振り返れば、大切な時間だった。Knightsのメンバーと、クラスメイトと、大好きな弟と、この恋人と共に過ごした時間は。きっとこの先何が合っても忘れることのない、尊いものとして自分の中に残り輝き続けるのだろう。良いことばかりではなかったけれど、居心地の良い、優しい時間がそこにあった。このままでいられたら幸せなのかもしれず、けれども瀬名泉も彼の周囲も前へ進み変化することを選んだ。その先に待つのが苦しいばかりの困難であろうと。もっと高みへ至るためには、それが自分に必要なことだと信じたからだ。

「フィレンツェへ。そうですか」
 なんて言おうか。どのタイミングで伝えようか。どう伝えるのが、正しいのか。どんな反応をされるのか。様々なことが頭の中を駆け巡って、たった一言を伝えるまでにやけに時間を食った気がする。本当はもっとシンプルに考えるべきだったし、彼女の反応だって、ほら、こんなにもあっさりしているのに。見慣れた綺麗なかたちの横顔は、歪むことはないがにこりともしなかった。
──卒業したら、フィレンツェへ行くことにした。アイドルはしばらくお休みして、あっちでモデルとしてやれるだけのことをやろうと思って。
 何度も通った帰り道で、西日に灼かれながら。努めて何気なさを装い、そう告げた。泉の恋人は、ミョウジナマエはあらゆる面においてまだ読めないところがある。恥ずかしげもなくひとを褒めそやし自身も褒められて慣れているくせに泉が少し距離を詰めると急に余裕を失くしたり、アイドルやモデル業をこなす中で泉が女性に言い寄られることについても関心がないようでいて、独占欲が案外強かったりする。一年近く傍にて、そういう一面をひとつずつ知っていった。それでもまだ、この恋人のことはよくわからない。いまは、何を考えているのだろう。何も考えていないのかもしれない。
「アイドルを辞めるつもりはないよ。一生あっちにいるつもりもない。でも、一ヶ月やそこらで帰って来られそうにもないかな。これまでも会えないことは何度もあったけど、今回はちょっと長いお別れになりそう」
 互いにコンクールや仕事で会えないことは多かったけれど、長くても一ヶ月が最長だし、山を越えればまた三日に一度は顔を合わせる生活に戻る。海外へ行けば、そうはいかない。長期的に離れ離れになる話をするのは、もちろんこれが初めてだった。
 泉は日本から出ると決めたその日から、漠然とした、名状しがたい不安に苛まれている。自信はある。絶対に結果を出すと固く誓っているし、それは揺らがない。揺らがせない。ただし、やはり環境の変化、日本へ残すひとたちのこと、とりわけ恋人のことは、不安の核となって消えてくれなかった。
「そうですか」
 ナマエが横目で泉を一瞥するものの、すぐに興味を失ったように彼を視界から流す。歩行速度は変わらず一定だ。冷静を通り過ぎて一瞬声をかけるのをためらいそうになるくらい冷めた横顔に、段々と腹が立ってきた。こっちはこんなに頭を悩ませているのに。あまり大げさに言うのも格好悪い気がしたので、さらりと流れで伝えはしたが、決して世間話のような気軽に流す話題ではない。
「あのさぁ、さっきからそうですかそうですか、ってなんなのその気持ちのない相槌は。もっとほかに言うことあるでしょ〜?」
「率直に言って、よい選択だと思います。人は現状維持を好みますが、そこに成長はありません。現状からの脱却と挑戦はきっといずみさんの人生を、より良くしてくれます。環境を一新してしまうのは、多少強引ですが一番わかりやすい手段ですね」
 わたしは好きですよ、と彼女はやはり静かに、泉と目を合わせることなくただ物分りのよい言葉を並べて。泉の決定に対し、彼女は感情よりも、理性で感想を述べている。大したことではないと言わんばかりに。泉はそれに売り言葉に買い言葉のように返しかけ、彼女の違和感に喉の奥を震わすのを止めた。あまりにも、静か過ぎると思った。まるですべての感情を押し殺したかのようで、むりやり自然であろうとしているような不自然さ。整然としながら、どこか歪んでいる。
「さみしいの?」
 端的な問いに、ナマエは何も答えない。
「生意気に俺を無視するわけぇ? ちょっと、なんか言いなよ」
