ミョウジナマエの恋人は、最近活動拠点をフィレンツェから日本に戻し、一人暮らしを始めた。過保護な両親は実家に戻ることをすすめていそうだし、金銭的にも生活的にもその方が随分楽だろうに、瀬名泉は家族との同居を選ばなかったのだ。ナマエが理由を訊ねると、一人暮らしの方が都合が良いのだと言う。更に探ってみたものの、最後には「なんだっていいでしょ」とはぐらかされたことは記憶に新しい。
 早い段階で、泉は当然のように合鍵を寄越してきた。ナマエも彼女自身が住むマンションの合鍵は数年前に泉に渡していたので、結果的に合鍵の交換のような現状はやや妙な感覚だ。お互いに、合鍵を持ってはいても許可なく部屋に立ち入ることはほとんどなかった。話し合いでその形に落ち着いたのではなく、自然とそのようになった。相手と自分のプライバシー観にあまり違いがないという点は、長く付き合っていく上で大切だ。価値観の差異を目の当たりにすることは、時折あるけれども。

 ナマエは泉の住むマンションに、あらゆる面において少しずつ慣れてきた。駅からマンションまでの道程で迷うことはなくなったし、この建物そのものに、最初に訪れたときのような落ち着かなさを覚えることはもうない。人様の家ではあるが、友人の家よりもう少し距離感は近く、己の居場所のひとつだという認識がある。
 本日マンションに呼び出してきた泉からは、事前になぜかメールアプリにて"着いたら勝手に入って"と連絡が入っていたので、ナマエは特に疑問もなく彼の指示に従った。Knightsのキーホルダーが繋がった合鍵を使って玄関ドアを開けば、見慣れたはずの玄関、靴の並び──ああ見たことがない靴が増えている。現場で貰ったのかもしれないとそんな推測を流して、何気なく視線を上げるとその奥に。見慣れない小さな黒い毛玉が、転がっていた。
「…………?」
 この部屋の主はそこそこ潔癖のはずで、こんな大きな毛玉を見逃すほど彼の綺麗好きは半端ではなかったはずだ。手のひらに乗りそうなくらいに小さな、けれどもただの糸の塊にしては大きすぎる毛玉が、もぞもぞと動く。瞬間に、ひ、とナマエは声を上げながら、心臓の位置が上がったような錯覚に侵された。肩に重みをかけるショルダーバッグのストラップを右手で強く握るその行為に、自覚はない。一体なんだろうこれは。いや、全く知らないフォルムではないけど。
 ぱたんと、静かに扉が閉まる音を背にしつつ。ひとまず正体を確かめなければ心臓が大人しくしてくれそうになく、恐る恐る姿勢を低くして目をこらした。不意に、毛玉がにゅっと細く伸び、突然現れた緑色の石のような透明感のある目が、じっとナマエを映す。細長い瞳孔がちらちらと動くと、その動きと目線につい怯んで、身体が勝手に後ずさりかけた。
 一旦冷静になることが最優先だと、彼女の動揺で回りきらない頭はそう結論したらしい。目を伏せ、ナマエは目の前の物体のことを思う。ここは瀬名泉の部屋だ。その合鍵で入ったのだから、間違いということはあり得ない、つまり。その物体の瞳と似た色でそれを見つめ返して、ナマエは努めて優しく笑って見せた。
「今日のいずみさん……なんだかふわふわしてますね」
「ふわふわしてんのはあんたの頭じゃないの」
 頭上から降ってきたのは、毛むくじゃらではない、本物の部屋の主の声だった。共通点は、スマートさくらいのものだ。
 顔を上げた先には、呆れたと言わんばかりに腕を組んで、小さく息をつく泉が立っていた。Vネックの黒いシャツにジーンズと軽装であっても、彼のコーディネートに隙はない。ただし、毛玉へと視線を移した彼には、簡単に隙ができた。
「廊下は冷たくて気持ちよさそうだねぇ。あんた動きがとろいから今は脱走とかなさそうだけど、廊下うろつくなら柵を買わないと。とりあえず、そろそろ餌の時間だよ。おいで、お腹空いたでしょ」
