「あ、ナマエだ! ナマエ〜! ちょっと待って! そこを動くなよ、すぐ行くから!」
 それは流れ星のように明るさを放ちながら雑な放物線を描いて、こちら目掛けてすとんと落ちてきた。ように見えた。靴底のゴム素材がタイルを力強く踏みしめる騒音がこだまする。階下に到着するまで三段を残し、ミョウジナマエを呼び止めた相手は、一秒だって惜しいといった様子で段差を一段ずつ丁寧に降りることをやめてしまった。階段を一足飛びで降りていく人間を見る機会は、夢ノ咲学院を卒業して以来なかったことだ。大人の割合が高いこのESビルでの振る舞いとして決して正解ではないが、ナマエには別段不正解だと主張するまでの興味もない。ただ、夢ノ咲学院の階段ほど陽の光の届かないビルの薄暗さがその瞬間だけ和らいだ気がしたことは、認めていた。
 ナマエは一時同じユニットメンバーであった青年がばたばたと慌ただしく自分との距離を詰めてくるのを黙って眺めた。青々とした葉よりも黄味がかった彩りの両の瞳が邪気のない光を湛え、己の姿がそこに混ざるのを、じっと。埋もれかけた記憶の底の方で蘇るのは、心地よい冷ややかさだ。残酷さをそれと自覚しないから、きっと加減を知らないのだと思った。遠い夕方だ。淡い陽を照り返しながらも温もりを寄せ付けない青柳。傾倒して転がり落ちていく様を、どこか羨ましく見ていた。綺麗に詰んでゆくその最後まで。己の価値観だけは相容れなかったけれど。
「ナマエ、いま暇か? 暇だろ?」
「人生において暇だったことがない」
 色ばかりが同じであの頃とはちっとも重ならない瞳が、これでもかとまるくなった。ナマエに言わせれば、"うるさい色"が視界の真ん中で忙しなく揺れる。緩く後ろで一括にされた髪が青年のパーカーの外側へ飛び出して、白い布地に橙を散らしていた。ナマエの視線の先などお構いなしに、むう、と眉をひそめた青年はやや大げさに首を傾けて。切れ味の薄い切り返しに、納得いかないと言いたげに唇を尖らせもしていた。仕草も、ついでに顔つきにも服装にも少年のようなあどけなさを見て取りながら、ナマエは投げられる言葉を清聴する。
「ナマエが? 暇だったことがない? おれといつ顔を合わせても、永遠の命をもらった神の民みたいに退屈そうで今にも死にそうな顔してまともに相手してくれなかったくせに!」
「神の民ってなに」
 つまり余程暇に見えていたようだが、その手の自覚がナマエにはあまりない。寧ろ時間に追われていた方だったと思う。この月永レオと比べたら、大した忙しさではなかったかもしれないけれども。
 右手に鉛筆、左手に五線譜を構えてビル内を練り歩いていたらしいレオは、今日も忙しいのか暇なのか他人からでは判断がつかない。彼がよく同じ装備で、難しい顔をしてビル内をうろついているのをナマエは何度も遠目に見かけている。そういうときのレオに、ナマエが自分から声をかけたことはなかった。かけないと、誓っていた。最近レオから声をかけられるときは、大概面倒事が後ろから付いてくるからだ。おまえは朔間零か。
「暇と退屈は違うだろ。それで、要件は」
「やっぱり相手にしてくれない!」
「要件を十字以内に。できないなら、さようなら」
「おれとスタジオ!」
「いやだ」
「七文字に収めたのに! ナマエの嘘つき!」
「三文字に収めたおれの勝ち」
「えー、勝利条件の後だしはフェアじゃないな。ナマエの意地悪!」
 レオが右手で時折癖のように回していた鉛筆の先端が、不意にナマエの方へと向いた。きっちり削られた真っ黒い芯の鋭さは、彼の目つきのそれとどこか似ている。迂闊に触れれば、まだ痛い目を見せてくれると信じたくなった。攻撃の意図のない黒鉛と見合いながら、ナマエは薄い唇から小さく息を逃す。逆さに振っても歓迎の意は出てこないし、ナマエがそれを取り繕う気もないことくらいレオにも察することができるだろうに、彼には撤退の気配が微塵もない。
