割合察しのいい瀬名泉の恋人がたまに鈍くなるときは、大体泉が困るときだ。彼女は、ミョウジナマエは自分自身に寄せられる欲には未だにわりと鈍感である。恋人として行うことは一通り済ませた現在、泉を男として見て自分が女として見られていると知って尚、彼女にはそういう節があった。わかってやっているならまだいいが、ナマエは恐らくそうじゃない。彼女のそれはただの隙で、無防備なだけだ。始末に負えない。
「いずみさん、寝ました?」
「……寝てないけど」
 豆電球の頼りない明かりだけが室内を照らす部屋で、どこか楽しそうな声が控えめに転がってきた。和室特有の畳の匂いとまだ少し冷たい布団に包まれて、目を閉じたまま泉はその愛しい声に耳を傾ける。私室を含め普段の生活は洋室で行っていても、こうして和室で過ごすとなんとなしに郷愁のようなものを内に抱くのは、日本人の性質なのかもしれない。
 旅館に宿泊するのは、やや久しぶりだった。最近泊まりがけの遠出と言えば、両親立っての希望で海外で過ごすことが多かったように思う。泉の両親は旅行に完全なる非日常を求めるというのもあるし、わざわざ口にはしないが彼の職業と知名度を考慮すると最善は国外という選択肢に落ち着くのだろう。日本国内での旅行なら、恐らく昨年の修学旅行が最後であったはずだ。あれも宿泊先は旅館ではあったけれども、面子も面子で心休まる時間なんてほとんどなかった。ただただ騒がしかった。そんな感想しか残っていない。
 だから今日、恋人と初めての二人きりでの旅行における宿が旅館であったことは、新鮮さも手伝って有難かった。本来の日本旅館らしい和の静けさと風雅を改めて肌で感じ、楽しむことが今はちゃんとできている。行き先を希望したのはナマエだった。義理の母から株主優待券を頂きまして、とにこにこしながら宿泊券を持って来たときは色々なことを考えたが──結果的に来て正解だったと思えた。そこそこ値の張る露天風呂付きの客室に、恋人と格安で宿泊できる機会など学生の身分だとそうそうないだろうから。
「いずみさん」
「はいはい、なぁに」
 横たわったまま薄く目を開けば、淡いオレンジの光の中で穏やかにこちらを見つめるナマエと目が合った。結わえていない黒髪が、重力に従って彼女の左肩へ向かって流れる。頬にかかる髪を、つい指でよけてやりたくなった。
 暗闇が嫌いなナマエに合わせて豆電球はつけっぱなしだけれど、特に眩しすぎることもない。泉の布団と少し間を開けて並んだ布団の中から泉に話しかけるナマエは、入眠前にしてはどうもテンションが高く見えた。彼女もまた旅行と言えば、父親の仕事の都合もあり海外が大半だったらしいので、理由はそういったものだろう。
「そっちのお布団に行ってもいいですか」
「……はぁ?」
 なんで、と素で訊ねかけた。冷静に思い返してみると。昼間は少し観光して、夕方はやたらと種類が多い海の幸が並んだ夕食を頂き、夜は各々風呂に入って。恋人として触れ合うような時間は、いつもより少なかった。備え付けの露天風呂に一緒に入ろうと提案することもできたが、泉はしなかったしナマエからも特にそういった希望出ないまま。泉としては、あちらの親から彼女を預かっているという認識が強くあった。自分の方が年上なのだから、彼女を安全に家に帰す義務がある。あちらの親に用意されたも同然のこの場所で、不健全を働く気は起きず、そういう気分になるような雰囲気を作ることも最初から意図的に避けていた。その中での、今だ。なんで、ともう一度飲み込んだ。何故なら、ナマエに”そういうつもり”はないからだ。万が一にもそのつもりだったなら、話はもっと早かった。
「ちょっとぉ、まだ良いって言ってないでしょ……」
「でもだめって言いませんよね?」
「……知った風に言わないでくれる?」
「だめって言えたら、戻ってあげますよ」
 ナマエは泉の承諾を得る前に、ごそごそと音を立てて横になった姿勢のまま布団と布団の間を渡って泉の方へと移動してきた。端から拒む気なんて更々なく、だめだなんて言えるわけがない。泉は仕方なしに、少し身体をずらして布団にナマエが入る隙間を作ってやった。掛け布団を持ち上げながら遠慮なくそこに収まったナマエは、泉を見上げてふふ、と嬉しそうに更に笑みを深める。向かい合う泉とナマエの間に存在する隙間は、ほんの僅かだ。あと彼らを隔てるのは、薄い布二枚。豆電球のおかげで、その彼女の表情も姿も視認しやすかった。──しやすすぎた。
「いずみさん、怒ってます?」
「怒ってない」
「眠いですか?」
「おかげさまで目は冴えてるよぉ。なんで?」
「目を閉じたままだから」
「寝ようとしてるんだから当たり前でしょ〜? 夜更かしは美容に悪いからねぇ。あんたも早く寝なよ」
「つれないですね」
