己の新たな門出に相応しい、快晴の日だった。あと二時間後には乗継地であるパリ行きの飛行機に搭乗し、パリに到着後は乗り換えた飛行機でミラノのマルペンサ空港を目指し、そこから更に四時間かけて最終目的地のフィレンツェへ入る。そのフィレンツェこそが、瀬名泉の新たな活動拠点だ。
 成田空港までは、過保護な両親が当然のように送り届けてくれた。可愛い息子が保安検査場をくぐってその姿が見えなくなるまで見送る心づもりのようで、泉はそんな彼らと共に出国手続き前エリアにある有料ラウンジで短い待機時間を過ごすことになった。正確には、母親と、父親と、自分と──恋人のナマエと、四人で。
「ごめん、無理言って来てもらって」
「いえ、わたしとしてはお礼を言いたいくらいですよ。いずみさんがフィレンツェへ行けば、向こう三年くらいはこんな機会なかったと思います」
 ナマエは、泉の隣を姿勢良く歩きながらそう朗らかに笑った。第一ターミナル内のショッピングエリアを、二人して適当に流し見つつぶらぶらと歩く。スーツ姿のビジネスマンに家族連れに恋人同士、すれ違う人々をたまに横目で見たり見られたりしながら。ナマエが一歩進む度、花柄がプリントされたアシンメトリーのフレアスカートの裾がひらひらと揺れる。Vネックのブラウスと合わせて普段よりもフェミニンさの強い服装は、泉の両親と会うことを意識したゆえに違いない。度の入っていない眼鏡越しに上から下まで眺めて、そんなことを思った。
 二人には取り立てて目的があるわけではなかった。空港利用者のためのレストランにも服屋にもコンビニにも用事はない。単に、泉が彼女を両親の寛ぐラウンジから連れ出したかっただけだ。昼食を取る時間も合わせるともうかれこれ一時間は彼らの相手をさせてしまっていたので。ちょっと買い物に連れてくから、とシンプルな理由付けをしてラウンジを出たのは、五分ほど前のことだった。
「素敵なご両親ですね。優しいし、お母さまはいずみさんに似て美人」
「たまに言われるけど、そんなに似てるかなぁ。まあ娘は父親に似て、息子は母親に似るって言うけど。実際、あんたは父親似だし」
「わたしの話はいいんですよ」
 父親に似ている、は彼女にとって決して褒め言葉ではない。意地悪のつもりで放った科白は見事に彼女の眉間に皺を作る。
「ともあれ、あのひとたちに気に入られたみたいでなにより。端から心配はしてなかったけどねぇ。あんたそういうの得意そうだもんね」
 そもそも、当初は両親に見送りをしてもらうつもりもなかった。しかしそんな泉の気持ちとは裏腹に、心配性な彼らは泉を空港まで送るつもりでしかなく、断るのも面倒で適当に承諾した。日本を発つ前の最後の親孝行だと思って。その後なんとなしにナマエを一度誘ってみたものの、家族水入らずで、と彼女は遠慮して。実際問題こちらの両親がいれば変に気を遣うだろうし、両親が彼女に何を言い出すか読めないこともあり泉はそこで引き下がったのだけれど、話はそこで終わらなかった。その後なぜか泉の両親がやたらナマエに会いたがり始め、結局強引に呼び付ける運びとなったのだ。
 彼らがナマエに会いたがった理由は、泉が推測するに彼女の科白と同じ、”向こう三年はこんな機会がない”──こんなところだろう。両親からは、過度に愛されている自信が泉にはある。そんな二人が息子の恋人を一目見たいと考えるのは、不自然なことではない。いつかは通る道だ。なにもこんなばたつくタイミングでなくとも、とは思うが。
「気に入って頂けたかどうかはわかりませんけど、少なくとも嫌われてはいないようで安心しました。これでも緊張はしてたので」
「あれで緊張してたんだ? そんな風には見えなかったけど。ママとあっさり食事行く約束しちゃったりしてさぁ」
「誘われたら、受けますよ。当然です。好きなひとのお母さまですから」
「……ふうん」
 こういうことを平然と口にする彼女にも、平然と流せずにいる自分にも少しだけ呆れた。一体いつになったら慣れるのだろうか。
 ナマエが両親に気に入られる絵は、正直想像に容易かった。ナマエは大人と接するときに立ち振る舞いを間違えないし、両親は見るからに育ちが良さそうでそれなりの家庭で育った少女を好まないわけがない。我が親ながら、その辺りの嗅ぎ分けは得意で、わかりやすいのだ。家柄を特別重視する人たちではないが、彼らの中にも理想があるのを泉は知っている。両親が思い描くその高望みに近いそれに、幸いナマエは当てはまっていたらしい。要するに親と自分の理想が重なっているということで、そう考えるとあまり笑えないのに、なんだかおかしくなった。