「──だいたいスタジオって言うけど。また一生おまえの要望に応えさせられる耐久スタジオだろ。いやだよ。練習見るだけって言っておいて、それこそ嘘だったろ、このまえ」
 たまにはリズムから曲を考えてみたい、と。以前霊感の掴みに行き詰まったレオに懇願されたのは、ナマエの個人練習の見学だった。黙って見てるだけならとの条件付けは欠かさなかったのに、結果としてこの男が口を挟まないわけがないと気付けなかったことを悔やまされた。次から次へと唐突に指定される拍子変更やフィルインのタイミングを、やや意地になって裁き続けてしまった。トレーニングとしては悪くなかったが、これだけで四時間も付き合わされては本来のサポート曲の暗譜もままらない。なんでこんなに遠慮がないんだ──月永レオだからだ。
「だってセナがいないんだもん! あいつずっと海外海外海外って! だったら幼馴染のおまえが付き合ってくれたっていいだろ。寧ろ使命だ。メロスだって友のために走ってる。なぁ、メロス!」
「どちらかと言うとメロスは瀬名だろ」
「配役は大事だけど、おまえらに限ってはどっちが走るかなんてさして重要じゃないだろ! 証明してみろメロス、信実が空虚な妄想じゃないと! 荒れ狂う波に抗って、山賊の血を返り浴びて、殺されるために血反吐を飲み込んで走り抜いて戻って来い! そしておれを仲間にしろ! ここにメロスは激怒したっ!」
「激怒してんの月永じゃん」
 今度はレオの歌うような伸びの良い声が、反響しやすい階段に満ちる。自称どちらかというとセリヌンティウスは、激怒はなくともうんざりとはしていた。どちらが走るかは重要ではないが、どれだけ走ったかは大事なことだろう。なぁ、王さまのひと。よく通る音を前にしつつ、自分たちを見つめるカメラのレンズの視線を、背にしつつ。
「てか、そもそも今回のスタジオはスタジオでもレコーディングのほう! 依頼主に送るデモ音源にどうしてもカホンの音が欲しい。あ、おまえカホン叩ける?」
「それ早く言って」
 立派な仕事だ。話ががらりと変わってくる。しかし、カホン。
「ドラム叩けるならカホンもいけるよな! おなじ打楽器だしさ」
「その認識は変えた方がいい。おれのカホン歴は少しだけ。けど、それくらいDAWのプラグインがあるだろ。金があるなら、おれの付け焼き刃よりそっちがいいよ。たまには経済回しといたら、自己投資で」
「うん、でもプラグインはおれの細かい注文聞いてくれないじゃんっ! 口で言ってもわかんないやつばっか!」
「うんソフトだから」
 レオがデジタルに手を出したのは在学中だったはずだが、卒業から半年経った今もまだアナログの融通が恋しいようだった。今度はレオの片手の自由を奪う五線譜が、その切っ先をナマエに定めた。紙切れと言えども、人の肌を割くくらいの鋭さの持ち合わせがある。
「だからおまえに金を使う。そっちの方が有意義だし、時間の無駄もない! 今日からおまえがソフトだ、ナマエツールス!」
「おれはプラグインの方だろ。べつにいいけど。高いよ、おれは」
「金ならあるから! ここで経済回しとく!」
 おれとおまえの間で回してどうするんだ──胸に留めて溶かした。レオとの会話は時間の勝負だ。大抵長期戦になれば押し負ける。正確には、相手をするのが面倒になるので結果的に従う他なくなる。その辺りは出会った瞬間に詰む朔間零との大きな違いではあるが。ナマエからすれば、どちらも相性の悪い相手という一括りだ。早めに妥協できるところはしておいて、さっさと交渉に持ち込むのが吉だと彼は学んでいる。
