瀬名泉というひとは、頭からつま先まで見上げるほどにうつくしいひとだ。持って生まれた才能に驕らず、それを活かすために努力を重ねる在り方はミョウジナマエにとって得難い尊さを持つ理想で、眩しいくらいに輝く一生の憧れだった。彼女は、彼のように在りたかった。自分の為すべきこと、向くべき方向を間違えず、目標とした場所を目指すことに躊躇わないひとで在りたい。例え結果がどうであれ、目指したもののために費やした時間と過程を無駄だと判じたくはない。泉がひたむきに己を磨く姿を、自分はうつくしいと思うことができたから。
 成長し、変わっていく恋人を、己の理想をナマエは一年近く間近で見てきた。泉が見据えるのは高みで、彼なら必ずそこへ行けるとそう信じた。同時に、離れていくであろう彼を笑顔で受け入れられない自分が酷く矮小に思えて。遠く離れてしまったら、戻ってこないという不安に押し潰されそうになる。足枷になりたくなった。きれいなその姿を、悲しく歪ませ汚すようなことはしたくなかった。けれどもこのままでも、いられない。その情けなさは、惨めさは、彼女にしかわからないものだ。

 日付が変わったばかりの屋上の冷え込み方は、三月に入ったと言えどもほぼ冬同然だ。昼間はまだ太陽の日差しもあり春の訪れを感じさせる暖かさがあるのに、夜はまるで嘘のように気温はひたすらに下降する。やや強い冷たさを伴って吹き付ける風は、そこに滞在する人間に優しくなかった。あと一時間もここで風に晒され続ければ、体調を崩してしまいそうだ。なんにせよ、ナマエは一時間でも二時間でも、待ち人が来るまでここを動くつもりはなかったが。本当に来るかどうかは、知らない。花壇の向こう側にまばらに点在する家やビルの光たちを見つめながら、立ち並ぶ外灯に照らされて、彼女はずっと待っている。
 こんなに夜遅くまで外に出る機会は、普段なら年末年始くらいのものだった。今は年が明けてもう三ヶ月経った頃だ。今日、三月十四日は世間一般で言うところのホワイトデーだけれど、ナマエの恋人が属する夢ノ咲学院アイドル科にとっては返礼祭というもっと大きな意味を持つ日である。返礼祭──イベントのテーマはホワイトデーではあれども、その主役は次世代を担う在校生たちだ。実質世代交代が行われる日で、卒業ライブに近い。その返礼祭に、ナマエは恋人のこの学院において最後かもしれない晴れ姿を見に来た。
 所謂別れ話をして距離を置こうと提案してからは、泉と一度も顔を合わせてはいなかった。連絡自体もほぼ取ることはなかったが、昨日”明日本番が終わったら屋上で待ってて”とだけ記されたメッセージをスマートフォンを介して受け取ったので、彼女はこうしてここへ来た。今日二人きりで会える場所を選ぼうとしたら、どうしたってこういうところになる。返礼祭はショコラフェスよりもタイムスケジュールがタイトで、出番が始まる前も終わった後も抜け出しにくいらしい。本番終わりのスタジオはKnightsが集まるし、校舎内だっていつもより人が多く、音楽室のような場所は電気がついているだけで不審がられる。立場上アイドル科校舎へのある程度の出入りは許されているとは言え、好き勝手して迷惑をかけるつもりはない。打ち上げのことまで考えれば、帰宅のタイミングを合わせるのも困難そうだった。
 泉はどうしても今日話がしたかったのだとナマエはおおよそ察している。彼女も、同じだった。だから、Knightsの出番前に送られてきた”遅くなりそうだから先に帰っていいよ”というメッセージに、ナマエは断りの返事をした。返礼祭はこれまでにないくらい時間を押しての終了を迎えていたから泉は気を遣ったのだろうが、ナマエは彼に会わずに帰る気なんて更々なかった。自分からのメッセージを泉が見たのか、いつ見ることになるのか、彼女はわからない。スマートフォンが制服のスカートのポケット内で何度か振動していたけれど、彼女は屋上に来てからそれに触れようともしなかった。”今日はやっぱり会えない”とのメッセージが届いているかもしれないことを思うと、確かめる気になれなかった。今日ここで会いたいと望むことを、最後のわがままにしたかった。