「ほんとは、両親に来てもらうつもりじゃなかったんだけどねぇ。もう子供じゃないんだし」
「今日のお二人を見てると、見送りに来ないという選択肢は無さそうでしたけど」
「……だからこうなってるんでしょ」
「優しいんですね」
「過保護なだけだから」
「いえ、いずみさんが」
 それを許容した泉が優しいのだと、彼女は言いたいらしい。土産屋のディスプレイを追っていた緑色の瞳が、泉の方に傾いた。悪戯っぽく細まる緑を、彼はどことなく照れ臭くなりながら見守る。
「わたしだったら黙って家を出てますよ」
「あんたのところは特殊だから、引き合いに出さないで」
 一般的に仲が悪いとも少し違う複雑さを持つ家庭と比べられてもコメントに困るだけだ。
「結果的に、よかったじゃないですか。わたしはそう思ってます」
「べつに俺もそう思わないわけじゃないけどさ。しばらくお別れだっていうのに、あのひとたちがいたら、なんにもできないでしょ。それが心残り」
「なんにも、とは」
「……ちょっと、それくらい察せないわけ?」
 時々空気と男心の読めない恋人である。ナマエはううんと間延びした声を零しながら、左手の人差し指を唇にあてた。その左手の薬指には、空色の石が嵌る指輪が収まっている。
「例えば、お別れのキスをしてほしいとか、そういうことですか?」
「いちいち訊かないでくれる?」
「大変可愛らしくて結構ですけど、無理ですよね。まず人前ですし」
「……わかってるけど。あんたは全然可愛くない」
 もう少し惜しむとか、ねだるとか、その手のワンアクションがあればまだ可愛げがあったのに、この恋人は人目のある場でそういうものを微塵も見せない。特殊な泉の立場を考慮してという側面もあるにはあるが、元よりこれは人前で隙を見せることを苦手とする彼女の性格だ。泉がアイドルでなかったとしても、何も変わらない。とは言え、こうもあっさりなにもできないと判じられるとそれはそれで面白くないというのが泉の身勝手な本音だった。
「そういうのは、次に会うときまでお預けということで。それまでいい子で待っていてくださいね」
「なんなのその言い方は〜? あんた最近生意気さに磨きがかかってない?」
「いずみさんの真似をしてるだけですよ。たまに子供扱いするでしょう」
「それは、あんたがそうやって生意気なクソガキみたいなこと言うからでしょ。俺はいいけど、あんたはだめ」
「理不尽極まってますねぇ……」
 歳下は歳上の言うことを聞くもんだからねぇ、と彼女の言うところの理不尽を懲りずに口にして、呆れたように口元を緩める彼女の頭を手荒く撫でつける。髪の乱れを気にして泉の手を払おうとするナマエの左手の指が彼の指を握った直後に、泉は彼女の指をぎゅうと握り返した。そのまま、目をまるくする彼女を真っ直ぐ見下ろす。どちらからともなく、前へ進む足が止まった。
「いずみさん? 本当にわかってますよね?」
「はいはい、わかってるから」
 どことなく甘ったるくなりかけた空気を察知したナマエが、気まずそうに、やや警戒も浮かべて釘を刺してきた。それでも、泉の手は彼女の指を解放しない。再度、彼女の薬指に光る指輪が視界をかすめた。返礼祭の日に、他でもない泉が贈った指輪だ。ファッションに寛容なアイドル科と違い、音楽科の服装規定は厳しい。アクセサリーなんて以ての外であり、彼女は学院でこの指輪をつけることはないが、学院以外で顔を合わすとき、彼女が指輪をして来なかった日はない。泉はナマエの薬指を一周するつるりとした金属の表面を丁寧になぞってから、彼女の薬指を改めて人差し指と中指で持ち直した。それを自身の口元まで引き寄せて──先程触れたばかりの、ややひんやりとしたシルバーに今度は唇が重なる。ほぼ同時に、二人の視線も、重なった。互い以外を映さないところは同じだけれども、そこに宿す感情は各々似て非なるものだ。こちらを非難するような険しさを含みながらも白い頬に赤みがのっていることに気付いてしまうと、つい口の締まりが悪くなった。
「……いずみさん」
「なぁに?」
「あなたというひとは、またそういうことをして」
「あんたにだけは言われたくないんだけどぉ? なんで俺のときは怒られなきゃなんないの」
 ナマエだって似たような気障ったらしいことをたまにするくせに、と。反論としてそれは上手く機能しなかったようで、彼女はまだ不満顔のままだ。己の手の中から逃れていく指は、追わなかった。
「わたしはもっと時と場所を……いえ、もういいです、知りません。いずみさんなんてフィレンツェでもパリでも早く行っちゃえばいいんです」
