嫌な大人というものを、泉は短い人生で腐るほど見てきた。そういう大人への対処法、己の嫌悪感の隠し方を彼はよく知っているはずなのに、なぜか今はそれが発揮されなくて困っている。彼は、ミョウジ透哉は──”嫌な大人”というよりも、”嫌なやつ”だからかもしれない。
「──面倒なのを引っ掛けたね。きみはあれのどこを気に入ったの」
「は?」
 ナマエがいなくなってから何気なく零された言葉に、泉は己の耳を疑った。疑った、というのを態度の前面に押し出してしまったのは失態だったように思う。
「あんたってさぁ……あぁまた、いや、ごめんなさい」
「いいよ、敬語は。気を遣わなくていい。無礼講。宴会じゃなくてお茶会だけど」
 紅茶のおかわりあるから、と付け足して、彼は軽くティーカップを持ち上げた。芸能界に足を踏み入れるのが早かった泉は目上への礼儀やマナーは昔から当然のように身についていて、その経歴上二十以上年齢の離れている初対面の相手に敬語を使わなかったことなどここ数年はほぼない。今日だって、最低限失礼のないように心がけたもつもりだ。が、透哉の振る舞いの端々に対して泉はどうも食えない、あるいは飲み込めないものを感じて、ついには恋人の父親を嫌なやつ呼ばわりにするに至ってしまった。隠しておくべき、決して年上に良い印象を植え付けない自分が表に出てこようとしてしまう。まるで、引きずり出されているようにも、とれる。
「あいつの父親だっていうの、一度忘れたら」
「無茶言わないでくれる? ……ああもう、」
「いいよ。本当はそんなにしおらしい奴じゃないだろ、きみ。おれのことが好きになれないって顔してる。窮屈そうだ」
「……俺は、べつに」
「きみに礼儀なんて欠片も求めちゃいない。ただ、どんなかたちでもきみの本音に興味があるだけ。おれのわがままに、少し付き合って」
 ゆるりと彼の口元が弧を描いて、感情の色の薄い双眸が泉に礼儀を横に置けと強いてくる。見た目に他人を威圧するような迫力はないのに、どうしてこうも拒むという選択肢を選ばせないのか。
 温くなった紅茶で喉を潤してから、再び立ち向かうように泉は唇を引き結び、透哉を見る。本当に、わからない男だ。この男を好きになれなそうにないのも、窮屈なのも間違いない。どう取り繕おうとも、全部見透かされてしまいそうになる。これは単に生きている年数の違いでも、当然富裕層だからという理由でもないはずだ。彼がこうなのは、そういう人間だからだろう。
「……俺は基本的に礼儀が出来ちゃってるからねぇ、本来こういうのは抵抗があるんだけどぉ」
 これまでに面倒な人間と出会う機会が多くあった中で、透哉はその中でも一際面倒くさそうで、気が抜けない。ただし、彼が無礼講だと、真っ直ぐ泉に向けてそう言うならそれはきっと覆されないはずで、そこだけはなんとなく信用してやっても良いような気がした。
「どのみちやりづらいから、ナマエが帰ってくるまでの間だけなら、付き合ってあげる。こうやって喋るとひねくれてるとか生意気とか言われるくらいにはお上品にできないけど、なに言ってもあとで怒ったりしない?」
「当然」
 満足そうな微笑は、ナマエと似て絵になるくらい、どこか浮世離れしたうつくしさがあった。
「その話し方のほうがしっくりくるね、いずみくんは」
 距離感が狂いそうだ。友人に語りかけでもするような気安さ。人に緊張は与えるのに、本人に緊張感はさっぱりないという矛盾。やはり居心地は悪いままだが、相手を恋人の父親として気遣わなくてよくなった分、余裕はできたし相手のペースに巻き込まれるだけではなくなったのは正直助かる。はあとこれ見よがしに詰めていた息をすべて吐き出して、泉はソファの上でいつものように足を組む。リクエスト通り、しおらしくするのは、やめだ。
「それで、結局あんたは俺と会ってどうしたかったわけ」
「たまには父親らしいことをしておこうと思って」
「娘の彼氏を呼び出して品定めなり説教なりするのが父親らしいこと?」
「説教か。いいね、いつかやってみたい」
 つまり、今日の目的はそういうものではないということだ。長い指で自身の顎を辿りながら、透哉は感心したようにふうん、と零す。
「いずみくんは、今日おれに説教や品定めをされると思って来たわけだ。すごいな。おれだったらそんなやつのところ行かない」
