権力を持つ人間の息子というのも、楽じゃない。顔がきくと言えば聞こえはいいが、上手くやらなければ悪い噂は火が燃え移るように広がるし、大人に良いように利用されることも多いのだ。昔から羽風の家が仕切る土地に居を構える者は、羽風薫を羽風の家の息子として知った風な口を聞いて、比較的最近ここへ来た者は彼をあらかさまに生意気な子供として見ながら頭を下げる。どちらも、薫にとっては気分の良くないものだ。
誰も彼もが、薫に対してあらゆる感情を秘めながら、なにかあれば下手くそな笑顔で上辺だけ取り繕って頼ってくる。この土地一帯を父親から任されているのは事実で、彼らの意見に耳と手を貸すのが薫の仕事だ。途中で投げ出して文句を言われるのも癪だし、一度やると言ったからにはやるけれども、それはやる気があることと同義ではない。地元の有力者という立場でいれば好みの女の子が一人二人どこではなく寄って来るものの、正直割に合わないと思うこともあった。
私立夢ノ咲学院アイドル科の生徒がよく出入りしている地下ライブハウスも、薫のテリトリー内にある店のひとつだ。店長の人柄に大きく悪い印象はないが仕事のできるタイプではなく、ビルの管理会社や同じビルに入るテナントとよく揉めているようで、結局管理側からこのビルのオーナーである薫の元に連絡が来る。それも一度や二度じゃない。管理会社の必要性をそろそろ考え直したいところだ。
昼光色の蛍光灯が冷たく照らす長い階段を下りた先に、黒い扉が薫を待っていた。ついでに壁も薄汚い黒色で、そのどちらにもどこの誰とも知れないバンドのステッカーが無数に貼られている。いつ見ても、アンダーグラウンドな雰囲気満点だ。
扉の鍵は不用心にも開きっ放しだった。防音扉を押し開いて、入ってすぐにあるバーカウンターも兼ねた受付を横切る。迷わず事務所へ向かおうとしたが、人の気配はそこに辿り着く前にあった。何気なくフロアへ目を向けたとき、一番に視界に飛び込んできたのは普段ステージの上で鎮座しているはずのドラムのあられもない姿だ。シンバルスタンドからはすべてシンバルが外され、太鼓類は胴から皮製のヘッドがすべて剥がされて、客席側に並ぶ。そのドラムセットだったものたちに囲まれて、布を片手にシンバルを拭く細身の後ろ姿には、見覚えがある、ような。
「君、ひとり? ここの店長どこ行ったか知らない?」
シンバルを磨く手は止めないままで、Tシャツ姿の少年が肩越しに薫へと振り返った。短い黒髪が音もなく揺れ、その持ち主と目が合った直後、ひゅっと薫は無意識に息を吸う──思いがけない相手だったのだ。まさかこんなところで会うとは考えもしなかったし、この手の場所が似合うようには見えなかったのに、妙に似合っているのがなんとなくおかしい。普段教室にいても、あんなに浮いているのに。薫の知るこの少年は、ミョウジナマエは、生まれてくる世界を間違えたかのような洗練されたうつくしさを有して、どこにも馴染めずにいるはずなのに。登校は気まぐれで、男の顔と名前はクラスメイトだってまともに覚えちゃいない薫でも、その光景だけは記憶の片隅に留めていた。
「……ミョウジくん、だよね?」
「なに」
「なにじゃなくて。なんでここにいるの」
「働いてるから。従業員名簿見る?」
「それはいらない。ええと、いつから?」
「三ヶ月前くらい」
結構前だ。ここには何度も出入りしているのに、どうして気付かなかったのだろうか。そんな自問を読み取ったかのように、おれ普段奥のPAブースにいるから、と彼はシンバルをそっと床に置きながら付け足した。そして、次のシンバルへと手を伸ばす。
「早く言ってよ、水臭いなぁ。一応クラスメイトでしょ?」
「知ってるのかと思った。ていうか、あんたいつも教室いないじゃん」
にこりともしなかったが、声音はそう突き放すような冷ややかさでもない。