 チェックのタイルの上を通って、芝生が敷かれたスペースによく手入れのされたローファーで足を踏み入れた。瞬く星が散りばめられた夜空を、恋い焦がれるように仰ぎ見る。天高く浮かぶ月は見事な半月型の、上弦の月だ。月は、世界中どこにいても満ち欠けがほぼ変わらないという。そういうものを見ながら、感傷に浸る日が近い将来訪れるのかもしれない。つい唇の隙間から漏れた白い息が、宙にさらりと溶けていく。なんとなく、さみしくなった。このままひとりで朝を迎えるほうが良いような気がしてくるくらいには。
「────」
 結局、そうはならないようだけれど。校舎の中へ続く扉の方から、物音がした。扉の開け方も、続く足音も、お世辞にも優雅とは言い難く、ばたばたと騒がしいほどた。わざわざ振り返らなくとも音の主は明らかで、ナマエは苦笑いを浮かべてしまう。「ナマエ!」と名前を呼ぶ声は荒っぽいもので、彼が慌てているのは明白だ。
「ちょっと、あんたなんで電話に出ないわけぇ?! こんな時間の屋上なんて寒いし中で待ってろってメールしたけど返事はないし、電話かけても繋がらないしさ……まったく、この忙しいときに余計な心配かけないでよねぇ!」
「帰ったと思いました?」
「まさか。あんたが断りもなしに俺を置いて帰るわけないでしょ? わかってたから、心配したの!」
「……あはは、そうですね。すみませんでした。さすがいずみさん」
「はぁ? 笑い事じゃないんだけどぉ?」
 苛立った声音すら心地良かった。この声を耳と頭によく刻み込んでおきたくなったのは、近い将来と言わずに既に感傷浸っているからかもしれなかった。
 泉がここへ来ない可能性を疑った、自分を少し恥じる。一方で彼は自分を、ミョウジナマエを疑わなかった。一年分生きた年数が違いのようなものが、こういうところでよく明確になる。普段はそうでもないくせに、肝心な部分で、ナマエは彼に勝てた試しがない。後ろめたさで、なかなか振り向けなかった。
「この寒空でそんな薄着で、信じらんない。風邪引いたらどうするわけ?」
「風邪引いて困るのはわたしだけですし」
「……そういう薄情なところ、ほんっとむかつくからいい加減直したら。てか、ちゃんとこっち向きなよ。ひとと話すときは相手の顔を見ないと失礼でしょ。そんな当たり前の礼儀も寒さで忘れちゃった?」
「いえ、失礼しました」
 文句を挟みつつもこちらへと近付いてくる気配を感じながら、ナマエは後ろに回した両手を腰の近くで組んだまま、ゆっくりと身体の向きを変えた。そうして視界の中央に据えた恋人の格好に、彼女は緑の瞳をまるくする。
「いずみさん、衣装……着替えて来なかったんですか」
「誰かさんと連絡がつかなかったからねぇ、着替えどころじゃなかったの。ねえ、誰かさん?」
 目の前で存外優しく笑った泉は、ナマエが先程ステージで見た、あのときの衣装を纏っていた。Knightsの衣装はどのようなイベントにおいても騎士というモチーフから大きくは逸れず、布面積と装飾が多いわりに仕上がりはかっちりとして緩みがない。そういった部分はそのままに、返礼祭の衣装は最後に相応しくこれまでで一番圧倒されるほどにきらびやかで、イギリスの騎士の正装を連想させた。上品だけれども誰にも負けない、立派な騎士として、Knightsは返礼祭のステージに立っていた。舞台上で輝く姿をすぐに思い返せてしまって、ナマエは直視するのをためらう。
 返礼祭の後半戦、Knightsのステージはもちろん観客を魅せる時間が大半ではあったけれど、”返礼祭”という場らしい、特別な時間が設けられていた。次の”王さま”を任命する時間と──じきに日本を離れる瀬名泉が、残される後輩たちに感謝を伝える時間だ。
「しっかりしてるように見えて変に無頓着で、時々どうしようもない奴になるよねぇ、あんたって。ちょっと目ぇ離すとすーぐわけがわからない方向に行っちゃうし」
 ナマエが後半の科白の意味を汲み取れずに首を傾げていると、おもむろに衣装の留め具を外し上着だけ脱いだ泉が、向かい合ったかたちのままナマエの背中に腕を回しながらその上着を彼女の肩にかけた。マントごと両肩にずしりとした重みがのしかかってくる。
「……結構重いんですね、これ」
「貸してやってんだから、素直に感謝しな。風邪引くよりずっと良いでしょ」
「いずみさんが寒いでしょう……と言うのは無粋ですね。ありがとうございます」
