瀬名泉にとってのミョウジナマエとは、昔から小憎たらしい少年だったのだ。

 ナマエは、泉が小学校二年生のときに近所の大きな家に引っ越してきた同い年の少年だった。彼らが住むのは、太陽を照り返す眩しいくらいに白い外壁が小洒落た雰囲気を作り出すような新築の家、ではなかった。重苦しいほど歴史の積み重ねを思わせる、瓦と木材だけで構成された日本家屋。纏うのはお洒落さではなく、気品だ。泉が生まれるずっと前から、その家はこの町の一部として、変わらずにあるらしい。周囲がどんなに色彩豊かなデザインに重きを置いた家やマンションに立て替わろうとも、くすんだ色合いを町に残す。時代の移り変わりと共に、そこだけが別世界のように周りから浮くのは道理だろう。
 そんな古い家の新しい住人となった少年を一目見たときに感じたことを、泉は生涯忘れることができそうにない。驚くほど静かで、それが嘘みたいに、その少年は目立っていた。見目も、立ち振る舞いも、泉が知る誰とも違って、誰よりうつくしく──だから一切どこにも溶け込まない。それはまるで、少年の住む家のようだと、泉は思った。

 彼の引っ越しをきっかけに何気なく繋がった縁が、そこから五年間途切れることなく続き腐れ縁となったのは、今思えば背景に大人の思惑があったからなのだと振り返ってみて泉は考える。五年間クラスメイトで在り続けたのは、教師の配慮だ。目を離すとどうも危なっかしいナマエの、世話係のような立ち位置に己は密かに固定されていたのだろうというのは彼の推測である。
 登校中でもすぐ道草を食うような自由気ままさと、知らない人間にもふらふらとついて行こうとするような後先を考えない雑さと好奇心を備えてしまった少年の世話をするのは、思い出しても楽じゃなかった。ただし生憎ナマエは、最悪の事態を回避するような運の良さを持ち合わせているようで、泉の心配がから回って終わることが大半であったのがまた憎たらしい。
 最初の二年間は習い事だったバレエ教室でも一緒だったけれど、ナマエは早々に、泉よりもずっと早く離脱した。周囲の彼への評価は高かったし、期待もされていたことを泉は子どもながらに察して、素直に勿体無いと感じた。だからこそ理由を真剣に訊ねたのに、つまらなそうに一言「飽きた」としか答えないものだから──そこで初めて大喧嘩したことを覚えている。その一言以上も以下もナマエの中にないことを泉が知るのは、もう少し後だった。



