スマートフォンで恋人からの着信を知らせる通知を確認して、泉は目をまるくした。
「──ナマエ?」
 泉がフェレンツェへ移り住んで半月、日本では元々お互い電話なんて頻繁にするほうじゃなかったのに、結局三日に一度はアプリを介して通話している。有り難いことに寂しいと思う暇もないくらいに忙しいし、なぜかヨーロッパを一時拠点として仕事を始めた友人の世話もあるしで本当は時間に余裕があるわけではなかったが、やはり身体の距離が離れているせいか、どうもすぐに恋人の声が聴きたくなってしまって困った。連絡を取るのは、大抵泉の方からだった。ナマエはがらりと変えた環境に適応しようとしながら新しい仕事に奮闘する泉を気遣っているのか、電話どころかメールも寄越さない。まだあんずの方が連絡をしてくるくらいだ。こういうところは、薄情というかなんというか。
 あんたが寂しがってると思って、と泉は押し付けがましく相手のためということにしてナマエに電話をかけているものの、あちらは言わないだけでとっくに彼の真意には気付いているだろう。察した上で「ありがとうございます」などと言ってくるところが憎たらしい。直近だと彼女の誕生日に、日本時間で日付が変わった頃に連絡したのが最後だ。
 ともあれ、ナマエから電話をかけてくるのは、非常に珍しいどころか、フィレンツェへ来て初めてかもしれなかった。まさかなにかあったのかとやや不安も覚えつつ、泉はスマートフォンの画面をタップして、耳元へ持っていく。すぐに泉の名前を呼ぶナマエの涼やかな声が、耳の奥をくすぐった。
『いまお電話大丈夫ですか? まだお仕事残ってます?』
「いや、今日のお仕事はもう終わり」
『お疲れさまです。確か明日はオフでしたっけ』
「そうだけど、それでどうしたの、こんな時間に」
 フィレンツェと東京の時差は約八時間。こちらで昼頃なら、あちらは夕食を食べ終わった時間帯になる。お互い負担にならない時間を選ぶとその辺りが丁度よくなる。しかし、今のフィレンツェは夕方だ。かの有名なヴェッキオ橋が架かるアルノ川は、夕焼け色に染まり始めている。それを横目に、川沿いの通りを歩きながら泉は日本時間を計算した。恐らく、深夜だろう。
「いつもはもう休んでる時間じゃない?」
『ええそうなんですけど、いずみさんが寂しがってると思って』
「はぁ? 寂しがってたのはあんたのほうでしょ〜? そっちからは全然連絡して来なかったくせに、ついに我慢できなくなったみたいだねぇ?」
『そうですね。わたしも結構、我慢弱いのかも』
 すんなり肯定しながら、ナマエがそっと笑ったのが電話越しにわかった。彼女から会いたいと求められるのは、嫌いじゃない。寧ろ好ましい状況なのに、そうなるとこの距離が邪魔臭く思える。
『声が聴きたくなりましたし、会いたくなりました。いずみさんは?』
「俺はべつに? こっちの生活もまあ悪くないし、なにより忙しい」
『やけにつれませんね』
「ていうか、会いたい、なんて俺が気軽に言ったら、あんた即日来ちゃいそうじゃん。そんなの困るから」
『困るんですか』
「……色々とね、あるの」
 まだここへ来て半月だ。彼女が泉の言動を悪いように捉えないことは十分知っているが、会いたいなんてまるで弱音のように思えたし、会いに行くのは自分でありたい、などと口にできるわけもなく。彼女からすればフィレンツェまでの旅行なんて躊躇するものではないのだろうけれど、泉はそうはいかない。時間も、金銭面も。工面するにはまだしばらくかかる。
『いずみさんはお忘れだと思うんですけど、実は日本はエイプリルフールなんですよ。つまり嘘をつく日です』
「なぁに、いきなり」
『嘘をついてみませんか、いずみさんも。わたしに会いたくないというのが本音なら、それで構いませんよ。そこに嘘を挟んでもらえれば』
「……なんの意味があるの?」
『意味なんてそんなの、わたしがいずみさんの会いたいを聴きたいっていうだけですよ。それで十分じゃないですか? かわいい恋人の、かわいいお願いです』