 ナマエは、何も答えない。
「ねぇ……ナマエ、止まりな、こっち見て。俺の目、見て」
「いやです」
「はぁ?」
 制服越しに腕を掴んで、彼女の機械のように一定だった歩行を阻んだ。ナマエは顔を見せまいとするように、俯かせている。人通りの少ないアスファルトに伸びたふたつぶんの人影の距離が、近づいた。正面から向かい合うかたちになっても、彼女の表情は確認できない。なんとか顔を上げさせようと伸ばした手に、ナマエの手が力なく絡む。
「いやです。いずみさんの目を見るのはいやです。さみしいって言うのは、もっと、いや、です」
 声が僅かに震えていた。
「……いずみさんが海外へ行ってしまう、のも」
 いやですと続くのかと思ったら、その先は飲み込んだように何も続かなかった。そういう少女なのだと、泉は頭の片隅で最後の最後まで素直になれずわがまますら伝え切れない彼女をどうしようもなく愛しく思った。素直になれないのは、お互いさまだ。
「あんたは肝心なところで本音を飲み込んじゃうよねぇ。……怒ってる? 何も言わずに勝手に決めたこと」
 進路について、なにひとつ相談することはなかった。彼女の意見がどうであれそこに左右される泉ではなく、寧ろ悩んでいることを悟られたくない節があった。見栄を張ったと言えばそうかもしれない。
「怒ることができたら、もっとよかったのでしょうけど。わたしの個人的な感情は、いずみさんを引き止めはしても後押しはしません。そんな自分が嫌になる。だから……相談は、してくれなくてよかったです」
「そう。つまり、ナマエは俺に遠くに行って欲しくなかったんだ?」
「なにを……当たり前じゃないですか」
「そっか」
「いま笑いました?」
「顔上げて確認したら?」
「いやです」
「かわいくなぁい」
 ナマエは、意地でも泉を視界に入れようとしない。顎を持ち上げたようとして拒まれた手を、柔らかで傷ひとつない頬に優しい手つきで重ねてみる。今度は、拒まれなかった。恐る恐る壊れものに触るかのように、ナマエが彼女自身の頬に添えられた手を、指でそっとなぞっていった。泉の爪の先から指を通って、手の甲を白い指が滑る。それが一度手首まで降りてきたかと思うと、少し戻ってやがて彼の手の甲を包み、ぎゅっときつく握り締めた。まるで離したくないとでも言いたげな、らしくなく請うような必死さがそこにうかがえて。
「本当に、よいことだと思うんですよ。嘘じゃありません。応援を、してます。新しい地で、新しい関係と仕事が上手くいくように……少し前から、そう思う練習をしました。いずみさんが日本を出ることは、知ってたんです」
 いずみさんの部屋に資料があるのが見えて、と彼女は申し訳なさそうにそう続けた。部屋に置きっ放しになっていた覚えは、確かにある。
「だからわたしも色々と考えました。これからのことを」
「これからのこと? 卒業まであと一年あるあんたが、何を考えるっていうの」
「いつかいずみさんから直接この話をされたとき、平気でいられたらこのままでも大丈夫かもしれないとも、思ったんですけど。頑張ったんですけど。……その、想定よりも平気じゃなくて。ごめんなさい。だから」
 やっとナマエが、うつむけていた顔をそろりと持ち上げた。泉だけを映し続けるエメラルドの瞳は、零れそうな水気をまとっていても今度は逃げることなく泉から逸らされない。夕焼け色が滲んできらきらするそれを、泉は顔を強張らせて見つめた。この距離でいることが当たり前だった恋人が、急に遠ざかっていくような感覚。口元がゆるまっても眉間は皺をこしらえたままで、つまり彼女は下手な苦笑いをしていた。
「わたしたちの関係は、一度清算したほうがいいと思いませんか」
「……は?」
 関係を清算する、という意味を、泉は正確に受け取れなかった。一体どこをどう清算するつもりなのか。そもそも清算とは、この関係を過去にするということ。
「ごめん、よく聞こえなかった」
「わかりやすく言いますね。恋人関係の解消です。お別れということです」
 だいぶ噛み砕かれた説明は、どう解釈しても逃げ場がない。一から十まで向き合うことが億劫になりそうな彼女からの言葉の数々に、頭痛がしそうだった。