 泉を見上げるのは、少し怖かった。嫌でも脳裏に蘇る、後輩たちに感謝を述べていく泉の穏やかさ。これで終いなのだと見せつけられているようで、目を逸らさないでいるだけで精一杯だった。ああいう場にならないと、次がないような場でないと彼は本音を話せない。つまり、彼が本音を話せるあの場は、本当に最後だということだ。彼らがそう言わずとも、Knightsが最後ではなくとも、ナマエにとってはそうなのだ。終わりに向かうステージを見ていることしかできないのは、酷く胸の奥を軋ませた。でも、見なければ一生の後悔になることもわかっていた。泉がぜんぶを出し切って観客に理想を見せたステージは、ため息が出るほど優雅で所作のすべてが麗しく、ナマエもまたそこに己の理想を見た。このひとを好きになってよかったと嬉しくなると同時、終わりを受け入れられないことに自己嫌悪する。見たくない、なんて。彼の前に立っていたくないと、一歩下がった。
「ナマエ」
 小さく後ずさったナマエを逃すまいとするように、泉が彼女の腕をやや強めに掴んだ。痛みはないけれど、簡単に振り払えそうにもない強さだ。
「ちゃんと聞いて」
「……いずみさん」
「話をするために俺はここへ来たし、あんただってそのために俺を待ってたんでしょ。今更逃げるなんて許さないから。絶対に、聞いてもらう。聞くまで帰さないよ」
「顔が怖いですよ」
「誰がこんな顔にさせてると思ってるわけ」
「わたしですね、たぶん?」
「もっと自信持ったら」
 いつも泉を困らせて、怒らせてばかりだ。そんな記憶がひとつずつ湧き出る度に、泣きそうになる。Knightsは区切りをつけた。次は、自分たちの番だった。ナマエの視線がふいと宙に逸らされかけたのに気付いたらしい泉が、「閉じててもいいよ」と呆れ気味にそう呟いた。
「目、逸らされるよりましだから」
「あの」
「閉じてて」
 最早見るなと言わんばかりだ。言われた通りに瞼を下ろせば、泉が満足そうに口の端を上げる気配があった。
「あんたにもね、これでもそこそこ感謝してるから。一度しか言わないから、聞き逃さないでよ」
 あのステージが再現されているような、空気感。優しくて、寂しくて、別れがすぐそこまで迫る感覚は、どうしたって逃げたくなる。瞼の裏に、あのKnightsのためだけに用意された豪奢な舞台が広がった。玉座のような造りは、王様と騎士が舞うのに似つかわしい場だ。
「──ミョウジナマエさん」
「……はい」
 ブレザー越しに腕を掴んでいた泉の右手がするすると下りてきて、今度はナマエの左手を捕らえた。泉の手が温かい、と言うよりは自分の手が冷たいのだろう。彼女の指を温めようとするかのように、彼はその指先を握り込んだ。
「あんたは最初に会ったときから信じられないくらい生意気だったけど……まあ今でも生意気なところは変わってないか。先輩の俺をすぐからかおうとするし、聞き分けが良いふりが上手いし、なに考えてんのかわからない。正直たまにほんとに俺のこと好きなのかもわかんなくなる。いつまで経っても愛が足りない。思えば、俺もとんだクソガキに捕まっちゃったもんだよねぇ?」
「これ感謝じゃなくて悪口ですね?」
「そうだよ、大人しく聞いてて。聞くことがあんたの義務なんだから」
「いつの間に義務に……」
 内容は悪口ではあれども、泉の声音はどこまでも柔和で、そこに刺々しさはない。まるで困った子どもを諭すようだ。息を吐く、音がする。その息の色は真っ白なのだろう。
「墓まで持って行こうと思ったことを、ちょっとだけ言うよ。……あんたは俺をよく綺麗だとか言ってやたら褒めるけどさ、俺はナマエに同じことを思ってた。きっとあんた以上に」
「わたしはいずみさんのほうが、ずっと綺麗だと思いますけど」
「……空気読んでよねぇ」
 だって、本当にそうなのだから仕方がない。ナマエにとって、瀬名泉とは出会ってから今この時までそういうもので、揺らがない。この先も、そうに違いない。泉との関係が変わろうと、ナマエは泉への認識を改める気はなかった。
「俺はあんたに初めて会ったときに言われたことを、忘れたことない。真っ直ぐで、うつくしいって、そう言われた。俺の立ち姿も、在り方も綺麗だって。真っ直ぐ、なんて初めて言われた。びっくりしちゃった」
「……わたしも、忘れてませんよ」
「忘れたふりしてたくせに。あのとき、ちょっと話せば、あんたがどういう家の人間かはだいたいわかったよ。姿勢と振る舞いは、どうしたって性格や育ちが出るから」
 最初に会ったときのことを、ナマエだって忘れたことはない。ナマエは相手がどういう人間であるのか、見抜く目に自信があった。幼い頃からたくさんの大人に囲まれていたがゆえに、そういうものが気がついたら身についていた。