 ゆるく微笑む恋人を、ナマエはぽかんとして眺めることしかできなかった。にゃあ、と毛玉こと子猫が、ぴんと耳を立てながら、甘えるように鳴いた。泉はその柔らかそうな身体を抱き上げて、両手ですっかり包んだ。頬に頭を擦り付けてくる子猫を、泉は拒むことなく、どこか満足そうに受け入れている。その手つきが、表情が、あまりにも甘くて愛おしそうにするものだから、ナマエはなんとなしにむっとして。
「……あの、そちらは、どなたですか?」
 訊ね方にまだ若干の混乱が見られた。
「見てわかんない? 猫だけど」
「猫? どうして急に猫……。預かってるんですか」
「そんなとこ。……って、あんたびびりすぎだから。昔からだけど、まだ動物苦手なわけ?」
「いえ、前ほど苦手ってわけじゃない、ですけど」
 彼女の動物への苦手意識は、泉の言う通り今に始まったことじゃない。理由は至ってシンプルで、何を考えているかわからず言葉や理屈が通じないからだ。泉に言わせれば、あいつら結構わかりやすいよ、らしい。
 ナマエが腰を落としたまま固まって動けずにいたのは、べつに猫が怖いからではない。しかしそれは、猫と接触したいということでもなく。
「あんまり近いのはちょっと……!」
 腰を曲げた泉が、子猫を持った両手を容赦なくナマエの顔へと近づけたところで。突然詰められた獣との距離に彼女は再び心臓を震わせながら身体を引き、情けない声を上げるしかなかった。恐怖はなくとも、表情も行動も読めないものがこんなに間近に来られると、どうしたらいいかわからない。本当に、自分でも情けなく思うが。
「だめじゃん」
「……だって」
「こんなに可愛いのに。ひどいおねえちゃんだねぇ?」
 泉は自分の顔まで子猫を持ち上げ、薄い緑色をした小さな目を覗き込むようにしながら撫でるような声で話しかけていた。彼だか彼女だかわからない毛玉が彼に答えるように細い音を響かせる。釈然としないものが胸の中心を渦巻いたが、どこにも出さずに押し留めた。真っ黒の毛も身体そのものも、見るからにやわくて触り心地はよさそうだ。ナマエからすると触ると壊してしまいそうなか弱いものを、簡単そうに扱う恋人を珍しいものを見るような目で観察した。
「一体どういう経緯があったんですか」
「一昨日、仕事の現場近くで子猫が五匹も段ボールに入って捨てられてたんだけど。それをスタッフさんが拾ってきたの。里親はあとで探すとして、拾ってきた本人が一旦全部預かる気でいたらしいけど、さすがに大変そうだったから俺が声かけたんだよ。ここ一応ペットも飼えるマンションだから。昔おばあちゃん家でちょっとだけ猫のお世話したこともあったし、一匹くらいならと思って」
 その日にケージとか全部揃えた、と自慢げに泉は言う。一時的であったとしても、猫を迎えるならそれなりに準備が必要なことまで見越して預かったのだろう。
「……いずみさんって時々無闇に優しくなりますよね」
「は? 俺はいつだって優しいでしょ〜?」
 優しくないわけじゃない。ただ、その優しさが与えられる範囲は、かなり狭いイメージだったのだ。今はそうでもないのかもしれない、と思う。自分の中の瀬名泉という恋人のイメージは、その一部が学生時代で止まっているのかもしれない。決して短くない期間、顔を合わせる機会も作ってはいたものの住む場所は遠く離れていた。時間と環境は人間を変えていくものであり、会わなかった分、知らない一面が増えるのは不自然なことじゃない。新たな出会いと環境が、彼の棘をいくつか抜いて、尖ったところをまるくした。そうしてきっと、目の前のもの以外を受け入れる余裕ができたのだろう。それは嬉しいような、寂しいような。複雑さの理由付けが出来ないでいると、泉が猫の前足で繰り出される攻撃を避けつつ、猫と見つめあったまま楽しげに口を開いた。
