幼馴染がなにかひとつのもの、ひとつの場所に留まる日が来るなんて、昔の瀬名泉は夢にも思わなかった。ミョウジナマエは何にも執着しない冷めた人間で、そんな薄情な奴に付き合ってやれるのは自分だけなのだと。そういう思い上がりが、いつからか自然と泉の中に住み着いていた。
「ちょっと、あんたまさか今から帰るつもりじゃないよねぇ?」
 革製の鞄を片手に自席を離れるにはまだ少々早い時間なのだが、幼馴染のナマエはその手の感覚がまともではないらしい。まだ午後の授業をあと丸々一限分残しているというのに、そんなものは端から予定になかったとでも言うように。さっさと教室を後にしようとするナマエを反射的に引き止めたら、泉の問いかけと責めるような薄い青の瞳と向き合って尚、ひとかけらの罪悪感も抱いていなさそうな調子で彼は答えた。
「帰らない。バイト行くだけ」
「屁理屈言っても結局サボりでしょ……。本当にあんたってやつは」
「入りが早いんだ、今日は。出演数が多くて」
「は? そんなことどうだっていいんだけど?」
 ナマエのアルバイト先の事情なんて、泉の知ったことではない。問題はそこではなく、彼が学校よりもレッスンよりもアルバイトを優先させようとしているところにある。しかもその勤務先は、学院内で態度の悪い連中が出入りしていると評判の、ライブハウスだ。そんなところに通い続ければ、面倒臭い輩に目をつけられる可能性だって大いにあるに違いなく。この整った見てくれと愛想の無さで案外人当たりが悪くないナマエは、下手するとそういう者らとも容易に距離を詰めてしまいそうで、そこから妙な悪影響を受けてしまいそうで、正直心配どころか怖い。何度も辞めるよう説得を試みたが、彼は生憎と聞く耳を持たなかった。
「そもそも、今日はユニットの練習日って前から言ってあったじゃん」
「あぁ、オセロだっけ」
「バックギャモンだから。一年生じゃないんだしさぁ、自分の所属するユニットの名前くらいいい加減覚えられないの?」
「好きで所属してるわけじゃないから」
「でも辞めないくせに」
「辞めさせられないから」
 彼が泉と同じ”バックギャモン”と名のついたユニットに属しているのは、シンプルに泉が彼を引き込んだというだけのこと。このアイドル活動に積極的ではない幼馴染は、放っておけばどこのユニットにも入ることなく三年間を終えそうで、黙って見ていられなかったのだ。
 バックギャモンは大所帯で、確かにアイドルユニットというていではあるが、その実互助組織に近い。メンバー同士、何かあれば可能な範囲で助け合いつつも、普段からひとつの目的に向かって共に切磋琢磨するような間柄ではない。ユニットは楽しめればいい部活ではなく、多かれ少なかれ利害が絡み合うものではあるものの、バックギャモンはその辺りが顕著であった。泉から見れば、誰も彼もが自分の利益ばかりを優先している。利益を求めながら、楽な方に流れる連中ばかりだ。ユニットに属するからこその恩恵を受けながらも大きな縛りがないというのは、確かに彼にとっても魅力的ではあるのだけれども。立場を傘に着て、他人の足を引っ張るような性根の腐った奴らが大きい顔をしているのは、打破すべき現状だと認識している。このままでは、他のユニットに取る遅れは一歩や二歩では済まないだろう。泉には、この学院でアイドルとして成功する目的がある。義務と言い換えてもいい。モデル業から離れたときに、ここしかないと自分を追い詰めたのだから、もうできることはすべてやるしかないのだ。
「辞めたいわけ?」
「おれに辞めてほしいの、瀬名は」
「……なんなの。その言い方」
 ナマエは。彼となら、彼がいたら。そんな幻想と甘えがあったことは認めてもいい。無条件に、協力してくれるような気がしていた。自分が手を差し伸べれば、昔にみたいにその手を掴んでくれる、なんて。才能を活かせたはずのバレエをあっさり捨てたナマエに、期待なんてするだけ無駄だったと悔やんだのは半年ほど前だ。ナマエは本当に、ただユニットに属しているだけで、練習にもほとんど顔を出さない。ユニットに支出は発生させないが収入になることもしなかった。
 いないならいないで、どうにでもやれている。ナマエひとりくらい、なくてはならない戦力でもないし、このユニットが真っ当に機能するにあたって大きなウェイトを占めるのはもっと別の才能ある人間だ。けれども、彼がこのままアイドル科に籍を置きながら何も成すことなく無為に時間を浪費していくのは、染み付いた習慣が──幼馴染としての義務感が、見過ごせなそうになく。決して辞めてほしいわけじゃない。捨てたはずの期待が、腹の底で疼くから。どうにかしてやりたいのに、どうしてやればいいのか学年が上がった今でもまだわからない。そもそも何故アイドルに興味があったわけでもないナマエが夢ノ咲学院のアイドル科に入学したのか、泉はそこについてもまだ納得のいく理由を聞いていなかった。自分だけが映り込む二つの薄茶の目をあらゆる感情を込めて睨めば、やがて瞼がその薄茶を僅かに隠して。
「意地悪、言ってみただけ」
「はあぁ? ちょ〜うざぁい!」
「おまえはそればっかだね」
「それはあんたが……!」
 悪戯っぽく笑いながら、ナマエは泉の言葉が終わる前に軽やかに踵を返した。これ以上追っても無駄とは承知の上で、彼の背中に本日最後の確認を放つ。
「ナマエ……! 練習は!」
「また今度」
 特に考えるような間も差し挟まれなかった。
「ていうか、瀬名も今日学校が終わったら”れおくん”? 病院に連れて行くんだろ。おまえがいないなら、どのみち行く意味ないよ」
 ひらひらと手を振って、惜しむでもなく廊下に出たナマエは、一度たりとも泉を振り返らずに昇降口を目指し消えて行った。なにひとつこちらの思い通りになりはしないくせに、わざとなのか偶々なのか、機嫌だけはしっかり取って。
「……あんたってやつはさぁ……もう、なんなの」
 またこうして期待だけが、残る。それは泉の独りよがりではないという、期待だ。

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