空のような優しい青色をした石が外灯の光を反射して、ナマエの視界の中で濃い存在感を放っていた。思いもよらぬ事態に、涙はすっかり引っ込んでいる。
「え、なに、これ。本当になんですかこれ?」
「なにって、指輪だけど。見てわからない? それあげるから、外したら許さないよ」
「や、そもそも音楽科は校舎内でアクセサリーなんてつけられませんし……いや、そうじゃなくて。おかしいでしょう、色々とすっ飛んでる。おかしい。絶対おかしい」
「おかしいおかしいって何度も言わないでくれる? 台無し」
 だって、この流れはどう考えても間違っている。泉は自分本位な人間ではあれども、欲望に忠実に生きてるわけではない。冷静な状況判断はできるひとであるし、分別はつく、はずだ。別れ話に、理由の説明は十分行ったつもりだった。ナマエの都合も過分に含んではいたが、離れれば不安になるのは泉だって同じはず。
「いずみさん、わたしの話、真面目によく考えてくれました? 別れたほうがお互い縛りなく、上手く回ります。もし……もしいずみさんが戻ってきたときにまだわたしを好きでいてくれたら、」
「待って。そういうのいいから。あんたが俺のものじゃない時間があるのが嫌なのに、そんなの許容できるわけない」
「え、えぇ……」
 やっとナマエの指を解放した泉は、両腕を組んで、ふんと鼻を鳴らす。彼もまた、自分の決断を正しいと信じているかのように。彼の目に、迷いはなく曇ったようでもなく。指輪にはめ込まれた宝石と似たスカイブルーの瞳は、いつも通り不機嫌そうにナマエを映していた。
「なに、別れても俺以外の彼氏作らないって誓えるの? 言っとくけど、破ったら俺なにするかわからないよぉ?」
「それは一体どんな脅しですか」
 最低限の常識は弁えている、と思っているし信じているけれど弟分への振る舞いを鑑みると、一抹の不安が過ぎった。
「一回別れたら、あんたが俺以外の誰かを隣に置く可能性があるってことでしょ。いつか戻ってくるとしても、一時は誰かのものになるかもしれない。俺以外の誰かに触られて、笑いかける可能性は、この関係を終わらせたらゼロどころの話じゃなくなっちゃうじゃん。俺にそんなの耐えられると思ってる?」
「あ、の」
「俺は心が狭いからねぇ、もちろん耐えるわけないでしょ。そっちのほうが仕事に集中できない。できると思ってたなら、俺の愛を甘く見積もりすぎだから〜。返礼祭で俺がくまくんに言ったこと聞いてなかったの? 俺って重いんだよねぇ」
「……そんなことはとっくに知ってます」
「ならよかった。お互いが縛られるって言うなら、俺はそれでいい。その小物で、縛ってあげる。あんたも、自分も。離れるのが嫌なのは、戻ってくるって保証がないからなんでしょ? 戻ってくるって保証だと思って、その指輪」
 そんなものは屁理屈だろう。そう切り捨てられたらいいのに、その屁理屈をこの恋人は大真面目に語るので、ナマエは拒むことも問い詰めることも一時忘れた。いっそ清々しいほど存分に自分勝手さを発揮している彼のペースに飲まれて、彼女は茫然とその語りに耳を傾けるしかなかった。俺が今更あんたを逃がすわけないから、と彼は得意げに言葉を継いだ。
「俺なりにあんたが言うことも検討はしたよ。一度別れて戻ってきてからもう一回、も考えたけどさぁ、やっぱりどうせ最後には一緒になるなら結果は同じじゃない?」
「はあ……?」
「結果が同じなら、そこまでに無駄な回り道をするなんて馬鹿のすることだよねぇ。あんたは、過程より結果重視でシンプルなほうが好きじゃん。合わせてあげたんだから、感謝してほしいくらい」
「それは……待ってください、そもそも最後にはってなんですか、いずみさんわたしと結婚でもするつもりなんですか?」
「そうだけど?」
「えぇ……っ?!」
 彼女に似合わない間抜けな声が夜の屋上に響く。この付き合いが結婚を前提としていたなんて寝耳に水だった。なぜなら瀬名泉はアイドルで、少しの間モデルに専念するけれども、いずれはまたアイドル業も再開する。アイドルの恋愛は本来歓迎されておらず、結婚なんてもっとそうだろう。この仕事を愛していくと決めている彼が、まさか自分との結婚を考えているなんてナマエは夢にも思っていなかった。
「どのみちあんたは俺じゃないとだめなんだから、つべこべ言わずに俺にしといたらいいでしょ。他にどんな選択肢があるの? この俺が相手で、どこに文句があるわけ?」
「ええと……」
「そこですぐにわたしの負けです、ごめんなさいってできない辺りがほんっとにちょ〜生意気。愛が足りない、そういうとこだよねぇ? 俺と一生一緒にいるつもりなら直してもらうから」