「おねだりの仕方が図々しすぎて、全然可愛くないんだけどぉ」
 泉は呆れつつもいつのまにか弧を描いていた口元を引き締めようとはしなかった。どうせ周りに知り合いはいない。返礼祭が過ぎたあたりから、ナマエは以前よりもやや素直な言葉選びをするようになった気がする。本当に、時折そう感じる程度だけれど、彼女なりに思うところがあったのだろう。好意の伝え方をわかりやすくしようと努めているのかもしれない。だから泉も、少しだけそれを素直に受け取るようにしていた。顔が見えない今、受け渡しのできる互いの感情の情報量には限度がある。顔を合わせれば、その表情や仕草から相手の本音と建前を選り分けることができるけれど、離れていてはそういうわけにもいかない。いちいち言葉を疑っても仕方がないのだ。気持ちを伝える側のナマエと受け取る側の泉がそういうスタンスである一方、逆になると泉はこの状況を利用して、自身の本音を上手く隠そうとしている部分もあるが。
 いいけどさぁ、と短く返して、泉は浅く息を吸う。嘘と名のついた本心を、できるだけ軽薄に、なんでもないように電話の向こう側へ届けるために。
「──俺も、会いたい」
 軽さを意識したつもりだったのに、いざ声にしてみると思ったよりもずっと慎重で、請うような声音になった。失敗だ。まさかやり直させて、なんて言えるわけもなく、泉はじっと黙ってナマエの反応を待つ。ふふ、と彼女が思わずといった風な笑い声をもらした。
『嘘がお上手ですね、いずみさんは』
 これは恐らく、バレている。からかうような物言いに言ってやりたいことは色々あるけれども、泉はぐっと堪えた。ここで反応すればするほど、相手の思うつぼで、自身の先の台詞が嘘じゃないと認めるようなものだ。ここはこの話題を引っ張らないのが正解と判じた。
「それで、本当に今日はどうしたっていうの? あんたは何か用がないと、よりによって夜中に連絡なんてしてこないでしょ。ちゃんと聞いてあげるから、変な前置きしないでさっさと話しなよ」
『ところでいずみさん、今フィレンツェは三月三十一日の夕方でしょう』
「……はぁ?」
 泉の話題転換に、ナマエは乗っからなかった。会話する気がないのかというくらいに、泉の投げかけた科白と繋がらない話を彼女は続けていく。
『どの国も夕方の景色というのは趣がありますね。前に、夕方のアルノ川が綺麗という話をしたのは覚えてます?』
 泉が出国する前の話だ。アルノ川は取り立てて綺麗な川ではないけれど、派手すぎない色合いの街並みとなんだか妙に合っている。そして夕暮れが川と街と橋を染める時間帯は、日本とは違うノスタルジックさのある光景を拝むことができるのだと。ぜひ見て欲しいと語られたことは、ここを通る度に過ぎる。
『いずみさんの位置からだと、少し振り返れば丁度ヴェッキオ橋がよく見えると思いますけど。もう少しグラツィエ橋のほうに進めば、大聖堂も見えてきます。ここが、わたしの好きな景色です』
「確かにそうだけど……」
 言いながら、自然と足が止まっていた。彼女の話す通り、今はヴェッキオ橋の前を通り過ぎ、ヴェッキオ橋とグラツィエ橋との中間付近に彼は留まっている。建物から溢れる光に存在感が出てくる時間。その光が線を描いて、アルノ川に並ぶ様はああ確かに悪くないといつも思う。この半月で見慣れた風景となりつつある橋に感慨を覚えることはなくなったが、それはいつも泉の目を引いた。これが彼女の好きな景色なのだと、一緒に見たわけでもないのになんとなしに思い返していたから。それをなぜ、今彼女が見ているかのように言うのか。
「……まさか」
 逸る気持ちをなんとか落ち着かせながら、泉はスマートフォンを耳に当てたまま周囲を視線だけでゆっくりと見回す。さすがに観光客が多いが、彼女がもし本当にここにいたのなら、視界に入れば見逃さない自信があった。いや、ただからわかれているだけだろうとは思うのだけれど。性懲りもなく、右耳に当てた電話の向こう側の愉快そうなナマエの声を、左耳でも探した。