「はあ? そういうこと言う? どうせ俺が日本を出てから泣くくせに、意地張っちゃってさ」
「わたし滅多に泣きませんよ」
「なんで泣かないわけ? 愛が足りないんじゃないの、薄情者」
「…………」
 複雑な男心をナマエは「いずみさんは本当に可愛いひとですね」と溜息を伴いながら雑に片付けてしまった。ふつりとそこで会話の糸が途切れたように、沈黙が落ちる。別れの時間が迫っていることを思えば、日常的だった彼女のとのやりとりの中にも、どうしたって物寂しさが寄り添ってきた。恐らく彼女も、そうなのだろう。
「お別れのキスは、さっきので勘弁しといてあげる。お預けらしいからねぇ、次までいい子で待ってなくちゃ」
「……ええ、そうしてください」
 ゆっくりと歩き出したのも、太腿の横に下ろした手がまた触れ合ってゆるく繋がったのも、どちらが先にそうしようとしたのかは曖昧だ。両親の待つラウンジへと戻る僅かな間だけ、二人は互いの温度を指先だけで控えめに求め合う。その温もりを一秒でも長く、覚えておくために。次に触れられる、そのときまで。



 保安検査場に入るタイミングの目安は、出発の一時間前だ。そのときになって急に母親が涙ぐみ始めたので、泉は彼女を慰めるように優しく抱きしめて、背中をぽんぽんと弱く叩く。日常生活において母親を腕の中に収める場面はなかなかないので意識したことはなかったが、彼女の肩は案外頼りなかった。自身が幼かった頃は手の届かない大人だった母親が、急に小さくなってしまったような錯覚と、時の流れを重く感じた。それは抱き合ったりしない父にしても同じことだ。自分は、ここまで愛し育ててくれたこの人たちの元を離れて、これから新しい地へと赴く。良いことづくめの十八年間ではなかった。両親に対しては、思うところも多々あった。それは、この先もそうだ。良いことも悪いことも、彼らに与えてもらったあらゆるものを抱えて、時に活かし、支えられながら、己が定めた高みへと向かう。そうして成功して戻って来たら、今度はその恩を返すと、そう決めている。二人はきっと、そのときまで待っていてくれるはずだから。愁いを帯びた感情が湧き上がって両目の奥が熱くなりかけたのを、なんとか堪えた。ありがとう、と声に出してみたら、想像以上に余裕がない声音になった。
 そんな光景を一歩引いた位置から見つめるナマエは、どこか眩しそうに微笑んでいた。彼女が別れの抱擁を求めることはもちろんなく、宣言通り親子水入らずを邪魔しない姿勢だ。彼女は寂しげではあっても、泣くような気配はなかった。ただ、泉が母親から離れる瞬間に。何気なく彼女を一瞥した彼の視界が捉えたのは、静かに目を伏せて泉から貰った指輪に瞬くような間だけ口付けるところで。指輪を介した別れのキスは、本人に気付かせるつもりはなかったのかもしれない。彼女は、そういうひとだ。ああでも、そんなものを見せられてしまったら。
「──おいで、ナマエ」
 考えるような間もなく、そう言葉にして、腕を広げていた。今度は両親が微笑ましそうに笑みを深めるのを横目に、彼女の反応を待つ。ナマエはぴたりと一度固まって、次に泉と彼の両親を交互に見やった。やがて眉が情けなく下がり、薄い唇が一文字に結ばれる。きれいな緑色の目が、うっすらと水気をまとって煌めいた。この意地っ張り。
 吸い寄せられるようにおずおずと近付いて来る小さな身体を抱きとめたとき、耳元で「滅多に泣かないんじゃなかったの」とささやいてやった。だって、と彼女らしくない子供めいた声が上がる。腕にしがみつくこの少女もまた自分を待ってくれるひとりであることが、酷く恵まれていることのように思えた。両親に愛され、自分が愛したひとにも、愛されている。言葉と態度の端々にそれを感じ取って、安心を得た。この温かく柔らかい身体から離れたら、今度こそ泉は異国へと旅立たなくてはならないのに、不思議と怖くはなかった。
 そして泉の帰りを待つのは、ここにいる彼らだけじゃないことを、ぼんやりと思う。瞼を下ろせばその裏には、共に学生時代を戦い抜いた同級生や後輩たちの顔が過ぎる。誰も彼もがやかましくしながら関わって来るから、残念ながら自分はひとりじゃない。ひとりではいられない。だからきっとこれからも大丈夫だと、心から胸を張って言えた。新たな土地でも、その先も。彼らがいて、彼女がいるなら。
 再び、泉は瞼を緩慢に開く。身体同士の距離も、開く。現実と夢と目標を見据え、覚悟を明確にして。泣きながら笑う愛しい少女の涙を一滴すくい、彼は日本を後にした。

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