「レッスン室は三階の奥。順番に覗いて行ったらどっかにいるんじゃない?」
「……本当に行ってもいいわけ。ミョウジはそういうの、要らなそうに見えたけど。押しかけたら迷惑になるんじゃないの」
「セッちゃんのくせに押しかけが迷惑とか考えてる〜。常習犯なのに変なの」
「うるさいなぁ、俺は少なくともくまくんよりは空気読めるんだからねぇ」
「そうだっけ?」
「は?」
「え?」
 そんな腑に落ちないやりとりを繰り返したのち。こちらの練習に付き合わせたからだとか、凛月の頼みだからだとか、適当な理由をたくさんくっつけて、やっと泉はナマエの帰りを待つという結論に至った。彼女の練習が終わるのは二時間後で、彼女を送るということはその間手持ち無沙汰になるということ。体調や肌のことを考えれば、早く帰って寝てしまいたいところだ。あの生意気で薄情な女は、そんな瀬名泉の人生における貴重な二時間を無為に消化させようとしている。いや頼まれたわけではないが。あんな女にここまでしてやる義理はないと、己の結論に反発する声も内には存在しているのだ。けれども。
「……ちょ〜うざい、けど」
 白状すれば、このまま帰れば心残りなると確信があった。彼女の帰り道よりも、もっと気になることがある。杞憂であるなら構わない。ただ少し、確かめたいだけ。
 ナマエの賢いとは言えないスケジュールの組み方も、司曰くいつもなんでも"完璧"というその在り方も、それを讃える彼へのナマエの態度も。なんだか引っかかって仕方ないのだ。見目にも生まれにも恵まれた、要領がよく世渡りの上手そうな少女。なんでも卒なくこなすような人間はそこそこいるが、欠けたところのない完璧な人間なんてこの世にはいないと瀬名泉は思っている。凛月の言う通り、彼女には隠し事が多そうだ。そういうものを明かしてもらえる関係ではないけれど、その一端くらいは掴んでやりたくなった。自分は、彼女のことを何も知らない。多かれ少なかれ知っていそうな凛月と違って。
 振られた、とその凛月は言う。婚約者がいればそりゃそうだろうと泉は考えたが、そこから続けられた凛月の振られた理由は「好きな人がいるんだってさ」という案外俗っぽいものだ。ああそうなのかと、ほんの少し心臓を柔らかく押し込まれたような落胆は、気のせいに違いない。そもそもあの女には婚約者がいるわけだし、好きな相手なんて全く興味はないつもりなのでそれ以上つっこみはしなかったが、内心意外ではあったし、だからなんだとも思った。人生で出会った中で五本の指に入る程度には信用されているというその立ち位置は、振られていたとしても早々得られるものじゃない。それは彼女に肯定されているということ。決して羨ましいわけじゃない。
「やっぱりむかつくんだよねぇ、好き勝手言って忘れてるなんてさぁ。あの薄情女」
 ナマエは一年前、瀬名泉を綺麗だと評した。まるでいつかの誰かみたいに、目を輝かせて。彼女が最初にそう感じたのは、その立ち姿だったらしい。人から見られることを意識したうつくしい立ち方、歩き方は彼にとって人生の、努力の一部だ。バレエで得たスキルをモデルで更に伸ばして、活かしたその結果。両親から与えられた整った容姿も、武器の一つとして磨いた。自分のそれには価値があるから、価値を保つために常に綺麗であらねばらないと念頭に置いて日々を過ごした。与えられたものを与えられるままにゆるゆると受け入れて、なんとなくでここまで来たのではない。頭から爪先まで、すべて瀬名泉が自分でスタンスを確定させ、理想に向けて努めたからこそ今がある。だからこそ、そのような生き方まるごと綺麗だと肯定した少女は泉にとって珍しく、同時に本来であればなんだか舞台裏を見られたような気恥ずかしさと気分の悪さが伴うはずなのだが、そうならなかったのは。
──真っ直ぐなんですね。うつくしいひと。整った立ち方ひとつから、そう感じます。すべて誠実に、ひたむきに努めてる。道理で、うつくしいわけです。
