似たような孤独を飼っていた。わたしと、あのひとは。ただそれだけだ。

 歳の近い従兄の言いつけを破ったのは、初めてだった。これがきっと最初で最後、のはずだ。そうでなければならない。わたしはあの従兄を、裏切りたくなくて、見離されたくなかったから。
「怒ってる? 敬人に」
「まさか。これがあいつの選択なら、それでいいさ」
 零は、別れの日も酷く穏やかだった。何度も何度も一緒に眺めた景色も、いつもとなんら違いはない。夕暮れに身を浸す墓石たちは、今日がどういう日かも知らずに無感情に、整然と並んでいた。零という存在が、この墓地の風景が、あまりにも日常の一部となっていたから、これが見納めである実感がわかなかった。まるで、明日があるみたいだ。明日もまた、この花壇に並んで腰掛けて、とりとめもない話ができるような気がしてしまう。
「頃合いだったんだろ。まあ正直俺も、そう思う。俺の見立てと一緒だよ。つまり上出来ってことだ。あいつにしちゃ」
 わたしが墓地に着いてから零に伝えたのは、「ここに来られるのは今日で最後になった」とだけだ。たったそれだけで、わたしがここへ来なくなる理由が敬人の言いつけであると彼は見抜いた。あぁ敬人か、と合点がいったように、不思議と満足そうに彼は笑った。
 黒一色の前髪の隙間から覗く朱い石がのそりと動いて、わたしをその中に閉じ込める。懐かしい感覚だ。まるで、闇と血の海の中に自分がいるみたいだ、と。初めて会ったときにそんなことを考えた記憶がおぼろげにまだかたちを保っていた。
「俺もそろそろ、ここには来なくなるつもりだったしな」
「……どこか別の場所へ行くの?」
「遠く」
「北海道?」
「あはは、そりゃ確かに遠いな」
「どこに行くの? どうして?」
 急に、心臓がきゅうと縮こまったような苦しさを、胸の真ん中辺りが訴えた。零が遠くへ行ってしまうことを理解したその瞬間からだ。もう零に会いに来るつもりはなかった。もう二度と会えないかもしれないともわかっているつもりだった。
「なんで、遠くへ行くの?」
 それでも、この場所にはいつも零がいる。そう遠くない距離で、彼がいる。そこに安心があった。離れるつもりで尚、そんな甘えがあったのだ。わかっているつもりで、何もわかっていなくて。
「さみしく、ないの?」
 縋るように零のシャツを両手で掴んで、そう訊ねた。わたしを閉じ込める赤が狭まって、彼の口の端が緩やかに持ち上がる。
「おまえが言うのか、それ」
 責めるような言い回しなのに、その声音は子供をあやすような優しさで満たされていた。
「俺はなんにでもなれるし、どこへでも行ける。誰にも手が届かない場所へ、なんだろ。そう言ったのは、おまえだ」
「……わたしのせい?」
 彼はこんなところにいるべきひとではないと思った。際限なく頼ってくる一握りのひとたちの神様としてここで時間を消費するべきではないと、彼はそんな安易に消費されていくべきでないと。確かに心から、そう思ったのだ。でもそれは、遠くへ行ってほしいということじゃない。客観的に見て矛盾しているけれど。そもそもわたしの中では、彼がこの場所を離れることと、遠くへ行ってしまうことはイコールではなかった。ここに来て持ち出された自分の科白に、なんと返せばいいのか。自分は、彼に何を求めているのだろう。零に求められているものも、自分が彼に求めているものも、すべて不透明だ。
「絶望の淵に立ってるみたいな顔してるぜ」
「そんなこと……」
「──なぁ、さみしいのか?」
 零のシャツを握るわたしの手の甲に、彼のてのひらが重なった。きれいな顔は笑うことも、歪むこともなく。わたしがずっと零に問うてきた内容を、わたしに返しながら。"さみしい"を考える。その意味を、感情を、思考する。わたしの答えはいつだって変わらないはずだった。わたしには、敬人がいるのだから。彼さえいればいい。彼がいれば、死ぬまで、わたしは。
