年々年越しという行事に抱く感慨は薄くなっていくのに、今は少々違った。この年に、離れがたさを覚えている。今からこの恋人を家まで送り届ければ、次に彼女と顔を合わせるのは年明けだ。そういうものに、らしくない感傷がある。
 年の瀬に周囲が浮ついていようとも、瀬名泉の恋人は普段と変わらないように見えた。昔から世間の有り様に左右されず、落ち着き払ってフラットで──というこれはただの彼のイメージで、案外そうでもないことを泉は時間をかけて知っていったのだけれど。
「子どもの頃は、一日をとても長く感じていたんですよ」
 おもむろにそんな話を始めた彼女の整った歩き姿を、泉は黙って横目で捉えた。姿勢の良さも然ることながら、きれいに伸びた後ろ足と、着地から次の踏み込みに移るまでの一連の重心移動の的確さは泉から見ても隙らしい隙がない。これが一朝一夕で習得できる類ではないことは泉が一番身にしみて理解しており、だからこそ”子どもの頃”と切り出された彼女の科白に、ついその目にしたことのない幼少期を想った。泉が自分を磨き高めるに至った理由はバレエ、キッズモデルといつだって大部分は自分のためで、そうであるべきだった。でも、彼女は。ミョウジナマエは、そうじゃない。
「長い長い一年の終わり……大晦日はなにも面白いことなんて無いのに、少しわくわくしていました。終わりと始まりに、期待があった。何かが変わるような、あるいは変えてくれるような」
 ナマエもまた横目で泉を一瞥し、口元が微かな笑みを描いたのがわかった。なにか変わったの、なんて酷な問いかけはしなかった。それは裏切られるためにある、泡沫の夢のような期待なのだ。流れ星に願掛けをする方がずっと現実的ですらある。歩き方を始めとした人生そのものを他人のために一度矯正した彼女の”期待”の重さは、察するに余りあった。
「いつからか、何も変わらないことを知りました」
 きっと、諦めと同義だ。泉も他人事ではない。足掻いても足掻いても光は見えず、周囲が変わらないのなら環境を変えようと決断した日が、過ぎった。
 今年最後の仕事を終えようとしている太陽が空から地上へ光を引き連れて行くのに比例して、月が空を目指し夜がやって来ようとしている。住宅街に並ぶ家々は温かそうな明かりを灯し、外の寒さとは無縁のようだ。辺りの明度は昼よりずっと落ちているのに、彼女の表情はやけにはっきりと見て取れた。見逃したくないと、泉が思ったからかもしれない。彼女をうつくしく彩る感情が悲観ではないことに、ややほっとして。冷え切った向かい風がナマエの長い髪を弄んでは去っていくのを眺めた。
「毎年少しずつ年の終わりにも始まりにも何も思わなくなって、一年を長いと思うこともなくなって。そういう話をおじいさまにしたら、年を重ねて知らないことが減ったからだと言われたんです」
「……小さい頃は情報量の多さに手一杯になるからねぇ。キッズモデル始めた頃なんかは、俺も毎回わからないことだらけで、一日がやけに長かったっけ。振り返ってみればあっという間だったけど」
「さぞ可愛かったんでしょうね、昔のいずみさんは」
「そんなの当たり前でしょ。ていうか、見せたことなかった?」
「ありませんね。今度遊木くんに頼んでみようかな」
「はぁ? なんっで目の前に俺がいるのにわざわざゆうくんに頼もうとするわけ? 喧嘩売ってる? 言っとくけど、ゆうくんには指一本触れさせないからねぇ?」
「いずみさんのそういう顔がたまに見たくなるからですね」
「……さいあく。あんた俺で遊ぶの悪い癖だから」
「癖というか、趣味の一環でしょうか」
「もっと最悪」
 ナマエはにこりと人好きのする笑い方にシフトして見せたかと思うと、写真は良ければ言い値で買い取りますよと緩やかに付け足した。なにが悲しくて恋人に自分の写真を売りつけなければならないのか。
