──あなた綺麗ですね。なんて綺麗な、立ち姿。つい、見惚れました。

 一年前の、春だ。スタジオへ向かう途中の廊下の真ん中。橙色の陽射しを浴びながら、この校舎に存在するはずのない女生徒に声をかけられた。後ろから飛んできた声に立ち止まって振り返れば、声の主である彼女は瀬名泉にそんなことを言って、緩く微笑む。異性に恋焦がれるような瞳ではなかった。ただそこにあるのは、泉を敬うような、眩しく見るような、輝き。

──真っ直ぐなんですね。うつくしいひと。

 そんなことは初めて言われた気がする。ひねくれているとは散々言われてきたけれど。
 なぜここに女が、とか、ファンが忍び込んだのか、とか。思い返せば考えるべきは色々あったように思うのに彼女の熱のこもった言葉に、その容姿に、一瞬思考が停止したし、警戒も忘れた。ぴんと伸びた背筋、泉を見上げる涼しげな眼差し、品のある穏やかな物腰。──泉もまた、彼女を綺麗だと、思ったのだ。その一年後の春、DDDで再び彼女を目にしたときも。



「そんなに警戒しないで欲しいな」
 無茶言うな。文句は色々あるが一切合切を静かに飲み込んで、瀬名泉はそれを大きな溜息へと変換した。眼前で笑う男は天祥院英智。この春からクラスメイトになった男だ。彼は今日、この生徒会室という己のテリトリーに瀬名泉を呼びつけた。ある程度の用事なら教室で十分だろうに、わざわざ場所を変えたのだ。面倒事の気配がする。予感ではなく、確信が存在感を強くしている。それでも泉が彼からの呼び出しを突っぱねることができなかったのは、ひとえに前回のDDDの件があるからだ。あの一件で取った瀬名泉の行動は、彼の属するユニットKnightsの評価を著しく下げるだけに留まらず、泉個人はユニット活動を禁じられた。ライブという形態でなければ、ボランティアや校内アルバイトにユニット単位で参加することは許容範囲とされていたので、DDDから今日までKnightsは汚名返上、名誉挽回のために積極的にそれらに参加してきたわけだ。英智は昼間、教室にてそこに絡めた話を持ち出してきた。
──放課後時間はあるかな? 僕が直接紹介させてもらいたい校内アルバイトがあるんだ。悪くない話だよ。ささやかながら、きみたちのイメージアップになればと思ってね。
 裏は当然のようにあるだろう。天祥院英智のことだ、善意だけで動くような男ではないと泉は心得ている。一見脆く儚げな容姿と社交的で友好的な態度とは裏腹に、英智は酷く狡猾で目的至上主義だ。己の目指すもののために、必要であればなんでも切り捨てられる人間である。入退院を繰り返す病弱な身体に似合わず、中身は屍の山を築いてその上に平然と腰掛けて笑っていられるような、決して軟ではない精神を有している。少なくとも、実態は知らないし興味もない泉からは、そういう人間に見えていた。そんな英智からの呼び出しに、警戒は解けないがこちらにとって損で固められた話でもないだろうと泉は踏んで、応じたのだ。現在のKnightsの仮リーダーは鳴上嵐なので、本来こういう案件相談の場には彼を呼ぶべきなのだが、あえて呼び出さずにおいた。二年生である彼よりも僅かではあるが自分の方が天祥院英智という人間を知っている。彼と交渉するなら一対一の方が、話が早いし人数が多いとそれだけでノイズが増えて邪魔だ。
 嫌なことはとにかく早く終わらせるに限る。まずは、と悠長に紅茶を淹れようとする英智を押し留め、泉は彼に本題を明かすよう急かした。せっかちだなあとこぼれたのんびりとした声は、黙殺する。長居するつもりはなかった。生徒会長の椅子に腰掛けた英智が、少しだけ真面目な様子で、口を開く。
「じゃあご希望通り、本題に入ろうか。音楽科のある生徒から、僕のところに依頼があったんだ。近々、音楽科はオープンスクールを開く予定がある。同日、地域の交流会も兼ねたイベントも行うらしくてね」
「そこで俺たちが呼ばれたってわけ? そんなの、他のユニットでも良さそうなもんだけど」
「生憎、あちらはKnightsをご指名なんだ」
「へえ? 集客力を買われたってことならまあ、わからなくもないけどねぇ。でも俺は今、他の誰でもないあんたに活動制限を命じられてる真っ最中でしょ。俺抜きじゃないとライブはできないよ。話してないの?」
「彼女が言うには」
 どうやら英智に話を持ちかけたのは女らしい。
「"ライブ"じゃなくて、"演奏会"。Knightsには自分たちの楽曲ではなく、音楽科が演奏するカバー曲を歌って欲しいそうだよ。音楽科とアイドル科の交流も兼ねてね。アイドルの商売はそのユニットが歌うからこそ輝く曲とダンス。その二つさえ押さえれば、通常のユニット活動との差別化が図れる。これは違反には当てはまらない、というのが彼女の主張だ」
