応接間がある家を見たのは、いつぶりだろうか。泉が案内された部屋は、家族団らんが行われるようなリビングとは、明らかに造りと空気が違っていた。正しく客を迎えるための部屋だ。ガラス製のローテーブルを挟むように設置されたグレーのソファは、腰掛けてみると見た目よりも柔らかく、座り心地がやたら良い。ナマエが住むマンションのリビングに置かれたものと似た感触で、恐らく質の良いものなのだろう。泉がすすめられた席は所謂上座で、そこから少し横へ首を傾けると指紋ひとつないガラス越しに草木がちらほら植わった広い庭が一望できた。と言っても、冬であるいま、葉は枯れ落ち花をつけている草もないので、少々寂しい風景だ。
そんなアウェイな場所で、隣に座るのがナマエであるという点だけは泉の不安を気休め程度に和らげていた。恋人の父親だからとか、大きな家だからとか、泉を真に不安にさせるのはそこではなく。あの掴みどころのなさすぎる男そのものに対して、どう接するべきか態度を決めかねている。いまも、泉を応接間に通したきり姿を消していた父親がトレーにティーカップを三つのせて戻ってきたのを見たときには、つい眉をひそめてしまった。スマートな動作で目の前に置かれたティーカップの中身を物珍しげに見つめていたら、向かい側のソファに腰を下ろす彼がまた読めない笑みを浮かべて。
「紅茶は嫌い? コーヒーが良かったかな」
「どっちでもいいですけど……紅茶淹れるのが趣味とかなんですか?」
「いや。ただ、おれ以外にやる奴いないから」
これが天祥院英智の家であったなら、こういうときは家政婦の出番というのが定石だろうが、この家には彼と彼女以外に人の気配がない。泉の言いたいことを察したのか、泉が再度口を開く前に、男が答えた。
「うちは家事代行は掃除くらいしか雇ってない。そいつのマンションにはひとり常駐させてるけど」
この家広すぎて掃除がだるくて、と淡々と続けながら彼は自ら淹れた紅茶に口をつけている。隣の彼女と同じくそれが様になっているのは、やはり親子だなと思うなどした。ナマエの見たことないくらいの機嫌の悪さを鑑みると、とてもじゃないが口には出せそうにない。
玄関先でナマエから紹介された彼女の父親──ミョウジ透哉は、泉が思い描いていたどんな父親とも違った。なんだか妙に気安くて、それでいて油断できるようなゆるさだけでは構成されていない。深みのない控えめな笑い方は、何を拒まれたわけでもないのに冷ややかさと静けさを感じさせた。一体どういう人間なのか、中身が不透明だ。想定外と言うなら、この家自体も、泉の知る御曹司たちの家とはなんだか印象が変わってきている。
「綺麗なひとだね、いずみさんは」
「……どうも」
唐突に向けられた感想は、聞き慣れたものであるはずなのに、涼しげな顔をして緊張感を与えてくるこの男からの言葉はどう受け止めればいいのかわからない。絵画でも鑑賞するような視線が自分をなぞるのが、非常に落ち着かなかった。
「ひとの恋人にいきなり変な褒め方するのやめてください。あと、いずみさんって呼ぶのもやめてください」
「じゃあいずみ」
「なれなれしいにもほどがあるでしょう。嫌がってるじゃないですか」
「嫌がってる?」
「……嫌じゃないですけど、落ち着きもしません」
「つまり嫌ってことですよ」
「おまえさ、ひとの意見を都合よく捻じ曲げるなよ」
そうつっこんで、透哉が呆れたように娘を一瞥した。親子同士の距離感に正解などないのだろう。それこそよそはよそ、うちはうち、なのだろうけれど。この二人は少なくとも瀬名泉と家族の距離感とはだいぶ異なっている。泉の両親は昔から彼を可愛がり甘やかすし、過保護なのが常だ。いつでも仲良しとはいかないけれど、基本的には仲は悪くないつもりで、両親が好きだ。しかし、この二人は。そもそもナマエは父親を嫌っていて、父親は父親で娘を可愛がるような素振りがない。容姿や仕草に血の繋がりは確かに感じられるのに、親子として健全な親密さがうかがえなかった。想像以上に、ナマエは彼の前だとぴりぴりしている。泉には笑顔を向けるのに、父親にはにこりとも笑わないのだ。
