ピアノの音が生きている、と言えば正しいのだろうか。己の耳が感じ取った音に対する、正確な表現の仕方を泉は知らなかった。泉はナマエが奏でる曲に覚えがなかったが、それでも彼女の音楽はとにかく卓越した技術をもって成されていること、同級生や下級生たちが彼女の言葉に従う理由は、漠然と理解できた。
単純に難しい曲をミスタッチなく弾きこなしているから上手に聴こえるだけでもない。一音一音が洗練されて、無機質な音とは程遠い仕上がりだ。スピードの緩急、鍵盤を叩く指の強弱、それらをきっと恐ろしいほどの精度で弾き分けているであろう彼女の音色には、素人の耳でも表情豊かに感じられた。曲のことなんてなにひとつ知らないはずなのに、その中身の想像を掻き立てるような、退屈に思う間もない音の連続。
泉が先程ガラス越しに見たナマエの顔は強張っていたと記憶しているが、今の彼女がそんな切羽詰まったような陰を見せることは一瞬たりともなかった。寧ろ穏やかそのもので、華やかなメロディをより良く見せていたし、時折泉の方を一瞥する余裕もあった。この曲がここまでの色を出せるのは、彼女がそもそも視線や表情で場の空気を塗り替えることを得意としているからだろう。顔合わせや合同練習においても、あの空間の雰囲気を作り上げていたのは彼女だ。ナマエの特技はなるほど、こういうところでも活かされているらしい。彼女は涼しい顔をしているけれど、重ねられ続けた努力が、端々にうかがえる。才能があったとしても、これが一朝一夕で出来るものではないことくらいはわかる。
彼女の作り出す音の波は、単純に心地よかった。うつくしいひとが生み出すものは、やはり技巧を凝らしたガラス細工と同等に、見惚れるほどうつくしい。そんな耳を惹く艶やかな音と、演奏者の姿とが合わさって、ひとつの作品として完成されているように、泉には思えた。ずっと浸かっていたくなるような波は、心のどこかに持ち続けていた緊張を解いていく。ああ自分は疲れていたのかと、ぼんやり考えた。そして、気が付いたら──
「起きてください、瀬名先輩」
「…………ん?」
「おはようございます。よく眠ってましたね」
寝こけていた。
*
「さいっあく」
「まだ気にされてるんですか」
21時を少し過ぎた空は、冬よりも日が高くなった春とは言え、さすがに暗闇で満ちている。天気は昨日からの曇り続きなので尚更だ。天高くからこちらを見下ろしているはずの月も、その姿をすっかり隠していた。夜の住宅街に光を注ぐのは、外灯のみ。共に学校を出た泉とナマエが並んで歩くのは、そんな夜道だ。
泉は盛大に機嫌を損ねたまま、通学の相棒であるバイクを押して進む。バイクに乗せて帰ってやってもいいと提案したが、家の人間に見られたらまずいとナマエが苦い顔をしたので、仕方なしに徒歩での送迎となった。
彼の機嫌の良し悪しを左右しているのは他でもない隣を歩く少女で、彼女は不機嫌さを出し惜しみしない泉と目を合わせても、変わらず平常運転である。こちらの顔色をうかがうような素振りもないのが憎たらしい。誰が隣に立とうと、彼女はずっとこうなのだろう。真っ直ぐぴんと伸びた背中は、彼女の育ちがよく表れていて、隙がなかった。性格はやや歪んでいるようなのに、こういうところは"きちんと"しているのだから、Knightsの末っ子同様裕福な家の人間というものは少し性分のつくりが複雑だ。
「意外……でもないのですけど、根に持ちますね」
「喧嘩売りたいの? 買うよ?」
「いえまさか」
にこやかな否定は、どう捉えられようがお構いなしといった様子だった。からかうような軽薄さも滲んでおり、先輩へ向けるものにしては敬意がだいぶ不足している。ちょーうざぁい、と口癖を零せば、まあまあと宥めるようなのんびりとした声が投げられた。誰のせいだと思っているのか。