「放っておけなかったんだよねぇ。里親見つからなかったら、うちのこにするのもありかなぁ」
「そんなに猫好きでしたっけ。もしかして、動物飼いたくて一人暮らしを?」
「まさか。前にも言ったでしょ、一人の方が都合が良かったってだけ。実家にいたら、自由に人も呼べないしさぁ」
「フィレンツェに住んでる間にホームパーティーが癖になったんですか」
「……はあぁ? なんでそんな発想になるわけ?信じらんない、あんたそういうとこほんっと変わんないんだから!」
 勘弁してよ、とうんざりしたように呟く泉のライトブルーが細まりながら、やっとナマエの方を向いた。子猫を先程よりも控えめに差し出してきた泉に対し、ナマエはどうして欲しいのかを察しはしたが、どうしたらいいのかまでは決めかねている。
「抱いてみな」
「えっ」
「怖くないから。嫌いってわけじゃないんでしょ、慣れて」
「そう、ですね……。しばらくこの家で暮らす子なわけですし。ところでどうしたらいいんですか、このひと」
「ひとじゃないから。両手出して。片手でも持てるくらいだけどね」
 言われるままに両手を広げると、そこにちょこんと子猫が置かれた。比べる相手がいなくても、毛並みが良いのはわかる。想定以上の柔らかさと重量に戸惑いながら、子猫を持ったのちにどうすべきか悩んで一度自身の膝に着地させた。泉にしたのと同じように、腹に頭を擦り付けてくる小さな生き物に、初めて愛らしいという感想を、持った。何を考えているかはわからないけれど、自分がこの子に受け入れられたような安堵が落ちて。その小さな頭を指の腹でそっと撫でてみる。細い声が、応えた。
「かわいい……」
「だから言ったでしょ」
 その声が耳に届いたと同時、頭に重みを感じる。穏やかな手つきで、自分の髪が撫でられていたと知るのに時間はかからない。ナマエはその犯人を見上げ、掴めない動機に首を傾げた。いま泉が触れているのは自分なのに、なぜか猫と接する先程の彼が、思い起こされる。
「うん、やっぱり似てる」
「え、猫と?」
「猫と。ほんとに、早く慣れて仲良くしてよねぇ。俺がこの先も飼うことになったら、将来的にその子はあんたの家族にもなるんだからね?」
「……それ、は」
 ナマエが答える前に、ぴょんと膝から飛び降りた猫が泉の足元に駆けて行き、彼の足首辺りに擦り寄った。嬉しげにふふ、と笑って、泉は自分の腕に猫を戻す。
「やっぱり俺の方がいいって? 素直で可愛い子だねぇ、あんたは。誰かさんと違って〜」
「もしかしてわたし猫と比べられてます?」
「ちなみに名前はリリー。女の子だから」
「女の子……」
 言いたいことがあったのに、わりと大事なことだったはずなのに、流されてしまったような気がする。リリーと綺麗に名付けられた猫に持って行かれてしまったような気もする。もやもやを処理しきれずにいたら、横目でナマエを捉えた泉が、意地悪く笑んだ。
「なぁに、妬いた?」
「……べつに妬きません」
「嫉妬は怖いねぇ、リリー。さ、ミルク用意してあげようね」
 そのまま踵を返し、泉は玄関にナマエを置いてリビングへと引き返していく。その後姿に何か言ってやりたかったが、何を言ってもあの意地の悪い恋人の思う壺だと理解しているので、ナマエはぐっと堪えた。ふと、その背中から、彼女宛に声が飛ぶ。
「あんたにもお昼ご飯用意してあるから、早く上がりな」
「猫にするみたいな言い方やめてもらえませんか」
 なんだか色々と納得がいかないけれど、この感情の正確な説明ができない。普段なら抱かない気持ちを持て余しながら、ナマエは白いパンプスに指をかける。廊下の奥からは、スパイスの良い匂いがした。

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