 アイドルユニットとしての活動内容とは確かに少々異なる内容だ。けれども、結果的にステージに立って歌を披露するのならそれはライブと同じだろう。言い回しを変えただけの屁理屈に限りなく近い。
「……なんなのそのびっくりするくらいの屁理屈。天祥院はそれを通しちゃったの?」
「本人たちがそれで了承するならと。口がよく回る子なんだ。ルールの隙間を縫うのも上手い」
「安々と縫わせるなんてちょっと天祥院らしくないんじゃない?」
「僕は別に鬼ではないんだよ、瀬名くん」
 ふふふと笑う英智はどこまでも上品で、笑い方一つとっても良い家の子息という空気が出ている。しかし気をつけなければならないのは、良い家の子息の性格が良いわけではないところだ。その笑顔に裏に、一体何通りの悪巧みが隠れているのやら。
「条件は付けたよ。Knightsには、音楽科との合同練習にも、そこそこの時間を費やしてもらうことになる。音源での練習とは少し勝手が変わってくるからね。案外時間と手間がかかるこの案件、彼女が自分自身できみたちKnightsを説得できるなら、僕は今回その屁理屈を受け入れようと提案したんだ」
「はぁ、直接って……まさか、呼んであるの?」
「うん、もちろん。ちょっと到着が遅れているみたいだけど」
 当たり前だろうと言いたげに、英智が笑みを深くした。一方の泉に、笑える要素は一切ない。彼の企みが益々見えなくなったのだ。音楽科に協力することで彼が得られるメリットなんて大したことはないだろう。多少手を貸すくらいならともかく、ここまできっちり段取りをするなんて、かかる手間を考えれば本当に英智らしくない。
「そもそもなぁんかおかしいよねえ、天祥院のところに直接話が来るなんてさぁ」
「彼女はきみたちと直接コンタクトが取れる立場にはないからね」
「でも天祥院とはコンタクトが取れるわけでしょ? それに、ちょっと手際が良すぎない?」
「段取りは得意なんだ。敬人ほどではないけれど」
「なんであんたがここまで自分で動くのかって話をしてるんだよ。率直に言うと、目的が見えないの」
「疑り深いな、瀬名くんは。僕はきみたちと、彼女のためを思ってこの場を設けたのに。残念ながら、このイベントの先に、直接僕の利益になるようなものは何も残らないんだ」
「じゃあ善意100%だとでも言いたいわけ?」
「それは意地悪というものだよ。物事は白黒はっきりつけられるものばかりじゃないことを、きみもよく知っているだろうに」
 それは泉にしてみれば否定と同義だ。イベント自体が英智の利益にならなくとも、何かしら関わる意味があるに違いない。例えば直接的じゃなくても、間接的に彼が助かるといったような。音楽科への協力はともかく、英智の利益のために良いように動かされるのは少々どころではなく気に入らないシチュエーションだ。
 生徒会室の扉がノックされたのは、英智をどう問い詰めたものかと泉が頭を捻らせていたときだった。どうぞ、と英智が音のした方へ向かって声をかければ、間もなく扉がそろりと開く。そこから姿を現したのは一人の制服姿の──
「……な」
「失礼します。こんにちは、天祥院先輩。すみません、少し迷ってしまって遅くなりました。それで、ええと、そちらは……」
 ぴんと伸びた背筋、泉を見上げる涼し気な眼差し、品のある穏やかな物腰──その整った容姿の少女に、泉は強烈な見覚えがあった。英智に負けず劣らず、良い家の生まれを感じさせる仕草に、立ち姿。手入れのよくされているであろう黒髪を肩から払いながら、彼女は泉に向かってにこりと笑った。泉が向き合った一年前よりも、やや大人っぽく。二度目に彼女を視界に入れた一ヶ月前──DDDのあの日よりも、より楽しげに。
「はじめまして。音楽科二年、ピアノ専攻のミョウジナマエです。わたしたちの都合でお呼び立てしてしまってすみません。あなたはKnightsの……瀬名泉先輩、ですよね」
「そう、だけど……」
 何気なく告げられた「はじめまして」が泉の中で盛大に引っかかって、名前どころではなくなった。彼女と泉は、間違いなく一度はお互い至近距離で顔を合わせている。もっと言えば、彼女の方から声をかけてきたのだ。泉の姿勢と、容姿を褒めそやしながら。
「あんた、まさか俺のことがわからないとか言わないよねぇ? はじめましてじゃないでしょ?」
 まるで知らない人間と会ったときのような挨拶。人違いの線も疑いかけたが、それはすぐに霧散した。自分は彼女を間違えないという自信があった。彼女──ミョウジナマエとの短い出会いとやりとりは、泉の中では印象強いエピソードとして今も記憶の片隅に残っている。名前も知らない女との一やりとりなんてものをいつまでも留めておくほど無駄なことはないとわかっていながら。泉は、初対面以降彼女を調べも追いかけもしなかった。そこまでする必要を感じなかったし、当時それどころでもなかったからだ。それでも、彼女の姿は、交わした言葉は、綺麗な思い出として泉の中で生きていた。いつかの再会を囁かに願っていたし、実際互いに声をかけられずとも、DDDで再会は果たしたと思っていた。何故なら、あのライブで、彼女と確かに目が合ったはずだから。しかし。