「店長に用事だっけ。あのひと、他のスタッフとおやつ買いに行った」
「えっ、なにそれ、職務放棄ってわけ? よくないね〜。もう夕方だけど、お客さんが入る時間なんじゃないの?」
「今日は空き日。いまはメンテナンス中。あんた自分の縄張りにある店なのに、スケジュール知らずに来たんだ」
直接経営しているわけでもないライブハウスのスケジュールなんて、いちいち把握しているはずもない。スタッフも、スケジュールも、何も知らないんだと責められたような気がした。良いように自分を使おうとする、己を無知な子供と見なしてくる大人たちと、重なる。ナマエはまともに口を利いたこともない薫の登場に驚きもしなかったし、この口振りだと彼の立場を十分に認知しているようだった。知っていて、この言いようなのだ。過ぎった苛立ちを、振り切るように一度浅く息を吸って、吐く。
「へえ、色々わかっててそういう態度取っちゃうんだね〜?」
「クビにする?」
「あはは、俺ってそんなに横暴に見える?」
「いや。そもそも、そんなに知らないし。薫のこと」
ごく自然に名前で呼ばれて、一瞬思考が鈍った。シンバルへと落ちていた視線が、薫の方へ流れて来る。表情はなく、感情はない。暖かみもないのに、不思議と嫌味には感じない。
「あんたがこの店のこと知らないのと、同じで」
「べつに俺は男に知って欲しいとは思わないかな〜。この店のこともそう。女の子のことは知りたいし、女の子には俺のこと知って欲しいけど──」
「知らないままでいいわけ」
けれども、責めるようにじっと見られ続けるというのは、なんだか居心地が悪い。女性的というほど可愛らしさもなく、ただし男らしいと呼べるほどの男臭さも持ち合わせていない、ただただきれいなかたちをした顔が氷のような眼差しを放ち始めた。
「……知らない知らないって言うけどさ、俺も現状くらいは把握してるよ。まあ数字は良くないよね。空き日もちらほらあったし、盛り上がってないわけじゃないけど、マナー良くない客も多いみたいだし。それが一般客に広まってる」
スケジュールは把握していなくとも、経営状況くらいはざっくり頭に入っている。ナマエの言葉を借りるなら、ここは"縄張り"だ。その内側にある店が知らぬ間に潰れていた、では格好がつかない。頭の中でエクセルで作成された表に整列する数字を思い起こしながら、ぼんやりと考えたことをそのまま口にした。つまるところ、ここの店長は運営下手だ。
「やっぱり評判って大事だよ。その辺は、もうちょっとやりようがあるかも。とりあえずマナー悪い奴は出禁にして、ギャラ払ってでも大物呼ぶとか、何かしらのイメージアップを図れば出演者も客も、質と量がおのずと上がるでしょ」
ぱちぱちと、薄茶の瞳が薫だけを映して静かに瞬いた。変わらず表情筋は動かないものの、やがて薫を見る目が存外柔らかく、細まる。
「頭良いんだ、薫って」
「なに、馬鹿にしてる?」
「ちがう、賢い。本当に、そう思っただけ。店長はそういうの、下手くそだ。現状を維持するしかない」
「うん、俺から見ても上手には見えないけど。現状維持が一番楽だからね〜。人間って楽な方に流される生き物でしょ。挑戦なんかしたら失敗するリスクを負わなきゃいけない。それを跳ね除けてなにかを成し遂げるなんて、主人公のやることだよ。勝手にやっててって感じ。……いや、運営とはちょっと話がずれちゃったね」
報われるかどうか不透明な努力とそこに伴うリスクなんて、誰だって背負いたくない。当たり前のことだが、今それをナマエに言ってどうなるという話だ。現状維持を悪いことのように言われて、自分を貶されたわけでもないのに、心臓の奥がざわついたのが良くない。これは、ただの店舗運営の話だと薫は心中だけで反芻した。売上の維持ではなく向上のために試行錯誤するのは、店を任された長として当然のことで、それを放棄しているのは確かに頂けない。