「まあ今回はいいよ。カホンはギャラ取れるほどやってないから、飯一食奢りで。その替わり、ミックスいじらせて」
「やだ!」
「なんで」
「2文字に収めたからおれの勝ち」
「フェアじゃない。気は済んだ?」
「いや普通に無理だ。お断り。ノー」
「…………」
 ごく真面目な顔つきで、ちょっとだけ申し訳無さそうに、レオが温度のある目を細めていた。冷静に切って捨てた言葉とは裏腹に。人を振り回して無理難題を言い付けていたかぐや姫が、急に難題の度合いを現実的なラインまで引き下げにきたような心地だ。そんな顔するなよ、と地球生まれ地球育ちの男が苦笑いを浮かべて、切っ先ではなく紙きれの面がナマエの肩を何度かかすめてゆく。今己がどんな顔をしているのか確かめる術はない。
「今回結構時間ないしな。あとおまえのミックス聴いたことあるけど、仕上がりだいたいロックになってるんだもん。Knightsのライブのオペのときはオケとそれぞれのボーカルのバランスが絶妙だったのに、楽器が入ったレコーディングだとそれが崩壊してる。具体的に言うとギターとドラム贔屓がすごい。デモ音源だけどさ、おれのイメージに沿わすのは今のおまえじゃ無理だと思う」
「……真摯に受け止める」
 心当たりはそこそこあった。
「急にしおらしくなったな! おととい来てみろ、セリヌンティウス!」
「処刑されたからしばらくはいい。あの世から出直す」
「もしかしてへこませちゃった感じ?」
「真摯に受け止めてるだけ。仕事に口出して悪かった。カホンの練習してくる。譜面送って。一時間で仕上げる」
「プレイヤーとしては頼りにしてるから!」
 紙きれに替わって生身の手のひらが数回に渡り、ナマエの肩に攻撃に近い圧力をかけていた。今度は情けなさにうんざりしながら、細いその手を力なく払う。やるせなさを押し留めたら、なぜか唇の端が上に向いた。レオが目を見開いて、子どもみたいな顔のつくりに益々幼さを滲ませている。おまえこそどういう顔だそれ。
「それはどうも」
 抑え込んでいた焦りが時々、表に出てきて悪さをしている。認められたい分野と、認められている分野が違うこと。勉強を始めてまだ間もないナマエの能力が、圧倒的に仕事で求められる領域に到達していないと。それだけのことが、飲み込めていない。時間をかければできないことなどないと思っていた。ただそこにかける時間が、自分には不足している。やりたいことを続けるには、やりたいことを行う時間を削らなければならない。夢ノ咲を卒業してから、初めて己が回り道を嫌う性分であることを知った。けれどもきっと、これでやり方も進む道も合っているのだとも、思う。退屈は、もうそこにはないから。
「たまには連絡してやれよ、セナにも」
「なに突然。あいつ妹の結婚式で忙しいらしいけど」
「メロスじゃなくてセナの話だってば! おまえから連絡しなくていもいいけど、電話くらい出てやれよ。じゃないと、その内おれから言うからな、ナマエのこと」
「脅すなよ。この暴君」
 ナマエが回り道を全速力で駆けたツケに直面していることを、この幼馴染の友人は知っている。いつまでも逃げ続けられないことも、共通認識だ。呆れたように嘆息するそのときだけ、レオがいつもより大人に見えた。人を振り回しているのは、たぶんお互い様だった。近いうち、幼馴染の雷が落ちてくるだろうが、それは今じゃない。レオの横を通り過ぎると、ナマエは人気のない階段を一足飛びで駆け上がる。まるでいずれ来るそのときから、一秒でも長く逃げるように。

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