放課後という時間にいつからか自由を感じなくなった。学院生活に大きな不自由がないからかもしれない。自分はいつだってどこへでもいけるし、その権利を有している。羽風薫のその認識と現実は、厳密には違うけれども。息が詰まりそうなほど細かいルールに縛られた家の中に比べれば、彼にとって家の外はどこだろうと自由に等しかった。本当は外でも行動に制限が無いわけではないが、肺に取り込む空気を選べる分ずっとましだ。
好きなように、やりたいようにやる。たったそれだけのことが、なぜ上手くいかないときがあるのだろう。放課後を待たずに学校を抜け出すことに抵抗を覚えなくなって尚、なぜ隣の芝生はこうも青く見えるのか。きちんと整備されたような色をしているのに葉の長さはまばらで、窮屈さとは無縁のような青年を目にする度見せつけられるかのようだった。自由とは誰も囚えず誰にも囚われないことで、執着の行き先を絞らないことで、あらゆるしがらみを振り返らないことで。薫の目には一見それを体現しているように思える青年だったのだ、ミョウジナマエとは。彼の物腰は均一化されており、起伏らしきものがまるでない。誰とでもいたし、誰ともいなかった。彼は薫の知る限り、何も拒まない、何も追わない。後になって気付いた、ある一点を除いて。
「入りが早い。あと午後の授業はレコーディングの続きだろ。おれは先週録り終わってるし、エディットには口を出さない」
だから授業に出るだけ無駄なのだと。欠席の理由を問えば、まるでごく当たり前のことを主張しているかのような淡々とした口振りでそう答えられた。不必要だと切って捨てているその態度は、開き直りという表現すら不適当である。薄茶で覆われた両の目は、薫を見上げながらこの説明をさせる意図を問い返すようでもあった。春の匂いの混ざった温い風を浴びても彼の視線の温度が変わることはなく、低温を保ったまま瞬く。時折向けられるひやりとしたナイフを思わせる冷たさ。心臓の真ん中を冷風が吹き抜けていくような危うげな錯覚を押し付けておいて、本人は何事もなかったかのようにけろりとしていることがある。ひとに緊張を強いている自覚は果たしてあるのかどうか。何度顔を合わせても、その辺りが掴めた試しはない。
薫がこの不良生徒の隣を歩き始めたのは午後の授業が始まった直後の、夢ノ咲学院の校門からだった。早退の目的は同じだ。であれば、目指す場所も同じであることはお互い言うまでもなく。通い慣れた道を並んで歩く相手が並び慣れない男であることは率直に面白くないはずなのに、それでいて自分で思っているより嫌悪がないのも癪だ。彼の隣は、良くも悪くも涼しかった。それと不良のくせに、姿勢がいい。
「そういえばクラスの子に引き止められてたでしょ、教室で」
切り出したのは、彼が学院を出る前に見た光景である。教室にて口論と呼ぶには一方的すぎるし修羅場と呼ぶには穏やかすぎる一場面を、ナマエがクラスメイトと繰り広げていた。内容は聞き取りづらかったが、ナマエの早引きを諌めるような空気であることは察した。その相手とナマエが以前もやりとりしているのを何度か見かけている。いかにも自尊心と当たりが強そうな、きれいな顔にきつめの表情と口調を携えた同級生のひとり。
「ええと、確か……?」
「瀬名?」
「そう、瀬名くん……だったかな?」
投げ入れられた固有名詞によって、ぼやけていた記憶のピントがやや合い始める。完全に鮮明にならないのは、単に薫自身にそれほど興味がないせいだ。
「瀬名には、ユニットのレッスンに出ろって話をされた」
「授業じゃなくてそっちなんだ。瀬名くんのことはよく知らないけど、この学院の中じゃまともっていうか、真面目そうだしね」
「そう。あいつは、真面目なんだ」
ナマエがユニットに所属していたことは初耳だった。彼のユニット活動への貢献度合いは、ライブハウスのシフト表を見ていればおおよそ把握できた。そもそも、この青年がユニットなんて括りに縛られるイメージがつきにくいのだが。アルバイトとして小さなライブハウスに留まっているところから違和感が付き添っている。もっと言えば、アイドル科に在籍していること自体もそうだ。知れば知るほど、居場所を間違えているような気がしてならない。
なにも映さなかった横顔がどことなくたゆんで、瀬名は、と話す声にも微かな柔らかさが伴った。妙な変化に、薫の黄色がかった茶色の瞳がそっとまるくなる。