「音楽の中でもクラシックは特に脳と身体が心地よいものと感じやすいそうですよ。リラックスした状態になりやすいんです。わたしもコンサートへ行くとたまに意識が一瞬途切れてますし。疲れていたなら、尚更ですよ」
「……ふうん」
クラシックにはよくあることだと説明するナマエに、今度は泉をからかう気配はなかった。言われてみれば、決して退屈だったわけでもないのに、気付くと瞼が落ちていたのだ。後輩からのフォローも、彼女の音楽で気が緩んだかのような受け取られ方も気に食わないものの、あの現象に理由付けがされるのなら、そこは泉にとってそう都合が悪いものでもないだろう。
「つまり、先輩はわたしのピアノでリラックスしてくれたんですよね。演奏者冥利につきます」
「……退屈だっただけだからぁ。調子に乗らないでくれる?」
「騒音ではなかったと」
「俺はどこででも寝られるし?」
「かわいい寝顔でしたねえ」
「今すぐ黙りな」
あとはこのナマエに寝顔を晒してしまったという失態がなかったことになってくれれば言うことはないのだが。寝起きにも言われた「かわいい寝顔」の屈辱といったらない。さっさと消し去ってしまいたい記憶だ。
「それで、練習は上手くいったわけ?」
「ええ、とても。実は、近頃少し調子が悪かったんですけど。でも瀬名先輩の前では、ここ最近で一番の演奏ができました」
「へえ? つまり俺のおかげってことじゃん。たくさん感謝してよねぇ」
「はい。ありがとうございます」
半分ほど冗談のつもりだったのに、存外真面目に肯定されてしまった。自分のような素人が彼女の演奏に影響をもたらせたなんて思えるほど、目出度い頭ではないつもりだ。形のいい横顔を軽く睨んで、泉は唇を尖らせる。
「ちょっと、適当に持ち上げてない?」
「いえ、本当に瀬名先輩のおかげですよ。たぶん、先輩といると……引き締まるので?」
「はぁ? なにが? 漠然としてて全然わかんないんだけど。褒めるならもっとちゃんと褒めなよ。あんたどれだけ語彙力ないのぉ?」
「……あはは、すみません、ちょっと色々失言でした。今日は勘弁してください。上手く言えそうにないんです。なんて言うのが正解なのかわからなくて、こういうの」
物をはっきり言うナマエにしては、歯切れの悪い話し方だ。
「なんなのそれ──」
ふと目が合った瞬間に、自然とそこから先の科白が消えていく。苦笑いで泉を見上げる彼女の瞳が、薄暗い中でもなんだか眩しいものを見るようにそっと細められていたから。そこに既視感のある、輝きを見た気がした。こういう目を、泉は知っている。一年前、彼女が自分に声をかけてきた時だ。瀬名泉を綺麗だと語り、真っ直ぐだと評した時と、おんなじだ。
どうして今そんな風に彼女は泉を眺めるのか、それを問うための言葉が喉まで出かかったが、寸前で押し留めた。聞いたって意味がないと、思い直したのだ。なぜなら、ミョウジナマエは、瀬名泉を覚えていないはずだから。
「────」
妙な空白の間が、二人に落ちる。泉は何か言いたげな顔をしていた自覚があったし、ナマエもそれに近い空気があった。二人の間に横たわるのは、不思議と嫌な気まずさではない。なんだかこそばゆくなるような熱を帯びているのを、視覚と触覚で感じた。己からも、相手からも。自分とナマエは同じものを共有していると、あまりにも都合の良い錯覚をした。だって、これでは、まるで。
「──練習は、どうですか?」
やがてゆっくりと視線を正面へと戻していったナマエが、落ち着き払った声で泉にそんな質問をした。そこには何の動揺も、熱も宿っていない。最初からそんなものなど存在しなかったかのように、さっぱりとしている。話の転換は唐突だったのに、切り出し方と話し方が自然過ぎて、一瞬違和感を忘れた。
「そこは練習じゃなくてピアノの感想を聞くところじゃないの?」