「ねえ、馬鹿にしてる?」
「してないよ。真面目だとは思う。かわいい」
「かわ……やっぱり馬鹿にしてる! 仲悪いくせしてそういうとこそっくりなのはなんなの!」
 まるで誰かさんのように泉をかわいいと称する声音はほんの僅か柔らかかった。この男に対する真のやりづらさは、こういうところだろう。棘はないが人を食ったような物言いをして、それでも人懐っこさを思わせる彼特有のペースと空気感が、こちらに本当の意味での不快感までは抱かせない。英智の言う、気難しいひとじゃないけど油断していいひとでもない、は身内外から見た彼への評価として的確だ。おまけに見た目やふとした瞬間に、恋人との血の繋がりが透けて見えるときている。
「おれはね、きみを品定めするつもりはないよ。きみがどういうつもりであれと付き合って、この先どうなっていくかも、興味はないし干渉もしない」
 穏やかな眼差しと似合わない科白。その内容は突き放すようでいて、耳に届く声のトーンは泉を「かわいい」と評したときと似ている。
「ナマエといずみくんがこの先別れる理由が、ナマエ自身にあるならそれでいい。ナマエのほうはきみに入れ込んでるようだけど、きみが遊び飽きて別れるとしても、おれとしては文句はないよ」
「はぁ? ちょっと待って、なんなのそれ? 俺がどういうつもりであいつと付き合ってるかなんて、わざわざ言葉にして他人に話すつもりはないけどさ? 半端に付き合ってるって思われるのも心外なんだけど。よりによって、」
「例え話だよ」
 よりによって、父親にそういう捉え方をされるのは心外だ。泉の言い分に、透哉がくすりとおかしそうに笑った。
「そもそも、あいつが遊ばれてたなら、そこは親として怒るところでしょ? それすら興味ないわけ」
「子どもの喧嘩に口は挟まない。捨てられて傷付いたとしても、男を見る目がなかったあいつが悪い。おれは、あいつが痛い目を見ればいいと思ってる。ひとは身を以て痛い目を見たときに、一番学ぶんだ。そういう教育方針」
「……理屈はわかるけど、そんなの」
「でも、もしきみらが別れる理由が、この家だったら。ありもしないものを負担に感じて、枷になって別れるなら、それはさすがにあいつが可哀想になった。それが、今日おれがきみを呼び出した理由」
「家?」
 透哉は、傍から見れば似たように見えるかも知れないミョウジと、天祥院や朱桜の家とは違うと短く説明した。守るような歴史はないし、会社だって世襲制のつもりはないと彼は言う。何かがナマエに受け継がれることはなく、彼女に背負うべきものもない──もちろん、ナマエとこの先連れ添うことになる相手にも。
 それらを耳に入れながら、泉はやっと透哉の危惧を理解した。ナマエと付き合うことのリスクに、ナマエそのもの以外を彼は含めて欲しくなかったのだろう。泉は彼女と別れる気はないけれど、立場上重たすぎるものは今のところ背負える気がしなかったのも本音で。そういった背景まで見据えて、この男は泉を呼び出している。だとすれば、イメージと実情は随分異なっており、家の主自らの現状の説明は泉の心の底にあった小さな不安の芽を事前に摘んだのと同じだ。
「あんたが何を言いたかったのかは、だいたいわかったし、そういうことなら話せてよかったとは思う。会う前に聞いてた話から印象も変わったかな、良くも悪くもだけど」
「あいつはおれのことをきみに話すんだ」
「普段あんたの話自体は、何かない限りほとんどしない。でもあいつが……ナマエがあんたを嫌いながら、あんたに言われたことで随分苦しんでたのは知ってる」
 どんなに嫌っていても透哉が父親である事実は動かず、彼が語り聞かせた結果主義をナマエは一度受け入れて価値観の照準がそこに合ってしまっている。それを覆すのは容易くはなく、彼女はいまもその価値観に抗いながら、捨てきれずにいた。
 そういう経緯があったから、どうしたって彼女の主観に寄り添ってしまうところが大きく、顔を合わせる前から泉はミョウジ透哉を好きになれそうにない予感があった。彼女を傷付けている──ただそれだけ、それだけがすべてだ。
「プロセスよりも結果が大事で、最後に勝利したほうがえらい。昔、おれはナマエにそう教えた。あれはそれを額面通りに受け取って、きみの言う通り苦しんだらしいね」