「……結局わたしはなんで怒られてるんですか?」
「俺がこんなに素直になってやってるのに、あんたが素直にならないからでしょ」
 勝手に素直になっておいてそっちも合わせろとはあんまりな言い草だ。ひとつわかるのは、これが彼の自分に対する嘘偽りない本音で、自分と同じく考え抜いて出した結論だということ。泉の視線が薬指の指輪へと落ちて、やや気まずさを残しながら彼は微笑んだ。
「この指輪、買ってみたものの本当に渡すかは今日までこれでも悩んだ。あんたが本当に心底別れたがってるのなら、覚悟決めなきゃいけないでしょ。でも、今日客席泣いてるあんたを見たら、絶対に別れてやらないことに決めた」
「見てたんですか。というか、席」
「そのチケット用意したの俺だから。席なんて把握してるに決まってるじゃん」
 抜け目がない恋人だった。ステージ上からなんとなく目が合ったような気がしたのは、気のせいではなかったらしい。泉の腕が伸びてきて、温かく大きな手がナマエの片頬を包む。もうこの手には、こんな風に触れてもらえないのだと思っていた。今日で全部最後で、自分たちの終わりだと決めて、もしかしてなんて考えもしないようにしていたのに。
「それともなぁに、俺が嫌いになっちゃった?」
「まさか」
「なら、観念しなよ。俺たちは終わりじゃない。これが最後にはしない」
「いずみさん……」
「あんたが呼んだら、すぐに戻って来るから」
「…………」
「まだ別れたい?」
 どうあっても別れる気のない恋人相手に、抵抗する気力なんてとうに失せている。ずるいひとだ。そうやって言われたら、ずっと募っていた不安が、霧散してしまう。半端な気持ちでした別れ話ではなかったのだが、結果的に押し負けてしまった。やはり肝心なところで、勝たせてもらえない。
 ナマエはにこりと笑って見せると、頬に添えられた手の付け根に自身の指を絡めて、彼の手のひらの位置を少しずらす。口元に泉の手のひらを持ってくるなり、そのまま自身の唇に押し当てた。固まる泉を楽しげに上目遣いで確認して、更に目を細める。
「フランツ・グリルパルツァーの有名な台詞では、手のひらへのキスは懇願だそうです。でも、昔は求婚の意味合いもあったそうですよ」
「……口で言いなよ」
「わたしの負けです。ごめんなさい。結婚してください」
「ついでみたいに軽く言わないでよ」
「わたしの恋人……改め婚約者は、本当にわがままで、わたしのことが好きなんですね」
 クソガキ、と暴言を紡いで睨む泉はナマエの頬を包んでいたその手で頬をぎゅうと引っ張ってから、離れていった。彼なりの照れ隠しは、いつも小学生じみていて可愛らしい。婚約者という単語をどうやら気に入ったみたいだった。
 引っ張られた頬をわざとらしくさすってみながら、この一週間くらいを振り返って、ナマエはううんと眉間に皺を寄せて唸る。
「それにしても、わたしひとり深刻になって、無意味に大騒ぎしてなんか馬鹿みたい。恥ずかしい」
「意味はあったでしょ〜? 少なくとも俺にとっては、大事な一日になったよ。Knightsとしても、瀬名泉個人としても。いつかまた、今日を振り返りたくなるくらいにはね。長かった学生時代最後に、たくさん青春をした尊い思い出の日になる」
 夢ノ咲学院の生徒としては、最後の青春。終わりだとか最後だとか、ここ最近は怖くて仕方がなかったけれど。いまはそれが嘘のように、それをすんなりと受け止められている。現金な話だと心中だけで自嘲する。
 これはひとつの区切り。高校生活の終わりは、次の新しい生活の始まりを意味する。来年はナマエも通る道で、恐らくそこに、今年ほどの不安は生まれない。
「わたしにとっても、よい日になりました。来年のこの時期に、きっと今日のことを思い出す。振り返って、いずみさんのことを想います。そのとき、ここにあなたがいなくても」
 そのときはまだ離れていても、いつか自分の元に必ず戻ってきてくれるはずだから。そっと顔を近寄せてきた泉が何をしたいのかなんて、手に取るようにわかった。ナマエは泉が自分に口付けるよりも僅かに早く、自ら彼の唇を塞ぐ。そっと唇を合わせるだけのキスをしてから、双眸を見開く婚約者を改めて、見据えた。この日、この瞬間を、わたしは。
「ご卒業おめでとうございます、瀬名泉先輩」
 忘るる間ぞ無き、ゆく年月。

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