『そういえば、わたしが呼べばすぐ戻ってくるといずみさんは言いましたけど、それはわたしも同じです。いずみさんが会いたいと言えば、すぐに会いに行きたくなる』
「ちょっと待って、今日はエイプリルフールでしょ? 俺のさっきのあれは嘘だからねぇ?」
 そんなわけがない。まだ空港で別れを告げてから半月だ。まだぎりぎり春休みとは言え、こんなタイミングで来るわけがない。そう自分に言い聞かせながら、泉は彼女の言葉を遮って。
「あんたはまたそうやって自分に都合よく解釈しちゃってるけどさぁ、俺はそっちの日本時間に合わせてあげただけだから」
「あら、ここフェレンツェは三月三十一日ですよ。あなたもわたしも、まだ三月三十一日にいます」
 ついに左耳が、先程まで右耳でしか受け取れなかった声を拾った。声の位置は背後からだ。泉が振り返る前に、アスファルトで舗装された道の上を、ヒールが擦れる音がした。泉は一度目を閉じると、驚き半分、呆れ半分といった感情を綯い交ぜにしたため息を逃がす。今後を思えば、ここで手放しに喜ぶのは良くないような気もする。どうしようもない恋人だ。正確には婚約者だが、ともあれ。努めて時間をかけて瞼を上げると、泉の視界に入る位置まで回り込んできたナマエとすぐに目が合った。夕陽の光が注ぐ中に佇む彼女はいつかの帰り道を思わせつつも、異国の風景と私服姿が下校中とは異なり彼女を一層大人びても見せた。酷く懐かしいもののような、新鮮なものであるような。色々考えたもののいざ恋人の姿を捉えてしまったら、身体中に安堵が広がっていくようだ。どうしたって、"嬉しい"がまとわりつく。
「……嘘でしょ」
「エイプリルフールには少し早いです。お久しぶりです、いずみさん」
 ナマエは、彼女が好きだと言った夕焼けのアルノ川を背景に、これ以上なく楽しそうに顔を綻ばせていた。薄手のジャケットの下はニットとフレアスカートで、半月前に見たときよりもやや春らしい格好だ。さっさと通話を切ったスマートフォンをショルダーバッグに仕舞いながら、彼女は更に笑みを深めた。それを見てやっと、泉も電話を切ることを思い出した。
「あんたさぁ……ああもう、なんて言ってやればいいのかわかんない。そもそもなんでエイプリルフールだなんて嘘ついたの?」
「わたしは嘘なんてついてませんよ。エイプリルフールの話をしただけで」
「……そうだよねぇ、あんたってそういう奴だった」
「なんて、屁理屈が過ぎますね。理由はさっき話した通り、いずみさんからの会いたいが聴きたかっただけです。いけませんか?」
 その訊き方は、ずるい。肯定してやるのは癪だけれども、否定もしたくなかった。どんな表情を作るべきかすら、迷う。というか、油断した顔で電話していたのも本人に見られていたとしたら、かなり情けない。プライドや意地が喜びの声を恋人に伝える邪魔をする。悶々として考え込み始めた泉に、ナマエは見ててください、と優しく告げて一歩分彼に近付いた。
「いまから、いずみさんの真似をします」
「は?」
 それは何の前触れもなく。その場で両腕を広げたナマエを、泉は訝しそうに見つめた。これのどこが一体自分の真似なのか──否、なにか既視感がある。似たようなことを、確かに以前にも行ったような。にこにこしたまま、彼女はそろりと唇を開く。
「おいで、いずみ」
 言いたいことはたくさんあり、泉の高すぎるプライドは彼の本音を有耶無耶にしていたけれど。自分の悩みが急にちっぽけに感じられて、全部一旦どうでもよくなってしまいそうになるから困る。なんだかんだと理由をつけて、嘘をついて、隠すための建前が、本人を前にするとこんなにも容易く意味を為さなくなるとは。例えばエイプリルフールだとか、どんなフィルターを通したところで、その奥にあるものまで変わるわけじゃない。つまり意地を張っても、仕方がないと思い知ったので。
「…………ばか」
 さしあたって泉が今すべきことは、目の前の恋人を力いっぱい抱き寄せることだった。

BACK/TOP