「先週のレコーディングのとき、高音外しまくったのをオートチューンに補正されて、キレてた。納得できるテイク出せないまま、今週に持ち越しになってて」
「補正してくれたならいいじゃん」
思い出されるのは、先々週に行った自身のレコーディング実習だ。レックブースとは三テイクそこそこの付き合いとなった。クラス内ではボーカル録音をスムーズに終えた側だ。そこから自身の声にどれくらいの修正がかかったのか、部分的な音の差し替えがあったのかは確認していない。ナマエじゃないが、エディットに口を出す気はなかった。本来プロデューサーの領分だろう。薫としては、夢ノ咲学院にはレコーディングの設備がなく最寄りの専門学校まで出向かなければいけないのが面倒で、とにかくこの時間中に終わらせることが出来ればそれでよかった。
アイドル科特有の授業であるレコーディング実習はクラス内で四人一組でユニットを作り、用意された楽曲でそのメンバーによるCDを出すという想定でレコーディングを実施する。そこに必要な過程や実際に録音する手順を覚え、現場に出たときに即対応できるようにするためだ。実践的な内容ではあるものの、あくまでシミュレーションであり本当にCDを発売するわけではないせいか、クラス全体通して緊張感はごっそり欠けていた。薫から見ても、真剣に取り組んでいるクラスメイトの方が少数だ。
「音源だけ綺麗に整えてライブで再現できないもん作ったって観客をがっかりさせるだけでしょ、らしいよ」
「まあそれは確かにそうだけど……」
「真面目だろ」
それは、相手を馬鹿にするような響きではなかった。
「おれは昔から好きだ、泉のそういうところ」
「────」
尊敬の込められていそうな言い回しでありながら、あくまで他人を語るような素っ気なさはまとったまま。ナマエの目や唇の些細な動きに温度が見て取れて、淡白で冷めた彼の印象をひっそりと和らげる。
「表現者として。あるべき姿だ。技術は、追いついてないけど。いつか、ついてくるよ。そしたら上へいける。道筋が、見えそう」
続けた彼の科白は、昔馴染みの意識の高さを称えるだけのシンプルな構造ではないように聞こえた。確信めいた期待と、まだ見ぬ場所へ旅立つ日を待ちわびるような、その先に在るものへの好奇心。ただし旅立つのは、きっとナマエ自身ではない。他人が上へいく道筋を見出し、どこか興味深そうに、あるいは誇らしげにしているところを見ると、恐らく。
「随分クラスメイトを俯瞰して見てるんだね? ナマエくんだってだってアイドルで、表現者でしょ。同じ土俵にいるはずなんだけど、まるで全然違う場所にいるみたいだよ」
「おれはたぶん、バンドの相手してるから。勝手にそういう考え方になるだけ」
「ふうん? 確か面倒見てあげてるバンドがいくつかあるんだっけ。話聞いてる感じ案外熱心だよね〜」
「熱心かはわからない。でも、面白いよ。ひとを動かすのは」
一応地下ライブハウスにおいてナマエの上司に当たる薫には、その気持ちは理解できずともナマエがそう考えるに至る経緯はだいたい想像がついた。ナマエは、薫が仕切る地下ライブハウスの音響スタッフだ。加えて、バンドマンだった頃の経験を活かせと店長から一部ブッキングの仕事も回されている。
箱主催のイベントへの出演依頼とイベントの制作。ブッキングの主たる業務は書き出せばそんなところだが、大抵そこには担当バンドの世話が伴う。バンドマンが音楽を飯の種にするべくアマチュアから次なるステージへ上がろうにも、彼ら単身でできることは案外限られている。演奏技術の高さは正義だが、上手いだけで勝手に売れていくほど易い世界ではなかった。さしあたって知名度を上げるのに必要なのは活動方針であり集客の手段であり戦略であり繋がりである。ライブハウスがバンドを育てるとはよく言ったもので、彼らがメジャーに辿り着くまでの手段と助言と繋がりを授けてサポートするのは、所謂ブッカーであることが多い。ナマエが任されているのは、そんな仕事だ。荷が重いようで、気負う様子はない。面倒事を歓迎してはいないのに、忌避する素振りもない。
「……ナマエくん実は向いてるのかもね、そういうの」
「どうかな。まだ結果は出てないし」
「結果をちゃんと出す気でいるんだ?」
「……? そうじゃなきゃ、面白くない」
