った立ち姿も、いつの間にか大人っぽくなった服装も。すべてがびっくりするくらいに調和していたせいなのか、それを一歩引いた位置から見たせいなのか、普段あまり考えないようにしていたことを嫌というほど意識させられた。彼は間違いなく人を惹きつける性質で、まるで住む世界が違うひとのようで、しかし彼は自分の恋人で──最後にその事実を飲み込むと、身体中の熱が顔に集中する気配がした。
通りすがりのひとたちの目を惹いていて、本人もそれに気付いていそうだったのに、いずみくんは知らないふりをしている。その一連の流れを、わたしは背景の一部となってぼんやりと観察していた。
やがて、不意に視線をこちらに向けたいずみくんが、一瞬だけ目を見開くと、すぐに呆れ返ったように眉を下げた。動かず話そうともしないこちらへと、彼が迷わず歩いて来るのがわかって、わたしの足は反射的に一歩下がる。優雅にお茶でも飲んでいそうな映画の中の登場人物が、突然わたしのいる現実まで落ちてきたような、そんな感覚。いずみくんが眩しく見えたことも、今更そんな感想を持ったことも、すべてが急激に恥ずかしくなって、わたしは急ぎ視線を逸した。わたしの前で立ち止まったいずみくんの声音は、少しだけ怒っていた。
「今なんで後ずさりしたの、なんでこっち見ないの」
「え、いや、なにも」
「なにもってことはないでしょ〜。時間通りに来ておいて、なんで声かけて来ないわけ? 時間ぎりぎりとかそういうのも気にしたことなかったでしょ、俺もその辺言わないじゃん」
言っても無駄だと思うし、時間通りに来てれば及第点だから、とかなんとか皮肉めいた言葉がいくつかかけられても、まともに耳を通らなかった。わたしがちゃんと話そうとしないことをどう受け止めたのか、やや腰を低くしてわたしと目線の高さを合わせてきたいずみくんが、こちらの顔を覗き込む。薄い空のような青色がふたつ、わたしの目の前で心配そうに揺れていた。その目から逃げないようにするためには、ちょっと頑張らなければならない。
「もしかして、体調悪い?」
「すっごく元気!」
額に伸ばされかけた手を振り払い、大きな声でそう主張した。いずみくんの眉が訝しげに歪んだ。
「元気ならいいけど、じゃあ何なの」
「だから、なんでもないよ」
「あんたまさか自分が嘘や隠し事が下手って自覚ないとか言わないよねぇ?」
「……下手かな?」
「ド下手だから」
この従弟は本当に容赦がない。僅かに視線を落とせば、大きく開いた首周りだ。形のいい鎖骨になんとなしに感心しつつ、この人はどこを見ても綺麗なのだなと思った。鎖骨、顔、わたしに触れようとした手、ぜんぶだ。そんな思考が頭から離れないなんて、どうかしている。
最近会うときの彼は制服姿が多く、以前どんな私服だったのか今はよく思い出せない。わりと親戚の集まりでは目にしているはずで、元々センスは良かったようなイメージがあるけれど、こんなに意識したことはなかった。ずっと見てきたのに、何年も何年も、近くで見てきたはずなのに。だいたい、彼は綺麗なひとで、昔より大人になってるなんて、付き合う頃にはとうに認識していたはずなのに。たぶん、考えないようにしていたツケだろう。考えたら、まともに意識してしまったら、そういうものが態度に出てしまいそうだから。わたしは"姉"で、彼は"弟"だったのに、そんなのって、自分らしくない。
「もしかして、照れてんの?」
再び目が合わなくなったわたしをじっと上から眺めていたいずみくんが、ぼそりとそんな核心をついた。ここでそんなわけないでしょと笑い飛ばせなかった時点で、わたしの負けは確定したも同然だ。その、と口ごもってしまったわたしに、いずみくんが憎たらしいくらい楽しげに言葉を継ぐ。
「ふうん、へえ。そうなんだ? ナマエが俺を見て、ねぇ」
「ち、違うよ、べつに照れたとかじゃなくて、ていうか従弟のいずみくん相手に照れるなんて、そんなの」
そんなのおかしいよねと言いたかったのに、うつむくわたしをやや下からうかがうように頭を傾けたいずみくんの空色の瞳が視界に飛び込んできて、驚きで科白ごと空気を吸い込んだ。わざわざ眼鏡を外しながら意地が悪そうに笑う彼は、完全にわたしの動揺をエンターテイメントとして楽しむ姿勢だ。む、むかつく。
「どうしたのぉ、ナマエは俺相手に照れるわけないんでしょ? ほらこっち見なよ、人と話すときは相手の目を見てって習わなかった?」
「見る、いますぐ見るから!」
慌てていずみくんを見上げて、ついまた一歩下がったら、同じ一歩分詰められた。手強い。
「はいちゃんと見た。これで文句ないよね。ていうか近いから、ひといるんだし離れて」
