泉の制服は夢ノ咲学院の生徒であることを示し、緑色のネクタイは三年生であることを表していた。そして、制服の胸ポケット上で存在感を示す赤い花飾りは、彼が今日この学院を卒業した証である。
「毎年卒業式の後は、アイドル科の制服のボタンやネクタイを狙って出待ちが増えるんだって。高く売れるらしいねぇ」
「はあ。売れちゃうんですか」
卒業式の後に呼び出された空き教室で、合流するなり泉が話し始めた内容はそういうものだった。それを大人しく聴きながら、ナマエはこの会話の本質を、泉が自分を呼び出した目的を見極めようと試みる。式の直後なんてクラスメイトで別れを惜しむタイミングだし、数分だけと言われているとはいえ、こうして他学科の人間に時間を割くのはどうなのだろう。と言うか、そもそもこれは何のための時間なのだろう。いずみさん捜索されてないと良いなあと窓の下のグラウンドで写真撮影を行う卒業生たちを見下ろしつつ、そんな不安を抱えて。
「学院を出て家に帰る頃には身ぐるみ剥がされたって奴もいたとか。まあさすがに間抜け過ぎるからガセであって欲しいけど……」
「学ランの第二ボタンじゃなくても人気なんですね。心臓からは遠いのに」
「相手が長い間身につけて生活してたものってところに意味があるんでしょ? なんでそんなこともわからないわけ?」
「なんでちょっと怒ってるんですか」
怒ってない、と返ってきた声音は七割くらい拗ねている。たまに機嫌が下り坂になる起点が読めない人だ。
好いた相手が長く身につけたアイテムに大きな価値を見出す理屈は概ね理解できるが、制服は思い出だ。人の思い出を横取りするような真似は、あまり賛同できそうになかった。好きな相手に自分のものを渡すのなら、話は別だけれど。
「わたしのボタンはあげられませんよ。あと一年待ってください」
「はぁ? なんでそっちにいくの、信じらんない! あんたほんとに俺のこと好きなんだよねぇ?」
「え、好きですけど、ここでそういう話になるんですか?」
「……普通に答えないでよ」
ばつが悪そうに、照れも含みながら泉がすいと目線を外してしまった。目が合わなくなってもナマエはじっと泉の顔を眺め続けて、こっそり唇の端を上げた。怒ったような照れたようなこの愛しい表情を校舎で眺められるのも見納めかと思うと、目に焼き付けておかなければならない気がした。
「なに笑ってるの。むかつく、こんな日までちょ〜生意気」
「こんな日くらいむかつかないでくださいよ。それでわたしは、一体どうしたらお姫さまのお気に召して頂けるんでしょうか」
何気なく泉の手を取って、いつかのように傷一つない手の甲に口づけた。文句が振ってくる気配は、その口づけと同時、撤退してゆく。
「なんでもしますし差し上げますよ、あなたのためなら」
「……あんた、それで俺の機嫌が取れると思ってるでしょ」
「取れませんか?」
「おれはそんな安い男じゃないから」
「わたしのキスだって安くはないつもりですけど」
事実として、これで機嫌はだいたい取れてきたのだが。不機嫌そうな空色が再びナマエを映して細まったかと思うと、泉の手を包んでいたナマエの指はあっさり振り払われた。
「あんたが言ったんだからね。なんでもしてもらうよ」
「あ、でもボタンはだめです」
「うるさいなぁ。あごちょっと上げて」
「あご?」
言われるままに顎をやや持ち上げれば、何故かその少し下に、泉の手が真っ直ぐ伸びてくる。その指の目指した先は彼女の首元をきっちり締めた、深い青色のネクタイだった。
「ええと、いずみさん?」
しゅるしゅると手慣れた様子でナマエのネクタイを外して取り去ったその後に、彼は自分の緑色のネクタイも同じように片手で外し始めた。ネクタイの結び目をぐっと下に引っ張り緩めると、もう片方の手で結び目を完全に解く。その動作を茫然と見上げ、ナマエは首を傾けた。
「あの、ここ教室って知ってます?」
「は? なに変な勘違いしてんの、えっち」
「…………」
恋人の行動が読めずに眉間に皺を寄せるナマエを構うことなく、泉は自分のネクタイを両手に持ち、ナマエのブラウスの襟にかける。
ふと、泉のポケットの中でスマートフォンが震え始めた音が耳に届く。クラスメイトかユニットメンバーからの呼び出しであろうことは推測に容易いが、ナマエが何か言う前に、泉は一旦手にした端末を耳と肩で挟んで通話を始めた。完全に片手間だ。両手はまたナマエの首にかけられた緑色のネクタイに戻る。
「はいはい、わかってるよ、もう行くってば。十五分で戻るって言ってたでしょ、まだ十分じゃん。あと五分くらい待てないのぉ?」
電話の相手はわからないが、泉を待っていることは確かであった。やはり彼はここでこんなことをしている場合ではないはずで、けれども焦るでもなく。外すときと同じ、慣れた手つきでナマエに泉のものであったネクタイを手早く結ぶ。最後に結び目の位置を上げて締めるられると、首周りが詰まった。「またあとで」と端末の向こう側にいるであろう同級生らしき誰かに伝えて、彼は通話を切る。ナマエの首元には、一年間慣れ親しんだ二年生用のネクタイと入れ替わった三年生用のネクタイがあった。
「うん、まあまあかな。汚したら、怒るからね」
「とりあえず、いずみさんって結構説明すっ飛ばしますよね」
「見たらわかるじゃん。ありがたく受け取りな」
「なにがしたいのかはわかりましたし、ありがたく頂くんですけど、わたしのネクタイは……」
「俺もう行くから」
「いずみさん」
ナマエの呼びかけを容赦なく無視し、泉は教室の扉へと方向転換していた。まだ授業は残っている上に、緑のネクタイを付けるにはまだ早い。しかし泉の手元を付近を見回しても、青いネクタイが、ない。彼はためらうことなく、教室を出て行こうとしている。
「そうだ、こっちは俺がもらっといてあげる」
いつの間にか泉のポケットに収まっていたらしいナマエの持ち物であったネクタイを、彼は見せつけるように取り出した。深い青色が、泉の手から溢れて垂れ下がり、彼の移動に合わせてゆらゆらと揺れながら遠ざかる。じゃあね、と言い置いて廊下へと出てしまった泉を追いかけて奪い返すのは、早々に諦めた。これ以上時間を取らせるわけにはいかず、つまり黙って見送るしか選択肢はなかった。このためだけに呼び出したと言うのなら、彼の中に意味はあったのだろう。
残ったのは、自分にはまだ少し早い緑色。三年生である証。一年間、泉が学生生活を共にしたもの。好いた相手の一部を貰い受ける行為に興味がなかったわけではないけれど、まさかこんな形になるとは思いもしなかった。
ナマエはもう一度窓ガラスへと視線をやると、そこにうっすらと映った自分の姿を認めた。首元の緑色、好きな人から受け継いだものを身につけた自分は、まだ見慣れそうにない。