まさか瀬名先輩を派遣してくるとは、とナマエは少し困ったように言った。こういうやり方でくるのは凛月くんらしいなあ、とも。その言い方は、凛月の差し金以外の可能性を思考していないようだ。
ナマエは壁に立てかけられていたパイプ椅子を泉のために持って来ると、ピアノの後方に開き置き、どうぞと座るように促した。泉が鞄を下ろしながら従ったのを確認したのち、彼女もまたピアノ椅子へと戻る。
見慣れない室内を何気なく泉は見渡した。真っ白な壁と天井には、クッションのような材質の大きな防音シートが等間隔で並んで引っ付いている。あれがすべて音を吸収していく仕組みだ。楽器を扱う防音室は、やはり遮音への気合の入れ方が違った。その真ん中にぽつんと置かれたグランドピアノも、きっと値の張るものなのだろう。音楽をやるのには、金がかかる。
ピアノに背を向け、泉と向かい合うように椅子に腰かけるナマエの姿勢は変わらずとても良かった。品の良い笑い方は、最初に出会った瞬間に目にしたものよりも、幾分か温度が低く、良く言えば落ち着いている。外面だけ整えられたようなそれは、確かに綺麗だが、素っ気ない美術品のようだった。
「瀬名先輩が来た理由はおおよそ見当がつきますから、まずはありがとうございます。それで、折角来てもらっておいて申し訳ないお知らせなんですけど、わたしはあと1時間半はここを出られないんです」
「知ってるけど?」
「……ええと、先輩はわたしを家まで送り届けてほしいと、凛月くんに頼まれたんですよね。でも、さすがに21時まで先輩を拘束するのは後輩として心苦しいんですよ」
「だから? 今から帰るとか言うのは却下、俺に帰れって言うのも却下ね。だいたいさぁ、後輩としてって、人を散々からかっといてどの口が言うわけ。ちょっとは後輩らしく先輩の機嫌を取ってから言えって話でしょ〜」
「耳が痛いお話ですね」
泉の即席で用意した主張に、強く反論することもなく、ナマエは口元に指をそえながら、どこか上品な仕草で苦笑した。なんでもないような顔をして、必要な時だけ後輩らしく先輩を気遣う振りをしながら人を追い返そうとしているのがまた生意気で気に障る。
「コンクールの練習なんだってね。そっちの練習時間削って、イベントの練習に参加するなんて馬鹿じゃないの? あんたに優先順位ってもんはないの?」
「コンクールの話……凛月くんにも言ってないはずなんですが」
そこですぐに凛月の名前が挙がることに、小さな苛立ちが重なった。
「くまくんじゃなくて、あんたの後輩。名前は知らない」
「……あぁ、なるほど、そっちでしたか」
弱ったように、眉がそろりと下がっていく。どうやら知られたくないことだったらしい。察するに、隠し事のひとつだったのだろう。無理をしているわけではないと言うのなら、後ろめたいことがないのなら、何も隠さず堂々としていればいいのだ。負担であるのなら、自分に邪魔なものは退ければいい。取捨選択だ。何故そんなに簡単な決断が、彼女には出来ないのか。否、彼女に出来ないわけがない。
「合同練習は、ミョウジがいなくても成立するけど、コンクールはそうはいかないでしょ」
「わたしにとっては、どちらも同じくらい大事なイベントです。クオリティは下げたくないですし」
「まるでミョウジがいないとクオリティが下がるみたいな言い方だよねぇ。それって随分な傲慢じゃない?」
「そうですね。そうかもしれませんが、事実です」
今回のイベントには、ナマエと同学年の音楽科の者も何人も参加している。彼らを全員まとめて、信用していないと言っているのと同じこと。実力があるにしろ、その考え方は他人を侮り過ぎている。泉の言葉を肯定したナマエは、けれども申し訳なさそうでもなく、その言葉を事実として受け止めているようだった。自分は何も間違えていないと訴えるような、強い瞳が泉を捉える。
「楽器のみのアンサンブルだったら、わたしは必要ないと思います。でも、Knightsに合わせた、歌いやすい演奏の指示を出来るのは、わたしだけですから。指揮者も普段指揮を勉強している人間ではありませんし、つまり全体を見る人間が必要なんです」