「なんっであんたはいつもいつも俺を置いて先に行くわけぇ? ありえないんだけど!」
 東から昇った太陽に焼かれる背中を目掛けて、泉は怒りの滲んだ声を真っ直ぐ投げかけた。学生鞄片手に歩みを止めるどころか緩めもしない背中は、泉と同じ制服に身を包んでいるのに、あまりにも素っ気ない。駆け足で近寄って右隣に並べば、ナマエの黒髪の間から覗く薄茶の瞳が、やっと泉の姿を認識した。
「瀬名、寝癖ついてる」
「うそ、どこ?」
「うそ」
「……はぁ?」
 なんなのそれ、小学生か、と口を尖らせついでにナマエの直毛気味の髪をぐしゃぐしゃと片手でかき混ぜてやったら、物理的な抵抗はなかったものの「おこりんぼ」と短く嫌味を寄越してきた。どう考えてもくだらない嘘を吐いたほうが悪いのだが、ナマエは全く悪びれもしない。そもそも話題を逸らすために挟んだ嘘であることは付き合いの長さからおおよそ気付いている。つまり今すべきはつまらない嘘の追及ではなかった。泉は自分で崩したナマエのヘアスタイルを再び元に戻すように髪をなでつけながら、小さくため息を逃がす。
「俺が迎えに行くまで待っててって言ったでしょ。もうこれ何回目かわかんないけどさぁ、一回くらい待ってなよ」
「なんで」
「なんで、とか普通訊く? 昔は毎朝大人しく待ってたでしょ〜。"なんで"って言いたいのはこっちなんだけどぉ?」
 昔は。四年前、小学校六年生までは、ナマエを朝迎えに行って、教室まで送り届けるのは泉の役目だった。私立の進学校を受けたナマエとは中学で別々になり、そこから疎遠になったのは、泉が声をかけなかったからだ。ナマエから泉に対して積極的なアクションがあったことはない。つまり泉からの接触が無ければ距離が開くのは道理である。元より自分が追いかけてばかりの関係なのだと気付いて、密かに惨めになったのは二年前だ。けれども、いまは。彼らは私立夢ノ咲学院という場所で、その二年目で、また同じ教室で机を並べている。
 昔と違って、少しだけ目線が高くなった幼馴染の無感情な視線を受けた。身長が175センチになったと聞いたその日から、時折見下ろされているような錯覚に凪いでいた心が波立つ。
「おまえさ、いま忙しそうじゃん。昔と違って。無理におれに構わなくていいよ。学校は、ちゃんと行ってるだろ」
「まるで昔の俺が暇だったみたいな言い方やめてくれない? 小学校のときだって、あんたの世話の傍ら、俺は売れっ子のキッズモデルやってたんだからねぇ?」
「おれの世話の片手間にできる仕事の忙しさなんてたかが知れてる」
「俺の要領がいいから両方こなせてたの!」
「ふうん」
「真面目に聞きな」
 泉が耳をぐいと引っ張ると、ナマエの眉間に薄く皺が寄った。思いのほかひんやりとした体温に、内心どきりとする。ぱっと指を離せば、その指の行き先を追うようにナマエの視線が揺れた。
「おまえはすぐ手が出る。昔から」
「あんたがおちょくるからでしょ!」
「すぐ人のせいにする。これも昔から」
「あんたが悪いのはただの事実だから! 昔っから!」
「瀬名の声ってよく通るね」
「はあぁ?」
 ナマエの口の端が、浅く持ち上がった。顔のバランスもパーツもかたちも意図して作られたかのように整って、きれいすぎて冷えた印象を受ける容姿に、僅かに暖かみが灯る。う、と泉はそこで紡ぐはずだった文句を飲み込むはめになった。その笑い方に、酷く弱かった。
 無愛想で表情の起伏もあまりない彼がこうして微笑むところを目の当たりにすると、まるで自分が彼にとって特別な人間であるかのように思える。事実、ナマエにとっての泉は特別なはずだった。その他大勢とは違うという自負が、あった。
「ともかく、俺はあんたを心配してやってんの。相変わらず授業は出たり出なかったり、放課後のレッスンも休みがち、挙げ句怪しいバイトまで始めっちゃって、ばっかじゃない。いつまでも俺がいなきゃ本当にだめなんだから、あんたってやつは」
「怪しくない。ライブハウスだよ。健全な。紹介してもらった」
「……あの柄の悪い奴らが出入りしてるとこでしょ、どこが健全なんだか。バンドだかなんだか知らないけどさ、付き合う友達は選びな。痛い目見てからじゃ遅いんだからね」
「友達じゃない。おれ、友達いないし」
 どうでもよさそうなナマエの声音に反して、泉の顔が強張った。前方を見やるナマエはその変化に気付かない。
 ナマエは愛想がなく無口なわりに、好奇心は強く案外付き合いが良い。ひねくれた口をきくときもあるが、来る者は拒まないので、その見目と気安さで人を引き寄せがちだ。小学校の昼休みはサッカーだのバレーだのと引っ張り出されていたのを、泉は見ていた。けれども、ナマエは彼らを受け流すだけでその実誰も受け入れていない。 彼が、何にも執着しないことを泉は知っている。だから。
「瀬名しか、いない」
 だから、こうしてナマエがなんとなしに口にする科白に、時折心臓を五本の指で掴まれたような心地に、なる。少しだけ、息がしづらくなった。
 彼にとっては事実を言葉にしただけだろうし、泉が知る限りでも、それは嘘や優しさじゃなく現状なのだとわかる。ナマエのパーソナルスペースは泉からしたら信じられなくらいに狭いが、それは本当に他人からされることで不快にならないというだけだ。嫌いにもならないけれど、好きにもならない。その他大勢が、ナマエには多い。己が、瀬名泉がその他大勢にカテゴライズされないことは、泉の気分を良くさせた。ナマエの優先順位の上位にいることに、誇らしさすらあった。それを実感する瞬間が訪れる度、心臓がうるさくなって体温の上昇を感じた。いつからかも、なぜなのかも、よくわからない。
「あんたはまたそんなこと言って。まあ夢ノ咲は友達作りに来る場所じゃないわけだし、それもいいんじゃないの」
「おまえも大していないじゃん」
「うるさいなぁ!」
 一生自分だけであればいいのに、と思う。自分しかいないと言うのなら、昔みたいに名前で呼べばいいのに、とも思った。人を悩ませて、気を散らせて、惹きつけて。本当に、どこまでも憎たらしい奴だ。

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