「俺も、ナマエを綺麗な子だと思った。何不自由なく上流階級の世界で涼しく生きてきて、本当に綺麗なものを知っているひとだとも。それでいて、努力を重ねることを知ってる。知ってたから、あんたも俺が同じだってわかったんでしょ」
 この世界で生きていくための処世術。それだけだったものが、瀬名泉という彼女の理想を見つけ出した。誠実に、ひたむきに自分を磨くことに努めるひとを。そう在りたい、というものを体現していた。己の理想を追い求めて止まず、そのための労力を惜しまない。だからこそ彼はこんなにうつくしいのだとナマエは感心し、焦がれたのだ。
「実態はだいぶ捻くれてはいたけど、俺はそんなあんたに認めてもらえることが、わりと誇らしかったんだよねぇ。お互い戦場は違っても……違うからこそ、俺はあんたを対等に認めてた。恋人だからじゃないよ、これはひとりの人間として」
「……そんなの、買い被りです」
「ナマエのくせになに謙遜なんかしてるの。買い被ってるつもりはない。そう思われるのも心外。俺だってそこそこ人を見る目はある。伊達にあの汚い芸能界でちっちゃい頃から生きてきたわけじゃないし」
 泉の吐息が、やけに近く感じられた。距離感を知りたいけれども、目を開けるのはまだ怖かった。次に彼を目にしてしまったら、また泣いてしまうような気がして。暗闇一面のほうが、強がれるはずだった。
 ナマエは元々人前で涙を見せるほうではないが、ここ一年、時折人前で泣いてしまうときは大抵そこに瀬名泉がいる。泉の前で格好悪いところは見せたくないのに、気付けば弱さが出てしまう。どんな自分でも、導いてくれるような錯覚。決して甘やかしてほしいわけじゃなく、事実として泉はナマエを積極的に甘やかさない。ただ、泉はいつもナマエのために、彼女を想って、迷う彼女の手を引いてきた。不器用で、その優しさは自分本位だけれど。
「あのとき俺を見つけてくれて、認めてくれて──ありがとう、ナマエ」
 泉の右手がナマエの指を持ち上げた直後、柔らかで温かなものが、手の甲に触れる。指の感触ではなかった。泉の、唇だ。それをするのは、いつもナマエのほうだった。からからい半分に、けれどもそこに確かな尊敬の念を込めて。彼は恐らく、その意味を正確に理解している。だめだ、と思う。どんなに固く目を瞑っても、こみ上げるものを堪えきれそうに、ない。
「お嬢さま気質のくせに意地っ張りで負けず嫌い、聞き分けが良いように見えてだいぶわがまま。しかも、薄情。まあ俺もひとのこと言えたクチじゃないんだけどねぇ。だから気が合ったのかもね」
 いつの間にか泉の指が、ナマエの右目の目尻を拭っていた。堪えきれなかった感情が、閉じた瞼の奥からするりと零れ落ちていく。無意識に、重なったままの泉の右手をぐっと握り返す。
「つまり、一緒にいられて楽しかった。普段は食えない奴だけど、案外可愛いところもあったし。そんなあんたが泣いてるときは、必ず俺が助けたかった。ずっと傍に、いてあげたかった」
「……できない、じゃないですか」
「うん、ごめんね」
「じゃあ」
 これでお別れということだ。Knightsは最後じゃなくても、瀬名泉とミョウジナマエはここで終わりを迎える。だって、そうするべきだ。ナマエは、その決断を正しいと心から信じている。冷静になれば、誰でもたどり着く結論だ。泉だって意地になってはいたけれど、彼は馬鹿じゃない。お互い似てると言うのなら、同じ決断になるはずだから。うっかり握ってしまった手を、離すときがきた。込めていた力を抜いて慎重に泉の手から逃げようとすると、なぜか再び捕まった。薬指を摘まれて、そこに冷たく硬い輪っかが通っていく──ここにきて謎の手触りだ。泉の身体のどこかじゃない。
「ごめん。傍にはいられないけど、別れる気もないから」
「……は?」
 想定と真逆の返答に、今まで絶対に開かなかった瞼を思いきり開けると、数分ぶりに泉と視線が交差した。泉が掴んで離さない左手をふと見下ろせば、自分の薬指に小さな青い石の埋め込まれた銀色の指輪がはまっている──指輪? その物体と泉の顔を交互に見やるナマエの顔は、その石のように徐々に青く染まっていった。

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