やっぱり熱心じゃん、は喉の奥から出てこなかった。ナマエの言葉を借りるなら、”表現者”とその手の関わり方をしている彼はそもそも見え方が違うのだろうと薫は思う。バンドもアイドルも、方法は違えど観客を相手に表現するという意味では大きな違いはない。どちらも、大半はボランティアではなく、披露したパフォーマンスの対価として大なり小なり金銭をもらう。ひとりでも多くの人から支持され金を生むなら──つまりビジネスにするなら、需要というフィルターを通してパフォーマンスを評価しなければならないのは自然なことだ。ナマエは、そういうものを”知っている”。アイドルを目指す学院に入学する前から、評価される立場だったらしい。あれは才能に対して薄情なんだ、持て余してる、と言ったのは店長だったか。少しずつ知名度が上がってきた所属バンドをすっぱり辞めた彼の意志の中身は、誰も知らない。
もしかして才能にすら縛られたくないのかと。その話を聞いたときはそんな感想をこねくり回してほんとわからない子だなあなんて、思い流したものだ。誰も囚えず誰にも囚われず、執着の行き先を絞らず、あらゆるしがらみを振り返らない。こうして思い返せば、振る舞いのマイペースさが曖昧にしているけれども結局彼は地下ライブハウスという場所に好んで囚われている。バンドに手を出して、アイドルの学校に通って、バンドを育てて──執着の行き先を、探しているようでもある。その印象がどこまで正しいものなのか、今の薫には判じられない。あやふやな本質を見極めるようについ目を細めたとき、こちらを見上げてくる必要以上に整った顔に、珍しく明確な不服さが浮いた。
「それより。あんたおれの出した発注リスト半分却下出しただろ。なんで」
「え、発注リスト?」
発注リスト、と唐突に突きつけられた業務的な単語には思い当たる節がわりとあったので、エクセルのシートに並んだ内容を記憶の海の浅瀬から引っ張り出す。経営にあれこれ口を挟むつもりはなかったものの、たまにはと軽く目を通したリストに明らかに不要なものがあれば黙っていられなかった。
「あのやたら高いシンバルがいくつか入ってたやつ?」
「シンバルは高いものなんだ」
「うん、そうじゃなくてね。そもそもなんであれが通ると思ったの? 店長は危うく通しそうになってたけどさ。まだ予備があったのは俺でも把握してるからね?」
「あれを予備として出すならフライパン叩く方がずっとましだから」
「好みの範疇でしょ」
「フライパンと叩き比べて」
「比べない。予備がなくなってから出直してきてね」
「ケチ」
「あはは、女の子の我が侭は可愛いから聞きたくなっちゃうけど、男の我が侭ってうざいだけだな〜」
予備として店舗で保管してあるシンバルのメーカーが気に入らないようだが、そんなものをすべて聞き入れていたら消耗品の予算はすぐに規定値を越えてしまう。ケチ、を繰り返されたが右から左に流しつつ、眉を潜めて鼻白む青年を横目で盗み見た。思わぬところで拘りを見せる彼の姿が年相応どころか年下のようにすら見えたのがなんだかおかしかった。同じ教室で授業を受けて、同じライブハウスで仕事をして。顔を合わせる機会は増えても付き合い方が深くなるものでもなく、急にお互いのことがわかるようになるわけもない。それでもふと垣間見える側面は、教室ではどこか浮世離れして鑑賞に向いた美術品のように見えた青年を、薫に同じ人間だと意識させた。一時、雪の積もる野原と凍った大木を──冬の静けさを描いた絵画のようだと思ったことも、あるけれど。部屋に飾る絵画にしては、華はあっても愛想がない。あと男は嫌かな。などと。
向かい側からこちらに向かって歩いてくる学生服の女子二人組が、薫たちを振り返るなり目を輝かせた。アイドルを目指す学院に通ってはいるものの別段知名度があるわけではないので、きっと単純に容姿が目を惹いたのだろう。薫が彼女たちを順に見やりすれ違いざまにひらひらと手を振っている間中、ナマエは興味無さそうに車が行き交う車道を眺めていた。花より車。
「手くらい振っといたらいいのに。減るもんじゃないし、寧ろ増えるよ?」
「なにが」
「やる気とか」
「シンバルは」
「いやだから買わないってば。枯れてるなぁ、もっと遊んだ方がいいんじゃないの?」
「間に合ってるから」
「……間に合ってる?」
なにそれ詳しく、と食いついたら、煩わしそうに再び眉が動いた。よく見ると、結構起伏はあるのかもしれない。