教師の参加しない合同練習のクオリティコントロールはナマエに一任されており、確かに彼女は必要なのかもしれない。Knightsは声楽科ではなく、アイドル科だ。そういう意味でも、Knightsのメンバーの歌声と演奏のバランスを上手く調整できるとしたら、どちらも知る彼女だけだろう。そして。
「そうでなくとも、アイドル科と音楽科の間の空気をコントロールするのも仕事の内。Knightsには良い環境で練習して頂きます。わたしは先輩たちに依頼した責任者として、義務を果たさなければなりません」
学科同士の関係性を考えると、まともな練習をするには、間を取り持つ人間がいる。ナマエがコンクールを控えていても練習に参加すると決めたのは、音楽科はもちろん、大きくはKnightsのためだ。最大限、彼女はKnightsに礼を尽くそうとしている。
「手は抜かないと言いました。一度決めたことは、やりますよ。完璧に」
それは、結局のところ負担にならないということではないのだが。やらなければならないから、自分しかいないからやる。そういった話になってくる。Knightsに依頼した自分の責任だからと彼女は言うのだろうが、泉から見ればその負担の原因はKnightsだ。
それでも、いやだからこそ、自分たちにだけは気遣われたくないのだろうと泉は思う。人を心配させる自覚があるから、コンクールのことはこちらに伏せていたのだろうし。伏せてでも、やると決めたのだろう。そこに、事情を聞きかじった程度の人間がこれ以上口を挟むのは違う気がした。それに、自分が彼女だったとしても、同じものを抱えていたら全てやり通すと言うに違いない。きっと出来ると、己の能力を信じて。
「……わかった。あんたはあんたで俺たちに結構気ぃ遣ってくれてるわけだし、まあぶっちゃけ助けられてるみたいだしね。俺からは、これ以上口は出さない」
「瀬名先輩」
「でも、ミョウジがこうやって遅くまで残る理由には、やっぱり俺たちが噛んでるのは事実。こっちで時間を取った分帰る時間が遅れるってことなら、送るくらいは素直にさせなよ。これであんたが帰り道になんかあったら、こっちの寝覚めが悪くなっちゃうでしょ」
「いえ、しかし」
「空気読みなよねぇ? ちょっとは先輩を立てるってことを覚える気はないわけ?」
嫌味ったらしい言い回しで、選択肢を狭めていく。多少、私情も入ってはいるけれど。ここで泉の言葉に従っておくのが、恐らくナマエにとって一番気が楽な結果になるのは確定している。
ナマエはううんと唸って、考えるように目を伏せた。数秒の間を置いたのち、彼女は瞼を持ち上げて、軽く頷く。
「わかりました。では、お願いしますね、瀬名先輩」
泉の狙い通りの、ナマエは最も賢い選択をした。司が出てくれば彼女にとってもっと話がややこしくなるだろうし、凛月にしても同じだろう。そこまでわざわざ説明してやらなくとも、彼女なら自力で気付けるはずだと泉は読んだ。
そっとナマエが頭を下げるのを見て、内心慌てたけれど、そういうものをあっさり表に出す瀬名泉ではない。ふんと鼻を鳴らし、腕を組む。
「そうそう、最初からそれくらいしおらしくてくれたら、こっちも楽なんだけどねぇ」
「あら、わたしはいつでもしおらしいじゃないですか」
顔を上げたナマエは、通常運転に戻っていた。生意気そうで、先輩を先輩とも思っていないような、いつもの彼女だ。
「あんたみたいにふてぶてしい女そういないから」
「でも先輩はそういうわたしが好きなんですよね?」
「はぁ? そういうとこだって言ってるんだけど〜? ほんっとに、ちょ〜むかつくったらない。……ていうか、とっとと練習再開しなよ。俺は別に邪魔しに来たわけじゃないんだから。出て行った方がいいならそうするし」
腕時計で時間を確認しながら、ナマエが「いいえ」と微笑んだ。ピアノと向かい合うように座り直した彼女は一度、軽やかに鍵盤を鳴らして。
「良ければ、どうぞ聴いていってください。ひとに聴かせるための練習ですからね、先輩ひとりくらい大丈夫です」
「そういうもんなの? まあどうせ暇だし、仕方ないから聴いていってあげる。退屈させたら帰るから〜」
「仰せのままに、騎士さま」
そんな生意気な軽口と共に、ナマエがピアノの鍵盤の上で指を躍らせ始める。特等席から見る、ピアノを弾くナマエの姿はやはりと言うべきか──うつくしかった。