「他人事みたいな言い方じゃない?」
「身体を隔てれば、血が繋がっていようが他人だよ」
「……あんたは、ナマエが嫌いなの」
「そう見える?」
 テーブルに落ちかけていた視線が、するりと持ち上がったかと思うと存外優しく泉を貫く。見入ってしまって、彼の問いに答えることを、忘れた。
「おれは自分の経験でしか話ができない。結果を出して勝利を提示すれば周囲を黙らすことができて手っ取り早いっていうのも、単におれの経験則だ。ただ、何があいつの人生における正解かなんて、あいつにしかわからない」
 透哉のことを、”父親”という印象からかけ離れたひとだと思っていた。泉の見てきたどんな父親とも違っていたし、娘への態度も冷静過ぎたから。
「だからナマエは、自分で判断しなくちゃいけない。子どもは親を反面教師にもするもんだし、必要なら、おれみたいな老害の考えをはねのけるくらいはするべきだ。ひとりでできないのなら、誰かの手を借りてでも」
 けれども、彼は確かに”父親”なのだと泉は改めて認識する。彼は彼なりに娘のために、できるだけの方向性を示してやろうとしていたのだと。だいぶ不器用で、我が子を千尋の谷に突き落とすような荒っぽいやり方に近くても。彼女が反抗期真っ只中のような態度を取ってしまうのも、わからないでもないと泉は少し呆れた。こんな方法、伝わりづらすぎる、というか、本音を伝える気がないのだろう。
「俺が言うのもなんだけどさぁ、ひねくれすぎじゃない?」
「そうかな。でも、事実おれのやり方で問題はなかった。あいつの傍には、きみがいただろ。きみの手を借りたから、ナマエは少し変わったみたいだ。だからおれはきみに結構感謝してる、父親として。いずみくんがいてくれてよかった」
「……俺がしてやれたことなんて、たかが知れてるから。父親直々の労いに見合ったことをあいつにしたつもりはない」
「案外謙遜するね。あぁ、でも気負わせたいわけじゃない。あれは面倒な人間で、たぶん重いよ。だから押し付けるつもりもない」
「押し付ける、って」
 まあきみが欲しいのならあげるけど、と気に入りのおもちゃを譲り渡す算段のような軽薄さで、彼は泉に笑いかけながら続けた。いまだって泉とナマエは恋人関係にある。そこから更にあげるとかもらうとか、そういう表現が持ち出されるのは、つまりそれ以上の関係に発展する場合だ。結婚なんて、父親に呼び出されたと知ったときにそういう未来の可能性を頭の片隅で考えた程度である。
 透哉の言う「欲しいのならあげる」は、見方を変えれば欲しいやつにやる、という風にも受け取れた。一応娘想いではあるらしくても、やっぱり雑な父親だ。真実娘の恋人や結婚相手が誰であろうとどうでもいいらしい。いつか泉が彼女を手放すことになっても、彼は何も言わないのだろう。思うところはあっても、口にはしない。それが彼女の判断であるのなら。べつの誰かがナマエの隣に立ったとしても、それを黙って承認するだけで──嫌だ、と泉は喉元まで出かかったそれをなんとか飲み込んだ。透哉が認めても、自分が認められそうにない。彼女の隣に知らない男が並ぶことも、その男が彼女に触れることも。いまも、この先も、ずっと。もしもを想像しようとして、吐き気がするほどぞっとした。考えることすら拒む、自分自身に少し引いた。どうあっても自分は、ミョウジナマエを手放す気がないのだと当たり前のことを自覚する。透哉の言うナマエの”重さ”なんて泉から見たら可愛いもので、相手へ寄せる感情が重たいのは、自分のほうだ。
「なに、ほしくなったって顔してる」
 夫婦になりたい、ではなく、誰にも渡したくない、が正確なのだろう。それを実現させるたったひとつの正当な手段が結婚であるのなら、それも悪くないかもしれないと泉は自分を愉快そうに眺める透哉を見つめ返しつつ、そんな結論をした。今一度未来の自分を思って、確信する。
「……欲しいって、言ったら」
「あげるよ。二言はない。まあ本人は結婚とか、全く考えてないと思うけど」
 口にはせずに同意する。まだ学生という身分であるのも大きいし、ナマエは何も考えていないようで、意外とアイドルと付き合うとはどういうことなのかを、時々泉が物足りなくなるくらいに聞き分けよく弁えている。ふたりの未来の先の不透明さも、重くは受け止めていない。