「離れてあげてもいいけど、一個だけ教えて。俺を見て、どう思ったか。ちゃんと言葉にして」
この距離感で、そんなこと訊かないでほしい。絶対に逃さないという強い意思を目の奥から感じ取ってしまって、わたしは一度固まった。なぜか、先程までの意地悪そうな表情は引っ込んでしまっている。何気なくされた問いはただわたしの反応を見て楽しむためだけのものかと思い込んでいたけれど、そんないずみくんの様子を見るに、もっと別の意味があるのかもしれない。
現状、彼が何を知りたいのか、どうすれば満足するのかなんて知る由も術もなく。言われるままにどう思ったかを真面目に考え始めてみたものの、思うことがありすぎたし、それらはぐるぐると頭の中を回り続けている。いずみくんの促すような目つきに急かされながら、その感想たちの中から頭に早く濃く浮かんできたものを、選び取った。
「ほ、ほんとにモデルだったんだなって……」
「はぁ? なにそれ疑ってたわけ? いやもっとあるでしょ、素直な気持ちを言葉にしなよ」
「素直な気持ち……なんかおしゃれ……」
「はあ、もういい。まったく、俺はそんなに高望みしてるのかねぇ」
わたしの感想はお気に召さなかったことだけはよくわかった。いや確かにもっとあるし色々なことを考えたけど、どう伝えるのが正解なのか、頭を整理するには時間が足りなかった。案の定いずみくんは呆れているが、思ったよりも機嫌を悪くしてはいないようだ。
「なんにしろ、ナマエが俺の格好良さを認識するのは、良い傾向だしね。今日はそれで満足しといてあげる」
「えっ、そういう話になるの?」
「だって、ナマエはまだ俺のこと男って言うより弟みたいに思ってる節があるでしょ」
「……あるかないかで言えばある、けど」
「おかしな言い回ししなくても、十分知ってるから。まああんたが押しに弱いの利用して多少強引に首輪つけた自覚はあるし、今は仕方ないんじゃない」
確かにわたしは押しに弱いけど、首輪をつけたって、なにに? いずみくんの表現は、時々わたしの理解力を考慮してくれない。
「俺はちゃんとこっちに振り向かせる自信があるけど、あんたとんでもない鈍感だからさぁ? 正直どれだけかかるのか読めなかったんだよ。でも、この感じならそれも時間の問題かなぁ」
俺本来は鳴くまで待つタイプじゃないんだけど、と付け足すいずみくんは本当に一体なんの話をしているのか。急に会話のキャッチボールが不自由になった。
「ごめん何言ってるのかよくわかんない」
「だと思った。そういうところが鈍感だって言ってるの。あんたに今更鋭くなられても困るんだけどねぇ。とりあえず、今はさ」
わたしと近すぎた顔を離しながら眼鏡をかけ直し、背筋を伸ばしたいずみくんは偉そうに両腕を組むなり、口の端を持ち上げた。自信に満ちた顔が輝いたような錯覚を起こし、自分の目をこすりたくなったのを堪える。
「あんたの彼氏は格好いいってことだけ、その容量の少ない頭に記憶させといて」
「つまりわたし馬鹿にされてる……?」
自信に満ちた顔、の口元があっさりへの字に曲がった。
「他に反応するとこあったでしょ〜? これだからあんたって奴は……。これ以上馬鹿にされたくなかったら、早くお兄ちゃんに追いつきな」
「いずみくんはわたしのお兄ちゃんではないけど、追いつくって、なにで?」
「精神年齢だけど」
「わたしのほうが年上って知ってる?」
「一年早く生まれただけで偉そうにするつもり?」
「一年遅く生まれといて偉そうにするのはどうなのかなあ」
ナマエのくせに生意気、から始まったいつもの文句を聞きながら、この問答は一生繰り返しそうだと思った。何日過ぎても、何度季節が巡っても、この関係性がちょっとだけ変化しても。
わたしはいずみくんより年上でお姉ちゃんで、彼は年下で弟みたいだったけど。その認識は、こうしている今も徐々に移り変わっていく。わたしがどんなに受け入れることを拒んでも、彼は更に大人になっていくし、もっとかっこよくなってしまうのだろう。そこに惹かれてしまう自分と向き合って、いい加減認めなければならない。いつまでもわたしは"姉"ではいられず、彼は"弟"ではいてくれないのだと。いずみくんに好きだと告げられたあの日、胸の奥でぶり返した甘い疼きが、一時のものではないことも。意地を張っていても、どうしようもないことだ。だから、いつかきちんと伝えなければならない。わたしがもう少しだけ、気持ちに整理をつけられたら、いつか。
「いずみくん」
「なぁに」
「……今日のいずみくん、かっこいい」
瀬名ナマエは、瀬名泉という恋人が大好きだということを。