 ナマエが、泉が執心する遊木真に対して何を思っているかは実はよくわからない。どちらが、ではなく一方が一方に、もしくは互いに興味を持つような構図自体が泉にとっては面白くなく、できれば接触はして欲しくないのが本音ではあった。
「それで、つまり今年も一年経つのが早かったってことなの?」
「いいえ」
 穏やかな否定が、泉の耳を擽った。
「今年は、そうですね、それこそ情報量が多くて。知らなかったものを、たくさん知りました。見えなかったものが、見えるようになりました。まだまだ自分は未熟で、できないことばかりなんだって」
「あんたにしては殊勝な感想じゃん」
「わたしはいつも殊勝なので」
 よく言う。とは思うに留める。
「長いようで短かった、と言うと月並みですけど……。今年は去年よりもずっと長い一年間だったように感じています」
「へえ?」
「いずみさんが、いてくれたからです」
 なんだかとても質量がある内容が、あまりにも自然に。別段もったいぶるような間を置かれることもなく、言葉にされた。歩く速度は速くも遅くもならない。
「……俺?」
「わたしに色んなことを教えてくれたでしょう。知らない場所に連れて行ってくれて、見たことないものを見せてくれたじゃないですか。年の始まりではなかったけど、とうの昔に失くしたわたしの期待は、あなたが叶えてくれたんですよ」
 つまりは、あなたが変えてくれたのだと。
「感謝を、しています。あなたの隣にいることを許してくれてありがとう、いずみさん」
「なにそれ……」
 時折、彼女が自分に向ける眼差しに乗った感情は、己には過ぎたもののように思えるときがある。羨望にも近い、なにか。泉には、ナマエの大げさな感謝に値することをしてやったつもりはなかった。要はただのエゴで、自分は大した人間じゃない。そんな後ろめたさがある一方で、決して気分は悪くないのだから自身の図太さには呆れそうになる。柔和に細められた緑の瞳が彼をなぞっては、前へと戻った。泉を肯定する目だ。今から自分が何を言おうと、彼女はそれを微笑んで受け止めるのだろう。大げさ、と一蹴してやろうにも彼女の言葉は真剣そのもので、けれども誇れるほどの自負もない。泉が口を噤みできた沈黙すら認めるように、彼女もまた無言を貫きつつ、泉の身体の前へと左手を寄越してきた。爪の短く切り揃えられた指へと視線を落とし、促すような目を確認して尚、泉は次の行動も言葉も躊躇する。いつだって彼女から求められることを、求めているのだけれど。いざそうなってみると、心臓に悪いから困る。
「手でも繋ぎませんか、お姫さま」
 やっと紡がれた彼女からの一言は、ちょっと格好をつけすぎだと思うのに、わりと様になっているからこの恋人は可愛くなかった。
「……ばっかじゃないの。いつも言ってるけど、べつに似合ってないからね?」
 ナマエの手を、ぺしりと払い落とす。直後に、「ほら」と今度は泉が手のひらを彼女に差し向ける。頼りない細い手が迷いなく重なって、冷たい指を握り込むと離れがたさがぶり返した。温もりを分け与えながら、ゆっくりと手をさげる。古びた洋館が視界の隅に現れ、別れが近いことを知らせた。もっと早く繋いどけばよかった。
「──俺も、ありがとうね」
 うつくしいと肯定してくれて。自分のエゴを優しく抱きしめてくれて。隣に、いてくれて。もちろん、ひとつも口にすることはなかった。絡まった指が自身の指をじわりとゆるく締め付けた。いつの間にか、その手を冷たいと感じなくなっている。
 今年最後の体温と見飽きない横顔とこの何気ない景色をそっと胸の奥に刻んで。名残惜しさに由来した感傷と新年への期待。泉は今この瞬間にしか訪れないそのどちらも、慈しんだ。

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