「わたしは」
──わたしは。
「…………さみ、しい」
 その言葉を唇から解放した直後、わたしはそれを口にしたことを悔やんだ。子供ながらに、それは言葉にしてはいけなかったのだとあとで気付いた。見ないようにしていたものが、向き合ってはいけないものが、一斉に足元から這い上がってきて、逃げられない。とてつもなく色濃い──孤独。別れへの、実感。
 赤い瞳が驚いたようにまんまるになって、そこに映るわたしは今にも泣きそうだ。見たくない。でも、逸らせない。
「ねえ、どうして、さみしいのかな……。わからない、けど、さみしいよ、零……、どうしよう」
 フラッシュバックのように今更ぶり返すのは、母親と離れることとなって、置いていかれて、”なにもない”と自覚したときの孤立感。ぽっかりと空いた穴が、一人の存在で埋めたはずの空洞が広がっていく。足りない、埋まらないとそれは言わずして主張した。朔間零と出会ってから、彼がわたしに気付かせたものが、過去が、追ってくる。ここに。
 独りだ。わたしという、蓮巳ナマエという人間は、独りきりなのだ。自覚はあっても、認めたくなかったこと。彼がいたから曖昧であったことに気付いて、彼がいたから曖昧なままにしておけた。自分と同じく独りである零の存在の特別さは、心の片隅に安心を生み付けていたのかもしれない。それがあまりにも自然に行われ過ぎて、いざ離れたらどうなるかなんて考えたこともなかった。容易に離れられるのだと思っていた。そこに己がどんな感情を向けるか、なんて。
「ナマエ」
 ゆるやかな動作で零の腕がわたしの身体に回されて、肩に置かれた片手に力が込められたのがわかった。零のしつこくない甘さを帯びた匂いが鼻から喉を通って、肺へと送り込まれる。
「──その孤独はさ、おまえが作ってんだよ」
 耳元で紡がれた声は、柔らかくわたしの不安にナイフを刺し入れた。
「今寂しいのは、”俺が”離れるからじゃない。無意識に自分を重ねて見てた相手が、同じ場所に留まらず離れていくことが、悔しいんだ。自分はどこにも行けないのに、似た相手に置いていかれることが、たまらなく悲しいんだろ」
 背中に回った指が、わたしの背骨をするすると這うようにたどって、心臓と同じ高さで止まった。とん、と服越しに叩かれる。まるでその奥を貫こうとするかのようだ。そこに詰まっているのは、誤魔化せなくなった感情たちだ。
「俺たちは似たようなもんだ。はなから、そうしてくれって誰かに頼んだわけじゃね〜けど、気が付いたら"特別"になっちまってた。スタートから、誰とも並べない。誰も彼もが、並ばせちゃくれないときてる。並ぶ努力も、しなかったけどな。埋もれる努力なんざ、バカみたいだったから」
 彼の顔は見えないけれど、薄く笑むような気配があった。
「俺は今まで、自分を孤独だと思ったことはなかったよ。これが当たり前だと思ってた。そこにあった違和感に、名前を付けたことはなかった。孤独なんて名前を付けたのは、おまえくらい。おまえに寂しい寂しいって言われ続けて、それが洗脳同然の思い込みなのか笑える勘違いなのか、あるいはただの事実だったのか──俺はわからなくなっちまった」
「……やっぱりわたしのせい、なの。怒った?」
「べつに怒っても恨んでもいね〜よ。それを自覚して、一時囚われたのは、俺自身のせいだ。きっかけはナマエだったかもしれねえけど、結局その孤独は、俺が生み出したもんなんだよ。俺が作った俺の一部を、誰のせいにもしちゃいけない。神だって恨むつもりはねえよ。おまえの、それもさ、そういうもんだろ」
 零の孤独は、零のもの。わたしの孤独は、わたしのもの。どんな外的要因があろうとも、それを生み出すのは、自分自身に他ならないと。彼は涼しげな声音で、淡々とそう告げた。