「でもピアノの感想なんて求められても困りません?」
「俺にはどうせわからないって言いたいわけ」
「見事に喧嘩腰で受け取りますね」
「俺の受け取り方が悪いんじゃなくて、あんたがずっと生意気なのが悪いんだからね?」
「それはすみません。日頃の行いって大事ですね」
簡単に謝罪しながら笑うナマエの場合は、わかっててやっているだろうからタチが悪い。どんな嫌味をぶつけようと大した効き目がないなんて、可愛くないにも程がある。そんな可愛げのない後輩が泉を横目でちらりと見て、言葉を継ぐ。
「天祥院先輩から、Knightsはしばらく練習もライブもお休みされていると聞いていました。勘を取り戻すのに時間がかかるものだと思ってましたけど、心配はいらなかったみたいです」
「当然、俺たちを誰だと思ってんの。確かにブランクは少しあったけど、俺たちがそれを他人に気付かせるような出来のまま合同練習に参加するわけないでしょ〜。まだ完璧じゃないし、改善の余地はあるけどさぁ、次までにもっと仕上げておくから」
「それは心強い。持ち曲が使えなくとも、案外モチベーションに変動はないんですね?」
持ち歌ではないというのは、いつもの練習と勝手が違う分多少は苦労する。けれども、今回はその苦労を上回って、アイドルらしい活動を出来るという部分がみんなのモチベーションを底上げしている。
「そこはほら、しばらく歌もダンスもさせてもらえなかったからねぇ。水を得た魚と言うか、みんな心なしか生き生きして練習してるよ。かさくん以外は新曲に合わせるのも慣れたもんだし」
今は不在の"王さま"の顔が、瞼の裏を掠めていった。
「……だから、こういう機会を用意してくれたことは、ちょっとだけ感謝してやらなくもないよ。ミョウジにはむかつくことも多いけど。俺じゃあ天祥院に交渉なんて出来ない上に、そんな立場でもないからねぇ」
今回の案件、なにかしらの条件がひとつでも揃わなければ、実現はなかったはずだ。音楽科がオープンスクールでアイドル科をゲストとして呼ぼうとしなければ、ナマエが天祥院英智と関わりが無ければ、音楽科がKnightsを指名しなければ。まだもうしばらく、奉仕活動に勤しむ日々が続いていただろう。DDDでの行いは、泉が必要だと思ったから独断で決行したことだ。自分が正しいと信じたことをした。そこに悔いはない。しかし、その軽率な行動と、失敗のつけをユニットのメンバー全員を巻き込んで払う形になったのは、泉の望むところではなかった。
「天祥院から聞いてるだろうけど、活動停止は元はと言えば俺のせいだから。俺がやらかしたことが原因でKnightsには苦労させてるって自覚はこれでも一応あるつもり。これは、それを踏まえての感謝ってやつ」
「感謝……」
「なんて、あんたにこんな話しても仕方ないけどさぁ」
「……先輩のせい、ですか」
ナマエはDDDを見ていたし、天祥院からも話を聞いているなら事態はおおよそ把握しているだろう。そのはずなのに、なぜか腑に落ちないといった様子で、口を開く彼女の表情はどこか冷えていた。音楽科の教室で、ナマエがひそひそと話す生徒を黙らせたときのような、静かな緊張を薄く纏わせて。これはわたしの主観ですが、と彼女はつまらなそうに前置きをして。
「先輩は、勝てばよかったんです。誰にも負けなければよかった。圧倒的な実力差でもって。そうすれば、先輩の行いなんて大したものにはならなかったのに」
「……はぁ?」
平然とされる偏った主張に、耳を疑った。泉を茶化すわけでもなく、それが揺るがない事実であるかのように彼女は語る。
「利益は百難隠すと言います。勝負はフェアでなければいけませんが、結果を出せば正義なのもまた事実。勝利していれば、あなたたちの発言も行動も、勝手に善行だと変換されていたかもしれない。正義と認められたかもしれない。古来から大衆とは、そういう無責任なものなので」