「ともかく、運営ってやっぱりセンスだから。向かない奴はとことん向かないよ」
「じゃああんたがやって。運営」
「えぇ? なんで俺がそこまでやらなきゃいけないの。俺だって、運営や経営のセンスが抜群にあるってわけじゃないよ。まともに勉強したわけでもないし、ノウハウもない。第一、ここのために俺の時間割く意味ある?」
「でも、あんたの縄張りだ。ここではあんたが主人公で、ボスだろ」
「ボスって……やめてよ、恥ずかしいから」
「見たところ、0の売上を100にするって話じゃない。70が50になったから、80まで引き上げようって話。可能性がある店、潰す意味ある?」
「……うわ、嫌な子だね」
店舗資料を見たことがあるような口振りだった。ナマエの主張は、概ね間違っていないところが可愛くない。この店にはまだ可能性があるし、売上を作る難易度はそう高くないと見ている。このまま潰して一から別のテナントを入れるなんて、ナンセンスだ。そこまで理解して尚、目の前の少年の言いなりになるのは面白くない。
「要は君も、困ってるからなんとなく上手くやれそうな俺に丸投げしようってことでしょ。俺、良いように利用されるのって嫌いなんだよね〜?」
「なら、あんたもおれを利用していい。なんでもする」
「えっ、そうくるの? なんでもする、って女の子に言われたらぐっとくるけど、男から言われたらげってなるなぁ……。ていうか正気? そんなにここが好き?」
「世話になったから。潰れてほしくない」
「ふうん? もっと冷めてる子だと思ってたけど、意外と義理堅いんだ」
シンプルな言い分を、必死さで装飾することなく、最初に顔を合わせたときと変わらぬ表情でナマエは述べる。可愛げはないが、嘘でもなさそうだ。可愛らしくされたところで、相手は男なので揺れることはないのだけども。ともあれ、やり方は強引だけれど感情論で押してくるのではなく合理的な話を持ちかけてきたことに対しては、評価してやってもいいと思った。その義理堅さを、試してやるのも悪くない。
「ちょっと考えさせてくれない?」
一方的に利用されるつもりはなかった。このライブハウスをもっと盛り上げるのに手を貸せというのなら、そのためにこちらも彼を存分に利用させてもらわなければ不公平だ。あちらが端からそのつもりであるのなら、まず前提として、ナマエに利用価値がなくてはならないだろう。その見極めは、これから行うとして。薫を黙って見上げていたナマエが、彼の言葉に頷いた。
「わかった、ボス」
「待ってボスはやめて」
「薫」
「うん、そもそも名前で呼ばれてんのもなんで〜って話なんだけど。俺と君、まともに話したことなかったよね?」
「店長たちが薫さんって呼んでた。嫌ならやめる。羽風」
「え、嫌ってほどでもないけど……」
「そう。じゃあ、薫」
気安く人の名前を呼んでくるナマエの口角がやや上を向いたのを視認して、薫は目をまるくした。どこか、彼を笑わない生き物だと思っていた節がある。いつも教室の片隅で、美術品のように正しい姿勢をぴたりと保ち華やかな顔立ちを晒しながら、話しかけるのをためらわせる空気感に取り巻かれているから。笑うと少しだけ印象が柔らかくなって、幼さが滲んだ。それでも、呆れるくらいのうつくしさは損なわれないまま。本来懐かないはずの、保護指定された野生動物を懐かせたようなそんなわけのわからない感覚をどう処理すべきか悩む薫の口は、自然とへの字に曲がる。
「俺、ミョウジ……ナマエくんのこと苦手かも」
「おれは薫のこと嫌いじゃない」
「あはは、嬉しくないな〜」
嬉しくはないけれど、まあ、悪い気分でもない。知った風な口を利かれるよりも、無条件に頭を下げられるよりも、ずっとましで、気楽だった。