 そう確信めいたものを込めて感心する彼女もまた、うつくしかったのだ。姿勢も仕草もその振る舞いひとつひとつに品の良さを感じたし、そしてそれは自然と身につくものだけではないように見えた。バレエを習っていた頃に所謂上流家庭のレッスン仲間をたくさん見てきたからか、普通じゃない家の人間を見分けるのは得意な方だ。その泉の目が、出会って一分で彼女は"そっち側"だと判じていた。きっとたくさんの綺麗なものを見てきた、このうつくしいものに、自分は綺麗なものとして認められている。その事実は、少なからず彼の自尊心を満たした。
 そして、すべて誠実にひたむきに努めている──ナマエが泉にそれを感じ取ったのは、きっと彼女も同じものを知っているからだとも理解した。ナマエもまた、己を研鑽してきたひとりなのかもしれず。そこに甘えや妥協が付け入る余地はなくて。彼女がもしあの時の印象のままの人間であったなら、今の彼女は己に余裕があろうがなかろうが出来る限りを尽くす。ナマエを"完璧"とする司。彼の期待を裏切らずにここまで来たナマエ。そう考えると、凛月がやたらと心配するのも合点がいくのだ。つまり、どう思考しても泉はミョウジナマエという少女の、飄々として先輩をからかってくる生意気な後輩の、本質を確かめたいというところに帰結する。揺るがないのだから、仕方ない。

 音楽科校舎三階の、静まり返った人気のない廊下を、蛍光灯の光を浴びながらゆったりと進んだ。右側には窓越しに暗闇が広がっていて、左側には白く頑丈な扉が並んでいる。個人が利用できる、防音練習室へ続く扉だ。扉が二重構造になっている上に、防音室の床は廊下より少し高い位置にあり、つまり段差になっている。床の高さを変えることで、低音の振動を伝わりにくくして防音性を高めるためだ。そういう点においては、アイドル科の防音練習室よりも金がかかっていると言えるかもしれない。練習室の扉は、その中央を縦長にくり抜いたようにガラスがはめ込まれていた。そこから練習室の現在の使用者が確認できる。泉はさりげなく、順にガラス越しにナマエの姿を探した。一目見ただけでも、皆一様にぴりぴりとした空気を纏って練習に打ち込んでいた。その手前から五番目の扉で、目的の人を発見した。
「ふうん」
 ピアノを弾くナマエを見るのは、初めてだった。泉の位置から眺められるのは、ナマエがピアノを弾く斜め後ろの姿。細い指が迷いなく鍵盤の上を跳ね、滞りなく音を操っているであろう一方で、彼女の横顔は妙に険しそうだ。順調に練習が進んでいる者の顔ではない。眉間に皺を寄せたまま、鍵盤か、その上を滑る己の指か、はたまたその両方を見下ろしている。合同練習の様子だとだいぶ耳が良いようだったし、そういう彼女に同級生や後輩たちは敬うような眼差しを向けていた。それだけの実力はあるのだろうけれど、そんな彼女でも練習には苦しむらしい。
 一つはっきりしたのは、余裕があるからコンクールの時期に重ねてイベントの仕切りを引き受けたわけではないということ。泉にしてみれば、意外でもなんでもないことだ。寧ろ納得がいったくらい。じっと観察していたら、やがて手を止めたナマエが、おもむろに泉の方を振り返った。
「……あ」
 緑色の瞳と、視線が交差した。先程までの険しい表情から一変、良く見る穏やかな笑顔を湛えながらピアノ椅子から離れたナマエは、そのまま泉がいる方まで来るなり、防音扉を開けた。その数秒間で、ここに来た理由の説明と、彼女に拒まれた時の返答の両方を瞬時に頭の中で用意した。用意しなければならなかったことを、今この瞬間まで忘れていた。扉が開くと、今度はガラスに阻まれず、直接目が合う。大きな瞳が、硬い顔の泉を映してゆるく細まる。
「いらっしゃいませ、瀬名先輩」
「……あのさ」
「とりあえず、入りませんか? なんのおもてなしも出来ませんけど」
 そう朗らかに提案するナマエに、瀬名泉を拒む気配はなかった。

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