ずるをして勝て、ではない。ずるをしてしまったことをハンデとした上で、勝てと言っている。本気で、泉の行いそのものよりも勝てなかったことが真実悪であると。勝利さえあれば、万事解決とでも言いたげに。それを優等生のような振る舞いをしてきた彼女が主張するのは、妙な嵌らなさが拭えない。
勝てばよかった、なんて簡単に言ってくれたものだ。それが容易でなかったことは、DDDを見ていた彼女も知るところだろうに。あれは泉一人の力でひっくり返るものでもない。そもそも、小難しい言い回しをしてはいるものの、内容はまるで子供の言い分である。つまり勝った方が正義。それはひとつの真理なのかもしれないが、終わったことに対して大真面目に主張してくるのはどうかしていると泉は思う。事実として、Knightsの活動停止はTrickstarに負けたからではなく、泉の行動が原因だ。そこはどうあっても動かない──なぜそんな当たり前のことを、彼女は受け入れないかのような言動をするのか。当人よりもどこか悔しげですら、あった。
「彼らがKnightsを求める声が大きければ、学校側も活動停止を考え直したかもしれませんよね。あの時のステージを見ていて思ったことは、そんなところです」
「ねぇ、いい加減にしてくれる?」
遮るような科白は、ため息を伴っていた。苛立ちよりも、呆れの方が泉の感情を染めている。急に、目の前の生意気な少女がどうしようもない我侭を訴える子供に見えた。らしくない。随分と好き勝手なことを言われているし、不快さは確かにあるわりに泉の言葉に怒りが真っ先に乗らないのは、そのせいだ。見ず知らずの人間に言われれば思うことはまた違っただろうけれど、相手はミョウジナマエだ。彼女は、慇懃無礼なきらいはあるが、ゆるそうな第一印象に反して基本的には合理的で賢い人間だと泉は認識している。だからこそ、突拍子もないことを言い始める彼女は、どことなく不安定に映った。
「自分で言ってておかしいと思わないの? どんな状況下であれ、完璧なパフォーマンスが出来なかったのはこっちの責任だし、勝てなかったことは事実。そこに言い訳するつもりもない。したってしょうがないしねぇ。あんたに言われるまでもなく、結果がすべてなんだから」
本来ああすればよかったこうすればよかったと、その手の仮定に意味がないことがわからないほど、彼女は馬鹿ではないはずだ。
「でも、活動停止はどっちにしろあったんじゃない。それについては俺が悪い。たったそれだけの話でしょ? もう終わったことだよ。俺はこの処分に文句をつけてるわけでもないし、ミョウジに感謝してやろうって話をしようとしただけなんだけど? なのに、なんなの。あんた一体何に拘ってるわけ」
「……拘ってるんでしょうか」
「拘ってるじゃん。ちっちゃな子供じゃないんだからさ、聞き分けて、受け入れたら。……って、なんで俺がこんなこと言わなくちゃいけないんだか。勘弁してよねぇ、まったく。すっごく不愉快──どうかしてる」
本当に、どうかしている。不愉快なのに、突き放し切れない自分が。ナマエは再び泉を視界から締め出していた。前方だけを見つめる彼女の表情はなんの色を示すこともなく、ぼんやりとしたように、彼女はつぶやく。
「瀬名先輩は、大人です。真っ直ぐ、ですね。割り切ってる。わたしは、先輩の仰る通り。どうかしてます」
眉を下げ、口だけでゆるりと笑んでも、それでもナマエの目は瀬名泉を捉えようとはしなかった。その笑い方は自嘲とも見て取れたが、彼女の真意はわからない。ただひとつ確かなことは。
「だからね、わたしはあなたに感謝してもらえるような人間では、ないんですよ」
それは、限りなく拒絶に近かったということだ。