「いい。いつかその気にさせればいいんでしょ。あんたと先に約束できれば、いまはそれで十分。面倒な過程を一個すっ飛ばせるわけだしね」
「いいね、強気で。悪くない」
 散々失礼な物言いを繰り返したにも関わらず、透哉の泉への評価は高いままだ。
「本当に物好きだと思うよ、いずみくんは。もう一回聞くけど、あれのどこを気に入ったの」
「それ言わなきゃいけない?」
「言えばちゃんと約束する」
「なにそれ、話が違う! 二言は無いんじゃないのっ?」
「ときには男にも二言はあるよ。それで、おれはあれの父親だけど、どうする?」
「呆れた、そんなだから横暴って言われるんでしょ!」
「そうかも」
 悪びれることなく、益々微笑を深めると、どうぞと更に促してくるのだからこの男は本当に性格が悪い。泉は己の性格をひねくれていると自己評価しているが、目の前で泉の反応を楽しむ彼はそんな可愛らしいものじゃない。完全に他人をおもちゃにするタイプだ。まともに相手をすれば馬鹿を見る、はナマエの助言だったと記憶している。その助言を活かそうにも、透哉は自身の立場を存分に活かしてくるので、泉には一人で為す術がなく。
 とてもじゃないが恋人の父親へ向けるものとは思えない物騒な視線で一度睨みつけてから、泉は押し殺した声で呻くように言い投げた。
「…………きれいなところ」
「顔が?」
「顔も。ぜんぶ、俺にとってはきれいなものだから。……だから、俺以外の誰かに汚されるのは我慢ならないの! ほら、言ったよ、これでいいでしょ?!」
「それ、あいつに言った?」
「言うわけないじゃん!」
「そう。じゃあおれときみとの秘密だ」
 満足そうに少し大きな声でそう言って、タイムアップ、と彼は少し前にナマエが出て行った扉を指出した。やがて廊下の方からスリッパで床が擦れる音が聴こえたかと思うと、その扉がゆっくりと開いた。片手にコンビニのビニール袋を持ち、出て行ったときと同じ機嫌の悪そうな表情を貼り付けたナマエが、帰ってくるなり父親に厳しい目を送る。
「おかえり」
「いまなにか秘密がどうとか聞こえましたが?」
「うん、おまえには言えない話」
「どんな話をしたのか詮索はしませんけど、そういうのは最後までわたしに聞こえないところでやってくれませんか? わざとでしょう。あなたといずみさんの間の秘密という響きが不愉快です」
「嫉妬は見苦しい」
「ちょっと煽るのやめてくれない……いややめてください」
「いずみくんがそう言うなら。ああそうだ、言い忘れてた」
 透哉はいま思い出したように、煙草が収まっていたのとは逆のポケットから今度は長方形の薄っぺらいケースを出してくるとその中から一枚の紙を抜き出す。ガラステーブルの上に置かれた紙は、名刺サイズ──というか、名刺そのものだ。透哉に似合わない堅苦しそうなフォントで、彼の名前と会社名や連絡先が記載されている。
「おれに言えなくてナマエに言えることは星の数ほどあるだろうけど。おれができて、ナマエにできないことも星の数ほどあるだろうから。困ったら連絡しておいで」
 彼の”困ったら”、は恐らく色んなパターンを想定していそうだ。透哉の事業を深く知っているわけではないけれど、手広くやっていて夢ノ咲学院にも出資を行っていることは一応頭に留めている。繋がっておいて損はないと判じて名刺を手に取ったものの、恋人の視線が痛い。
「ありがたいけど、その言い方なんとかならなかったんですか」
「こういうひとなんですよ。勝手だし、横暴だし、意地が悪いひとなんです」
「父親ってそういう生き物だから」
 それを耳にするのは本日二度目だ。絶対違う、と泉がつっこみたくなったのを堪えた直後、そうですねと当たり前のように返すナマエに、無意識に目を見張った。天祥院や朱桜や姫宮の家ほど世間一般から外れていなかったとしても、ミョウジの家も大概普通じゃない。末永く付き合っていくのがそういう家なのだと考えたら、少し頭が痛くなった。彼らのややこしい親子喧嘩にも、いつか慣れる日が来ると信じたい。遠い未来の先まで、この恋人と一緒にいるために。

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