「自分で作り出したものは、自分で片付けるべきだ」
「片付け、って。どうしたら、いいの」
「何がおまえの寂しさを埋めるのかは、おまえにしかわかんねえよ」
 身体と身体の間に、間もなく隙間ができた。その空間が零の意思によって広がっていくのを拒むでもなく、わたしはただぼんやりと見つめていた。零に縋ってその距離を縮めても、なにも埋まらないと知ったからだ。
「俺は、決めただけだ。自分のために生きてみるって。おまえが言ったみたいに、他の誰にも手が届かない何かを、掴むために。まだ具体的に何をするだとかは決まってね〜けどさ」
 再び零と向かい合ったとき、彼はひとり満足そうに、笑っていた。
「その過程に何があるのか考えるだけで、俺の知らない世界があると思うだけで、わくわくする。何に出会って、何が起こるのか。自分がどこまでやれるのか、とか。そしたら、いつか孤独なんて気にかけてやる暇はなくなっちまうんだよ。きっとその方が、健全なんだよな」
「零は片付け、できたんだ」
 脱そうとしている。わたしを置いて。もっと深いところで共有できたかもしれない何かを手放して。わたしの髪を一房すくった零は、撫でるように指をすべらせたあと、すぐに指を解いた。重力と共に、日本人らしい色をした髪が落ちる。日本人らしからぬ色をしたわたしの瞳を、彼は覗き込む。
「おまえは……坊主に寄りかかって生きるのがおまえの処世術で、それで満足出来てんのならいいけどさ。違うだろ。限界が来てんだろうが」
 彼の視線は、言葉は、とても鋭利だった。真っ直ぐ綺麗に、わたしの一番触れてほしくないところを、一突きされた。血が出るかと思うほど痛いのに、生憎と流れ出るほどの中身がない。
「ナマエと俺は似てるけど、同じじゃね〜んだ。おまえはまだここで、やれることがある。まだ何もしてねえし、周りを見ようともしてない。現状を神さまから与えられた天命みたいに受け入れ過ぎて、身動きできない錯覚に酔い痴れ過ぎた。おまえ、本当は自分が絶望の淵に立ってるわけじゃないってわかってんだろ?」
「……零の言ってること、むずかしいよ。ここでわたしは、これ以上どうしたらいいの」
「どうしたらいいかなんて知らね〜けど、ひとつ言ってやれるとしたら……全部諦めちまうのも、どこか新しい場所を探すのも、早計だってことくらいだ。見えてないだけで、おまえの周りにはまだおまえと並ぼうとしてくれる奴がいるんじゃねえの?」
 わたしの孤独の原因も、抱えるものも、すべて見透かしたように──否、見透かしすぎている。これは察しが良いとか、そんなものだけじゃないという結論に至るまでは早かった。
「……敬人のおしゃべり」
「はは、そう言ってやるなよ。あいつはまだオニイチャンしてたいんだから」
 気付けば、輪から外れることに慣れ過ぎていたのだと思う。他者に拒まれたのか、己が拒んでいたのか、いつからかそれすらあやふやだ。作り出した孤独に酔って、寂しさを甘受した。でも、それでいて独りではないことに満足しようとしていた。そのコントラストに、魅入られている節があった。本当は──もっと隣を見れば、振り返れば、そこには母と敬人以外の誰かが、いたはずなのに。真っ向からではなくとも、歩み寄ってくれようとした人たちが。敬人が零にどこまでわたしの話をしていて、どこからが零の推測に基づいた話かは知れないけれど、まだ何もしていない、周りを見ていないとはつまりそういうことだ。そうする努力を怠り続けてきたから。
 それらと向き合った末にどうなるのかなんて見えはしない。本当に孤独から脱せるのかも、この穴がきちんと埋まるのかも。何もかも、前を向いて踏み出してみるまでは、誰にもわからない。未知なんて恐ろしいだけのものだと思い込んでいたけど、零が言うなら。わたしも、”わくわく”をもし共有できたら、孤独を飼っていたことなんて忘れられるのだろうか。どうしたらいいか、の答えの端っこくらいは掴めそうな気がした。