 知らぬが仏だ。そんな言葉を内側に吐き捨て、小さく息を吸い、吐いた。瞼を落としても、ナマエの姿が瞼の裏に焼き付いて心臓がうるさい。単純に縮まった距離だけのせいでもなく、その要因はもっと別にある。今の泉と同じさっぱりとした石鹸の匂いと、そしてなにより。
「ごめんなさい、ひとりではしゃいでしまって」
「……べつにいいけど」
 旅館に着いてからの服装は互いに浴衣だった。洋服のように重ね着をしない浴衣はいつもよりどこか無防備で艶やかに映ったけれど、その手の感情はできるだけまとめて頭の片隅に追いやっていた。白地に青い花の散った模様の浴衣は、ナマエを一層上品そうに飾る。案外悪くないとそんな感心を持って、その程度で留まっていたのに。薄く目を開いて、頭痛がしそうになっている。泉の布団に潜り込んだナマエの浴衣は、雑に移動したせいか布団に入る前よりもやや着崩れが目立った。いつの間にか襟の合わせがゆるまって、つまり胸元は不必要に涼しげだ。暗闇の中ならまだ気にならなかっただろうが、生憎豆電球が視界を良好にしてくれている。ナマエと目を合わせれば、防御力の低い柔らかそうな二つの膨らみの境界が嫌でも視界にちらついた。大きく開いた浴衣の間からこちらを惑わすように覗く景色は、目の毒でしかない。この露出の割合からして恐らく下着は着用していなさそうで、そんな思考になったことに、また自己嫌悪。もっとスタイルが良く、際どい服装の女は腐るほど見てきたし、隣に立たせることもあったのに、彼女たちを見て思うことと言えば、モデルとしての評価くらいのものだ。それがナマエ相手ならこうなるのだから、変な性癖を形成してしまったような気さえする。この細い身体は自分のもので、彼女を好きにできる権利が己にあることを思い返して、見えない誘惑に目眩がした。
 ナマエの足がおもむろに動いて、泉の浴衣から出た脛と彼女の膝がぶつかった。彼女の膝が浴衣越しの感触ではなかったことに、泉は静かに息を詰める。そろそろと泉の脛に再度自分の足を擦り寄せたナマエの笑顔に悪戯っぽさはあってもいやらしさはなく、その分質が悪いと思った。意識を逸らすためにまた視覚に集中してみると、泉の好きな綺麗な顔は、こちらを信用しきって隙だらけだ。しっかり保っていたものが少しずつ磨り減っていくのを、感じる。
「自分で思ってたよりも浮かれてしまってるんですよね」
「……だろうねぇ」
 存外低い声音で応じてしまった。本人が自覚している通りの浮かれた声が段々と憎たらしくなってきている。"そういう"旅行にするつもりはない、と再度自分に言い聞かせた。実質親公認、彼女の親の顔なんて見たことはないが、この旅行に出発する前から決めていたことを胸の内で繰り返す──不健全は、しない。はず、だ。
「だって修学旅行みたいじゃないですか、こういうの」
「しゅう……あんたそれ本気で言ってる?」
「えぇ……?」
 思い切り瞼を持ち上げて、目をまるくするナマエの顔を見下ろした。言うに事欠いて修学旅行とは、本当に大したものだと泉は心から呆れた。
 擁護するとすれば、ナマエは家族を除いた友人たちと旅行する機会がこれまでほとんどなかったこと。一緒にいて窮屈じゃない相手と自由に笑って過ごす時間を、彼女は貴重なものと捉えている。それが半日どころじゃなく続くのだから、はしゃいでしまうのも当然だ。そのように理解を示したい一方で、彼女と己の意識の差をまざまざと見せつけられている様に腹が立つ。修学旅行なんてただのクラスメイトたちと騒ぐだけの旅行と同じ括りにしないでほしい。自分は、彼女のクラスメイトじゃなければ、友達でもない。もちろん泉にとっての彼女もそうだ。ただの友人相手に、こんな苛立ち方をすることはない。
「彼氏と旅行に来ておいて修学旅行みたいってばっかじゃない? あんたクラスメイトとこの距離感だったの?」
「ええと、いえさすがに違います、けど。いずみさん、やっぱり怒ってます?」
「そうだねぇ、いま怒った」
「いま……?」
 泉の機嫌の本質を見極めようとするように、困惑気味の色を宿した瞳が上目遣いで泉の様子をうかがってくる。ナマエには一生かけてもわからない。不純な欲を理性で制しながら、彼女が望むならと同じ布団に迎え入れた泉の気持ちなんて。いずみさん、と懲りずに名前を口にしながら、ナマエがまた少し距離を狭める。それが彼女自身を追い詰める行為だと知らずに。泉へと近付いた分だけ、危ういのだと気付かずに。ナマエの細い指が、泉の浴衣の襟をつつ、としおらしくなぞった。機嫌を取るようなその仕草ひとつひとつが、目の前の恋人を煽るのだと彼女はやはりまだ知らない。身体に教えてめちゃくちゃに困らせてやらないと、きっとナマエは気付かない。

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