「おや、二人は知り合いだったのかい?」
「いえ、初対面だと思いますけど。どなたかと人違いされてませんか?」
「はぁ?!」
 小首を傾げるナマエは、本当に泉を知らないようだった。きょとんとしたその表情が腹立たしい。泉を映す瞳は不思議そうな色だ。
「嘘でしょ? あんた一年前、俺に何言ったか覚えてないの? なんで覚えてないわけ? 俺の顔を一度間近で見ておいてあっさり忘れるとかあり得ないんだけど?」
「失礼ですけど、それは本当にわたしですか」
「ほんっとうに、失礼なんだけどそれ! 俺があんたを間違えるわけないじゃん!」
「瀬名くん。それは捉え方によっては、まるで情熱的な愛の告白のようだよ」
「なっ、そんなわけないでしょ! こいつが全然思い出そうとしないから……!」
 なんだか困ったように笑うナマエは、小さい子の我儘に付き合わされている姉のようで、泉としては歯がゆいことこの上ない。これはべつに駄々をこねているわけではないのだ。本来忘れることがないはずのものをすっかり忘れている、薄情なこの少女が悪い。泉は彼女に一歩近づくと、少し腰を折って顔を真正面から突き合わせた。ナマエは怖気づくでもなく、真っ直ぐ泉を見つめ返す表情には、生意気にも余裕がある。
「あんたさぁ、本気で思い出せないの? 俺は、一ヶ月前のDDDでもあんたを見かけたよ。あれは、俺を見に来てたんじゃないの? それとも、これも人違いって主張するわけ?」
 俺はあんたと目が合ったんだから、という泉の言い分にナマエは、はあ確かにDDDは行きましたがと気の抜けたような返事を呟いて。ううんと悩むような素振りを見せたのち、泉に向けて華が咲くような笑顔を広げた。
「なんというか、つまり瀬名先輩はわたしのことが大好きと。意外と可愛らしい方ですね?」
「ばっかじゃないの?!」
「可愛らしいは失礼でしたか」
「そこじゃないから!」
 反射的に口をついて出た声が、驚きで裏返りそうになった。自分がミョウジナマエを大好き? 図々しいにも程がある。そんな妄想は現実にありえないし、それをそのまま口に出すあたりが尚更ありえない。あくまで淑やかに笑んではいるが先程よりも幾分か細まった目が悪戯っぽく光った気がして、お嬢様然としているはずの彼女に急に食えない印象がつく。すみません、と悪びれもなく彼女は謝罪を口にした。
「目が合った、なんてまるでファン心理のようだったので」 
「逆ファン心理だ」
「天祥院は黙ってて」
 タッグを組まれるとややこしいことになる予感があった。今己がすべきことは、冷静になることだと泉は心中で繰り返す。こんな小娘の科白一つで取り乱すなんてプロ失格もいいところだろう、自分はそのような器ではないと示すように、胸を張った。
「は、妄想も大概にしなよ。俺があんたのファンなんじゃなくて、あんたが俺のファンなんでしょ」
「ははあ、もしや先輩照れてます?」
「ちょっと、都合のいい勘違いしたまま話進めないでくれない! ちょ〜生意気!」
 およそ依頼主相手には相応しくない言動に、ナマエが気分を害した様子はない。多少は害して欲しかったというのが泉の本音だが、この数分で学んだことは、彼女にそういうか弱さを求めても無駄そうということだ。泉の瞳を覗き込むように一歩近寄ってきたナマエは、どこか興味深そうなに問いかけてくる。
「ところで、一年前のわたしは、あなたになんと言ったんですか」
 脳裏にいくつかの過去の言葉が過ぎる。彼女から、贈られた言葉たちが。瀬名泉の生き方を、姿を、綺麗だと彼女は評した。この綺麗な少女に、本物の美しさを知っていそうなその目に、自分という人間を肯定されたとき、久しぶりに己の中の何かが満ちていったことが昨日のことのように、泉には感じられるのに。彼女の記憶の中に、己は残ることができていないらしい。
「……言わない。言うわけないでしょ、だって人違いかもしれないもんねぇ?」
「そうですか。それもそうですね」
 食い下がりもせず、さらりと引き下がった彼女の態度がまた泉の気持ちを揺らがせた。
「では、瀬名先輩。そろそろ本題に入っても?」
 丁寧ではあれども、そこに泉に対しての気遣いは薄い。慇懃無礼という単語がよく似合う少女だ。一年前から生意気さはあったが、今はなんだか冷ややかですらある。止まない苛々を抑え込みながら、泉はKnightsの瀬名泉として、彼女の話に耳を傾けることにした。

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