「零は」
「ん?」
「遠くへ行って、その先がまだ孤独だったら、どうするの? さみしくなったら?」
 んー、と軽く考え込むように唸ってから、零は意地悪そうな目つきで口元を綻ばせた。墓石同様に夕焼けの色を全身に被る彼はこの世の理の外にいるかのようにうつくしく、この背景が惨いくらいに似合っている。
「そのときは、責任取って隣にいてくれよ、おまえが。それが筋ってもんだろ?」
「……やっぱり怒ってない?」
「いや?」
 何も読み取れない笑い方だ。同時に、明日が、明後日が、その先がどうなるかなんて想像もつかないはずなのに、零の顔には憎たらしいほど不安がない。
「まあ独りでも寂しくてもなんとかやってけるだろうけどさ、向かった先にあるのがせめて退屈じゃなきゃいいよな。俺も、おまえも。……なんて」
「うん」
 真っ昼間よりも鈍くなった陽の光を絶え間なく注いでくる主に、二人して何気なく目を向けた。孤独だったら、退屈だったら。またわたしたちはここで同じ光を見るのかもしれない。その日が来たら良いと思った。でも、来ないことを祈りたかった。
「──零は、大丈夫。わたしの特別だから」
「そりゃどういう理屈だよ」
「りくつとかない。おまじないかな」
「おまじない、なぁ。悪い気はしね〜し、たまにはいいかもな、そういう可愛らしいのも。なら、俺も」
「……、なに?」
 不意に頭に手を伸ばしてきた零に髪をかき混ぜられて、為す術もなく乱された。本人はやたら楽しそうで、止めるのは気が引ける。やがてわたしを映す朱に、暖かな光を宿す。そのとき少しだけ、わたしを見る敬人の温度と似たものを感じ取った。
「おまえも、俺の特別だから。大丈夫だろ、たぶん」
「……うん、そういうことにしといてあげる」
「可愛くね〜の。最後だってのに。もっとあってもいいだろ」
 そう返答しながらも、機嫌を損ねた様子はない。優しい零。わたしの身勝手な感傷に付き合って、気遣って、わたしの気持ちを大事にしようとしてくれる零。この孤独に触れてくれた、わたしに近くて、遠いひと。どんなかたちであれ無性に大事な、ひと。最後に、彼に伝えるとしたら。
「じゃあ、最後だから、聞いて」
「ナマエ?」
「わたしは零のこと大事だし、好きだよ。テレビの向こうの宝石じゃなくて、宝箱に入れてる海で拾ったガラスみたいで……ずっと、この先も、わたしの特別。忘れてもいいよ。今だけ、知ってて」
 零の表情がまるで時が止まったみたいに、ぴたりと固まった。すう、と彼の両目がわたしを視界から外したかと思うと、すぐこちらを映しに戻ってくる。妙に気まずそうに、わたしを柔く睨むように見据えて。
「……おまえさぁ、そういうの……なんか」
「なに?」
「……いや、なんでもね〜よ」
 なぜか呆れ気味に零して、零は小さく息をつく。思い当たる節がなさすぎて首を傾げても、答えは降ってこない。零の中だけで完結したそれを、わたしに開示してくれる気はないのだろう。けれども、彼は特に不満げでもなさそうだったので、追及の必要性は感じなかった。寧ろ。
「──おまえの中で、俺が人間じゃなかったことなんて、ないんだな」
「? 零が吸血鬼だっていうの、忘れてないよ」
「そういうことじゃねえよ、ばーか」
 今となっては少し遠い日。彼を死神だと信じて疑わなかったあの日と同じように、零はわたしを軽々と抱き上げる。どこか嬉しそうに、あの日よりずっと機嫌が良さそうな微笑をたたえていた。ずっと見ていたく、なった。

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