「あのさぁ、ほんっとに馬鹿じゃないの? あんたの思考回路は一体どうなってるわけ? ていうか、俺がそれにはいわかりましたって言ってやるとでも思った? ばっかじゃないの!」
「まあ素直に頷いてもらえるとは思ってませんけど」
 苦笑いを浮かべたまま、ナマエがゆっくりと泉の手を頬から引き離していく。抵抗するのも忘れて、泉はされるがままに手を下ろす。
「フィレンツェは、時差八時間です。飛行機で十時間と少し。ちょっと、遠すぎます」
「だから、なんなの?」
「わかりませんか。なにかあったとき、すぐに会えない距離です。今までも会えない期間はありましたけど、会おうとすればすぐに会える距離でした。それって結構、心強かったんですよね」
 彼女の言っていることは、わかる。長ければ一ヶ月ほど会えない期間もあったけれど、全く寂しくなかったと言えば嘘になるけれど。それでも苦じゃなかったのはどうにかすればいつでも会える距離だったからだ。
「いずみさんはわたしの好きを軽く見ますけど、あなたが思ってるよりわたしはいずみさんが好きですよ。会えないことを思い出してしまったら、きっと耐え難くなるくらいには。いえ、会えないことがつらいと言うよりも、不安なんだと思います。戻ってきてくれるのか、また会えるのか、わからなくなる。なんの保証もない」
 実際、会わないと決めていたときもどちらかの提案で時折帰宅を共にした。会いたいときに会えるというのは、心の片隅で余裕を生んでいたのかもしれない。
「心配して、気にかけて、つらくなる。目に見えます。わたしがそういう話をしたら、いずみさんだって気になるでしょう。いまはお互い別に集中すべきことがあるのに、そういうのは健全じゃありませんよ」
 下ろした手が、離れていこうとする彼女の指を、まだ引き留め続けていた。これを逃してしまったら、終わってしまうような気がしたからだ。
「お互いの存在が縛りになるなら、それは足を引っ張り合うのと同じです。いずみさんのためだけを思って言ってるわけじゃなくて。わたしが、嫌なんです。たぶん、だめなんです」
「……俺は、だめじゃないよ。だめにならない」
「どうか、よく考えてください」
 別れ話とは、こんなに呆気ないものなのだなと泉は思う。あっさりとして、冷たくて、どこか穏やかだ。ナマエは勢いだけでこんなことを言っているわけではなさそうで、彼女なりに数日間考え抜いて出した結論に違いなかった。泉の認識では、ナマエは基本的に己を過大評価も過小評価もしないタイプだ。その彼女が、泉がいないとだめだと結論したのなら、それは本当にそうなのだろう。こちらに執着なんてなさそうに振る舞うナマエは、泉が思うよりずっと、泉を強く求めていたのかもしれず。そういう一端が垣間見えることはあっても、その全貌を彼は知らないままだった。いつだって自分の一方通行で、彼女からの愛が足りない、薄情だと感じることは多々あった。そんな泉でも、これが薄情から来る別れ話ではないことは、はっきりと見えた。
「──ちょっと、考えさせて」
 自分の存在が彼女を縛るのなら。そして彼女を傷付けることしかできなくなってしまうのなら、この関係を継続する意味が見えなくなる。
 ここでどれだけ泉が言葉を尽くして拒んだところで、ナマエの決断を変えることはできそうになかった。自分には、頭を冷やす時間が必要そうだから。
「そうですね。ひとまず、離れる練習でもしましょうか」
 距離を置きたいと、彼女は暗にそう言っていた。これが前へ進むということなら、酷い話があったものだ。泉は鈍りかけている頭でぼんやりとそんなことを考える。ナマエが、この先泉が振り返ったとき、大切だった過去だけの存在になってしまう──新しい一*を踏み出すための変化と言えば聞こえはいいが、これは己が想定したどれよりも、堪えがたそうだ。
 普段のように微笑んだナマエは、気がつくと溢れかけていた涙を拭い去ってなかったことにしていた。再び、普段通りに帰路を進もうとする彼女の指が、今度こそするりと泉の手の中から、離れる。

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