透哉がおもむろにジーンズのポケットから四角い箱を取り出すと、ナマエが更に怪訝そうに彼を睨んだ。彼の手にしている箱には、”Seven Stars”と記されている。
「お客様の前では吸わないルールじゃなかったんですか」
冷めきった声だった。それを意に介す様子もなく、透哉が苛立つナマエの名を、のんびりと口にする。
「一本しかない。買ってきて」
「……本当にひとの話を聞きませんね」
「父親命令。ちなみに、いずみくんはここでおれと仲良くお留守番」
聞き捨てならないことを言われたような気がするが、口を挟める空気でもなかった。透哉と目が合えば、彼はどことなく楽しげに笑う。ナマエは表情こそそのままでも、明らかに先程よりも言葉に混じる棘が強まっていた。
「あなたはひとの話を聞かない上に勝手で横暴だから困ります。お客様の前で恥ずかしくないんですか」
「おまえもね、客の前とは思えない態度だ。横暴で結構。父親ってそういう生き物だから。聞かないなら、紗代に告げ口するけど」
その科白に、ナマエがさっと顔色を変える。ソファの肘掛けに左肘をついた透也は左手の甲に頬を預け、再び意地悪さをまとった微笑みは、まるで彼女を挑発するようだ。娘に向けるものにしては、そこそこ感じが悪い。
「あいつ、実家に戻ってから、おれとおまえが仲良くできてるか毎日気にして連絡してくるよ。おれとしては、妊婦に余計な心配はかけたくない」
「……自分がなにを言っているかおわかりですか? よりによって、紗代さんを人質にするなんて。最低です。ほんとに、さいってい、ひととして」
「いってらっしゃい、ナマエ」
ひらひらと手を振って、早く行けと促す透哉に、ナマエは何も返すことなく席を立つ。この最悪の空間で立ち位置が宙に浮いている泉を見下ろす彼女は、父親を見るときよりもずっと穏やかで、緑色の瞳には不安が膜を張っていた。心底心配そうに、ナマエは一度だけ泉の手を握り、慎重そうな面持ちで。
「いずみさん。このひとに何かされたら、すぐに呼んでくださいね」
「いやなにもしないけど」
この恋人は、本当に自分の父親をなんだと思っているんだろうか。それを言うなら、この父親も、自分の娘をなんだと思っているんだという話だが。泉の記憶が正しければ、紗代とはナマエの血の繋がらない母親で、透哉の最近できた妻だ。彼女は父親は嫌っているが、その母親のことは好いている。母親としてと言うよりも、姉妹のような仲の良さに見えるけれど。今回の透哉と泉の顔合わせも、紗代からの打診があったからこそナマエは泉に話す気になったらしい。
名残惜しそうに応接間を後にするナマエの背中を見送って、彼女の言う通りわりと最低な発言をしていた男を改めて見据えた。発言の内容は酷いのに、こうして見ればどうしても品が良いように映ってしまうのは、彼の一種の才能かもしれない。透哉は煙草の箱を両手で弄んだのち、なぜかそのままポケットにそれを戻した。
「吸わないんですか、残りの一本」
「あいつが言ってたろ。おれは、客の前で煙草は吸わない」
「……はぁ?」
それが真実なら、彼女に煙草を買いに走らせた意味がない。追い出しただけ、とあっけらかんと彼は言った。
「あいつもそれくらいは察してるよ。空気は読める。おれを嫌ってるから、すんなりおれの思い通りに動きたくなくてやかましくはするけど」
彼の科白が示すものは、つまり。
「おれはきみとふたりで話がしたかった、瀬名泉くん」
端からそういうつもりだったのだと気付くのに、随分時間がかかってしまった。元々居心地の悪かった応接間で、彼の目の前という位置が、二人きりという場が、尚更泉を気まずくさせた。相変わらずミョウジ透哉の中身は不透明で、けれどもひとつだけ泉の中で確信できたことがある。
「……あんただいぶ嫌なひとですね」
「よく言われるよ」
ティーカップを傾けながら優雅に嫌味をすんなり受け流すこの男が、泉は苦手で、きっとこの先も好きになれない。